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【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】南山人権空間

初稿:2023.09.17
更新:2023.09.19

(この記事は9,827文字です)

南山人権空間

 ソウル市内、地下鉄4号線の明洞駅で降り、1番出口から地上に出る。
 近くにある世宗(セジョン)ホテルから離れるように、南に延びている坂道を登っていくと、これから紹介する「南山人権空間」(남산인권마루 ナムサンインクォンマル)に入っていく。
 今、「南山人権空間」と書いたが、ここ一帯の正式な名称が何なのか、正確に書くことはむずかしい。
 NAVER map でここ一帯を検索してみると、「南山芸場公園」(남산예장공원)、「南山人権の森」(남산인권숲)、「日本軍慰安婦記憶の場」(일본군 위안부 기억의터)等の名称がそれぞれの限定された場所に記されている。
 また、実際に歩きながら案内表示を見ていくと、「国恥の道」(국치길)と書かれたものもある。
 消防災難本部の建物の近くに、総合的な案内地図ではないかと思われるものがある。そこには「南山人権空間」(남산인권마루 ナムサンインクォンマル)と書かれているので、ここではその表記にしたがうことにする。なお表記中の「마루 マル」は、「空間」と訳してみた。また、この案内地図には「旧中央情報部(国家安全企画部)配置図」とも書かれている。
 その案内地図には、次のような説明が書かれている。
「南山人権空間
ここソウルの南山の北麓は、庚戌国恥(1910)の現場であり、中央情報部(国家安全企画部、国家情報院の前身)があった場所(1961~1995)です。
市民の意思を集め、この跡を南山人権空間として整え、標石を立て、八道の石を集めて礎石にします。
旧中央情報部(国家安全企画部)の跡地
総面積約82,000m、建物41棟」

南山芸場公園

 明洞駅から坂道を登っていくと、最初に訪れるところは南山芸場公園(南山芸場公園)(남산예장공원)となる。南山人権空間は、ここから始まっている。
 朝鮮時代には、ここは武芸の訓練場だった。公園の名前もそれに由来している。
 ここをスタートとして奥に(南に)進みながら、建物や表示板を見ていくことにしよう。

南山人権空間(クリックで拡大表示)(NAVER mapを加工)

 辺りを見回すと、赤い郵便受けの形をした建築物が目に入ってくる。この建築物の隣には、古い建物の基礎部分が残されている。
 赤い郵便受けの形をした建築物は、「記憶6」展示館(旧中央情報部6局)であり、その隣の古い建物の基礎部分は、朝鮮総督府官舎遺構である。
 ここ一帯には、大きく分けると、日本が韓国を統治した時代に関係した建物と、韓国の軍事政権時代にできた中央情報部に関係した建物、という2つ時代のものが保存されている。
 これから先のものを見ていくにあたり、この2つの時代について簡単に整理しておくことにしよう。
 

朝鮮総督府官舎遺構と「記憶6」展示館(旧中央情報部6局)

韓国統監部

 1910年の韓国併合により日本が韓国を統治することになった。その統治のための機構のすべてを統括したのが朝鮮総督府である。
 その建物は、景福宮の宮殿正面に建てられていたものがよく知られている。1926年に建てられた建物は、日本による韓国の植民地支配のための中心的役割を担う。韓国の独立後は、韓国の政府庁舎「中央庁」、その後は国立中央博物館として使用されたが、1995~1996年に解体・撤去されて、今は景福宮に朝鮮総督府の姿はない。
 この朝鮮総督府の前身が、統監部(韓国統監部)である。
 1904年の日露戦争終結後、1905年に日本(大日本帝国)と韓国(大韓帝国)との間に第二次日韓協約が結ばれる。乙巳年に締結されたことから、韓国では乙巳条約と呼ばれる(乙巳勒約とも呼ばれる。勒約とは、無理やり結んだ条約のこと)。この協約により、大韓帝国のほとんどの外交権は、日本(大日本帝国)に取り上げられ、大韓帝国は事実上保護国となる。
 日本は、政治・行政および軍事面の統治をおこなうための機関として、現在のソウルに統監部を設置し、1906年2月1日に業務を開始する。初代統監は伊藤博文。
 1910年8月22日に、韓国併合条約が寺内正毅統監(第3代統監→初代総督)と李完用首相により調印される。これにより、大日本帝国は大韓帝国を併合した。8月29日、朝鮮を統治するために朝鮮総督府が設置された。
 ただし、統監府はまだ存続し、朝鮮総督の職務は統監が行使した。同年9月30日に朝鮮総督府官制が制定され、統監府は朝鮮総督府に改組された。
 朝鮮総督府では、建物としては韓国統監府の庁舎を使用した。
 朝鮮総督府の庁舎は、景福宮敷地内で1916年7月10日に起工し、1926年10月2日に完成して、使用が開始された。

