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「カーテン」ブランク小説その1

 病室のカーテンが靡く。少し開いた窓の隙間から気持ちいい風が、カーテンを伝って薄手の病衣に触れる。余命宣告をされた私に対してお日様が少しでも元気でいられるよう、気持ちいい風を吹かせる努力をしてくれているのだ。無機質な白い病室では、カーテンの細い隙間から覗く、窓に映る青空がとても綺麗に見える。窓際にいる私だけの特権だ。そんな綺麗な光景に少しの夢を抱くからか、輝いて見える景色になぜか涙がこぼれる。これで何回目になるだろう。涙がこぼれてしまう回数が前より増え、気持ちの青もどんどん濃くなっていく。そんな感情の私にとって眩しすぎるお日様は、カーテンに隠れていたほうが美しく見える。今の私はお日様の本当の美しさが分からない。

 私は癌らしい。抗がん剤は効かなかった。今も時たま体が痛くなり、そして心も痛くなる。私が胸を押さえて苦しんだなら、みんなは私に駆け寄って、またまた心が痛くなる。癌は「心の病気」らしい。心が痛くなると訪れるのが、自分がこの先どうなるのかという不安感だ。癌患者の人が精神的な面で気を付けるべき一番の問題だ。お医者さんはそう言った問題をなるべく軽減しようと、がん患者の人にアドバイスをする。私のお医者さんは「面白いと思うことを探して自分に癒しを与えましょう!」というアドバイスをくれた。それからしばらく経った、今の私の「面白いこと」。それは、抗がん剤で抜けて再び生えてきた髪の毛が、クルンクルンでしかも触るととてもふわふわなこと。最近は時々自分の髪の毛を触ってリラックスしている。そしてリラックスができているおかげか、いいことも増えてきた。夜の寝付きが良かったり、物事がポジティブに考えられたり、前向きに生きるということがどれだけ素晴らしいことなのか改めて実感できた。今日も私は溶け込んでしまいそうなほど美しい夜の景色をカーテンから覗き、面白いことを考えながら、ベッドに入った。

 そして朝、六時三十分。病院の朝は早い。この時間から看護師さんたちが起こしに来る。窓の外は雲一つない青空で、光はカーテンを突き抜けている。その強い日差しのせいか、はたまた毎日の早起きに体が慣れてきたか、今日はいつもより早く起きてしまった。入院生活に慣れると生活習慣が整えられ、とても健康的な毎日を送ることができる。嬉しい限りだ。そんな健やかな朝にもう一つ嬉しいことが訪れた。隣の空きベッドに新しい患者さんが来たのだ。井上充子さん。この人も癌になり、少し容体が悪化したので手術を受けるためにこの病院にやってきたのだという。充子さんはとても元気な人で、癌になってもブルーなことを一切言わず、たくさん喋ってたくさん笑っていた。内気な性格の私は元気な充子さんと話していても少しブルーになってしまうことがある。やはり癌とはポジティブな気持ちが、やっと花開こうとしている人の小さな蕾を簡単に抜き去り、不安の種をこれでもかというほど植え付けていってしまう、そんな恐ろしいものである。そしてそのような恐ろしいものと向き合わなきゃいけない時でも、充子さんは笑って励ましてくれる。充子さんは私の憧れだった。苦手だった病院食も楽しそうに食べている充子さんを見て、私も食欲が湧き、少しずつ食べられるようになった。充子さんと一緒にいる時間はとても楽しかった。色々なことができるようになった。編み物に日記、今まで毛嫌いし、読んだことのなかった新聞までも充子さんの影響で読み始めた。ああ。こんな毎日がいつまでも続けばいいのになあ。

 息子がやってきた。はぁ、最悪だ。せっかく毎日が楽しかったのに。なぜ自分の息子をこんなにも嫌っているか、それは誰もわからないだろう。私は息子の色々なこところが嫌いだ。フニャフニャとした気色悪い話し方、茶髪でチリヂリの髪の毛、黒のライダースーツにピアス、タトゥー、両手の指にはめられた沢山の指輪、サングラスなど挙げていくとキリがない。

「よぉ、お袋元気してたか?」

「何の用?いきなり来て」

「何って見舞に来たんだろう?ほらっ、お袋の好きな蜜柑買ってきたからよ。」

笑った息子の口に銀歯がキラリと光っている。息子が十八歳の時喧嘩して削れた歯だ。

「いらないわよ、食欲が湧かないわ。」

こんな息子の前では大好きな蜜柑も食べたくない。私は息子から目を逸らし、窓から見える曇った空を眺めていた。

「じゃあ蜜柑ヨーグルトにして食べようか?その方がのどの通りもいいし、消化もいいだろ?」

「もう!!いらないって言ってるでしょ!!!」

私は声を荒げた。周りの患者さんと看護師さんの視線が一斉に私に集まる。あぁもう。集まる視線が私の心を抉る。普段は絶対にこんなことはしない。癌のストレスもあってか嫌いな息子の相手をするのが相当辛いのだろう。一気に怒りと悲しみがこみ上げ、私の手を震わせた。指先から起きた震えは体の輪郭を荒くなぞるようにしてドクドクと押し寄せてくる。その感情の色は小さい頃によく見ていた痛い思い出の色と重なる。とても赤黒い。そして震えはいつしか頭のてっぺんまで登り、また再び私に汚言を吐かせようとする。

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