 統監部(および景福宮敷地内に新築移転するまでの朝鮮総督府)の庁舎があった場所は、次の住所である。
 新住所:서울특별시 중구 소파로 126
 旧住所:서울특별시 중구 예장동 8-145
 現在(2023年9月)、工事中だが、ソウル・アニメーションセンターがあったところである。

中央情報部

 「中央情報部」について、韓国民族文化大百科事典は、次のように説明をしている。日本語に直し、抜粋して紹介しよう。

中央情報部……
「1961年5月20日、5・16軍事政変の主体が主導して軍事政府の最高議決機関である国家再建最高会議の傘下に設置した情報機関であり、捜査機関である。」
 「国家再建最高会議は1961年6月10日、国家再建最高会議法と中央情報部法を通じて中央情報部の設置根拠を明文化した。これによると、中央情報部は軍事政府のいわゆる革命課業を遂行する上で障害となる要因を除去し、国家安全保障と関連した国内外の情報を収集し、国家安全保障と関連した犯罪を捜査し、軍を含む国家各機関の情報・捜査活動を調整・監督する特殊機関だった。」
 「中央情報部の制度的特権は、中央情報部の捜査権を検察の指揮下に置かず、むしろ検察を指揮・管理するようにした点と、中央情報部の業務遂行に必要な協力と支援を全国家機関が行うようにした点でも確認される。さらに、1963年12月14日に改正された中央情報部法は、大統領の所属機関として中央情報部の組織構成、所在地、定員、予算及び決算などに対する非公開を合法化し、また、他省庁の予算に中央情報部の予算を計上できるように規定した。」
 「中央情報部は設置時点から存立した時期の間を通じて、政権政治勢力の工作政治と市民基本権の抑圧の象徴とされるほど多くの政治的葛藤と対立に関与し、そのような状況の積極的な造成者として機能した。政治的活動が公式には禁止されていたが、中央情報部の実態は、膨大な組織と人員を動員し、大統領を頂点におく政治勢力に対する批判と反対活動を監視・統制することに集中する機関であった。中央情報部の監視・統制の対象には、市民社会の個人や団体はもちろん、野党国会議員や与党国会議員まで含まれていた。」
 「中央情報部の活動様態は、特定の方針の告知・命令、機関常駐及び聴取、盗聴と尾行、拷問、拉致など多様かつ極端であった。張都暎(チャンドヨン)反革命事件、民主共和党事前組織論争、4大疑惑事件、東ベルリン事件、国民福祉研究会事件、4・8抗命波動、10・2抗命波動、3選改憲波動、金大中拉致事件、全国民主青年学生総連盟事件、人民革命党事件、東方紡織事件、YH貿易事件、吳元春(オウォンチュン)事件など、1960~70年代政治史の主要な場面で、中央情報部は常に主要な当事者であった。そして、中央情報部は暗に政府の施策を広報し、政府に友好的な世論を醸成する活動を展開した。」
 「中央情報部は新軍部が主導して立法した国家安全企画部法に基づいて1981年1月1日に国家安全企画部に改称された。しかし、改称後も中央情報部の機能と地位はほぼ維持された。」
 「国家安全企画部法は、その後の民主化過程で機関の超憲法的な政治偵察、人権侵害と強圧的捜査などが問題視され、1994年1月5日と1997年12月13日に一部改正され、1999年1月21日に再び一部改正されるとともに、国家安全企画部を国家情報院に改称した。」

出典:項目名「中央情報部」韓国民族文化大百科事典
출처:항목명'중앙정보부' - 한국민족문화대백과사전

  年配の日本人の場合には、「中央情報部」という名称とともに、「KCIA」という名称が記憶に残っているのではないか。
 その「中央情報部」の主要な建物・施設があったところが、ここ一帯である。

 「南山人権空間」とは、統監部(朝鮮総督府)と中央情報部という、時代は異なるが人権を侵害した2つの象徴的なものが存在していた場所である。
 ソウル市は、中央情報部があったことで立ち入りが禁じられていたこの一帯を緑地公園にし、史跡を保存するために、2015年に南山芸場公園再生事業を開始した。事業は、2021年に完成した。

中央情報部6局

 中央情報部6局があった場所は、かつての建物は撤去された。柱や壁など、わずかなものが残されているだけである。
 その場所には、新たに「記憶6」と名づけられた、赤い郵便受け型の展示館が建てられている。

中央情報部6局の跡に建つ「記憶6」展示館

 展示館は、午前10:00~18:00に開館されている(公休日は12:00~18:00)。月曜日休館。
 建物に入ると、復元された地下取調室を見下ろすように見ることができる。

復元された地下取調室

取調室については、次のような説明がある。

中央情報部・安全企画部6局地下取調室を原資材そのままに、もとの位置に復元し、証言をもとに再現。

「記憶6」地下取調室についての説明

展示館内には、その他にいくつかの説明が設置されている。

記憶6はコンクリートの証言者です。
記憶6は、中央情報部・安全企画部6局の地下取調室を原資材そのままに元の位置に復元した記憶空間です。
「記憶6」とは「6局」があった場所という意味です。
古い建物から出たレンガや錆びた鉄筋と柱の残骸など、壊れた建物の瓦礫は集まって庭になり、6つの長椅子になりました。
かつての6局では、主権者である国民の監視、不法連行、強圧捜査、拷問など、国家暴力による人権侵害が広く行われました。 その苦しい歴史を記憶し、その歴史と対話し、さらに時代を省察するための意味を込めて、記憶空間は郵便受けの形状をしています。
歴史に話しかけるときだけ、石やセメントも叫んで答えてくれるはずです。
歴史が言葉がないのではなく、話しかけないときに歴史が沈黙するのです。

「記憶6」建物内の説明

大韓民国中央情報部6局
ここには中央情報部(中情)・ 安全企画部(安企部)6局の建物がありました。6局は権威主義時代に民主化運動に対する広範な監視、査察、取調べを行いました。建物の2、3階では通常の調査、地下階では拷問を含む強圧取調べが進行しました。6局を肉の「肉」字の「肉局」と呼ぶようになったのはこのためです。(訳注:「6」も「肉」も韓国語では「육」(ユク)で音が同じ)
再審を通して無罪判決を受けた民青学連(全国民主青年学生総連盟)事件等が、ここであった国家暴力による代表的な人権侵害事例です。

「記憶6」建物内の説明

建物の現況
・位置 : ソウル市中区ソパ路148-10
・面積 : 2449㎡
・建築年度 : 建築台帳なし / 確認不可
・階数 : 地上3階 / 地下2階
建物履歴
・竣工日はわかっていない
・旧中央情報部・安全企画部6局の建物として使用
・安企部が移転し、ソウル市が買い入れ(1995年)
・ソウル特別市均衡発展本部、ソウル特別市庁都市安全本部として使用
・ソウル市庁南山第2庁舎として民生司法警察課が使用
・南山藝場再生事業の一環として撤去後、南山藝場公園[記憶6]として再生され、市民たちに戻る(2021年)。

「記憶6」建物内の説明

記憶6
ここソウル南山の北側は、庚戌年である1910年に大韓帝国が日帝に国恥を受けた韓国統監官邸(国恥跡)があった場所です。ほぼ同じ場所に5.16クーデター(1961年)勢力が軍事政変直後に設置(6月10日)した中央情報部が入ってきました。権威主義時代に「南山」という言葉はすなわち「中情」を意味しました。 この機関は主権者である国民の監視と統制を主とする「権力機関の上の権力機関」として君臨してきました。長い間、苦しい記憶を抱えていたここを百余年ぶりに市民の懐に戻します。

「記憶6」建物内の説明

 この中央情報部6局(「記憶6」展示館)内には、ソウル市が制作した「国恥の道」(국치길)と「人権の道」(인권길)という2種類のリーフレットが置いてあり、もらうことができる。

右が「国恥の道」、左が「人権の道」

 表紙に「南山踏査案内」とあるように、内側にはコース図が記されている。

「人権の道」は、中央情報部関係
「国恥の道」は、統監部・朝鮮総督府関係

 QRコードを読み取ると、動画(韓国語)で各場所の説明を見ることができる。
 コース地図には、周辺の建物の情報がほとんど記載されていないため、初めて訪ねる場合には、周辺の詳細な地図も参考にしながら歩く方がよいだろう。
 また、中央情報部6局(「記憶6」展示館)は、開館時間までは入れないので、最初にリーフレットを手に入れてから歩くためには、開館時間以降に行く必要がある。 

李会榮記念館と南山芸場公営駐車場

 なお、「記憶6」や朝鮮総督府官邸跡がある南山芸場公園の地下部分(公園から見ると地下に見える)には、李会榮記念館と南山芸場公営駐車場がある。

中央情報部事務棟

 現在は「ソウル特別市 消防災難本部」となっている建物は、かつての「中央情報部事務棟」である。
 玄関脇に標石が建てられていて、「捜査と行政機能を担当していた事務空間と共に留置場としても使用した建物です」と説明がある。

中央情報部事務棟(現:ソウル特別市消防災難本部)
中央情報部事務棟についての説明

チュジャ派出所跡(鋳字派出所跡)

 藝場公園から下の道路におりると、チュジャ(鋳字)派出所跡の説明がある。
 チュジャ派出所の建物は残されていないが、説明板が立っている。
「中央情報部(国家安全企画部)に連行された人の消息を知るには、ここ(中部警察署のチュジャ派出所)で受付をして、ひたすら待たなければなりませんでした。よく“面会所”と呼ばれていましたが、面会はほとんど行われませんでした。」

左にあるのがチュジャ派出所跡の説明(写真の奥の建物が消防災難本部)
チュジャ派出所跡の説明

中央情報部長公邸

 中央情報部事務棟(消防災難本部)の脇を奥に進むと、「文学の家・ソウル」と名前がついている建物がある。
 ここが、中央情報部長公邸だったところである。
 建物を左に見ながら、前の道路を奥に進んでいくと、庭に入れる門があり、脇に「中央情報部長公館」であったことを示す表示板がある。

中央情報部長公邸
門の脇に説明がある

総合案内板

 ふたたび中央情報部事務棟(消防災難本部)までもどり、山林に入っていく道の脇を注意してみると、案内地図がある。
 ここ一帯についてのもっとも公式的な案内地図と思われる。
 この案内地図の前が駐車場所として使われているため、案内地図の前に車が止まっていると、気づきにくい。
 案内地図の左上には「南山人権マル(空間)」の表題があり、右上には「旧中央情報部(国家安全企画部)配置図」とある。
 内容については、この記事の最初に書いたとおりである。

案内地図左上部 「南山人権マル(空間)」の表題
案内地図左部 右上に「旧中央情報部(国家安全企画部)配置図」

ケヤキとイチョウ

 中央情報部事務棟(現:ソウル特別市消防災難本部)から、統監官邸跡の方に進むと、道の左右にケヤキとイチョウの巨木がある。下の写真は、統監官邸跡の方から振り返って見た場合のものである。左がケヤキ、右がイチョウ。
 木の説明板によると、どちらの木も1996年8月16日に保護樹に指定されている。その日の時点で、ケヤキの樹齢は450年、イチョウの樹齢は400年ということである。この2本の木は、この辺り一帯の歴史を見てきたことになる。
 インターネットで統監官邸を検索すると、統監官邸の建物の写真で、近くに巨木が写っているものがある。その巨木がこの2本の木である。

左がケヤキ、右がイチョウ。どちらも樹齢が400年を超えている。

日本軍慰安婦記憶の場

 この先には、「日本軍慰安婦記憶の場」と名づけられた場所があり、「大地の目」、「社会のへそ」というモニュメントがあった。ここは2016年に、慰安婦の女性たちを追慕するためにつくられた場所だった。かつて統監官邸があった場所という意味合いから、この場所が選ばれた。
 「大地の目」には、慰安婦だった金順徳さんの絵、慰安婦たちの証言、慰安婦たちの名前が刻まれていた。
 「社会のへそ」は、訪問者たちが一休みできる場所になっていた。
 ところがこの2つのモニュメントの制作に関わった芸術家の林玉相氏にセクハラ問題があり、裁判で一審有罪となったことから、ソウル市は2023年9月5日、2つのモニュメントを重機により撤去した。

「大地の目」(2023年9月5日に撤去)
「社会のへそ」(2023年9月5日に撤去)

統監官邸跡

 撤去された「大地の目」と「社会のへそ」にはさまれるように、「統監官邸跡」を示す碑石がある。
 表面には、
「日帝侵略期、統監官邸があったところで、1910年8月22日、3代統監 寺内正毅と総理大臣 李完用が強制併合条約に調印した庚戌国恥の現場である」
 裏面には、
「庚戌国恥100年を迎え、2010年8月29日、申榮福が書き、民族問題研究所が立てる」
 と刻まれている。
 「庚戌国恥」の「庚戌」(こうじゅつ、かのえいぬ、韓国語では경술)は干支のことで、ここでは1910年を意味している。

「統監官邸跡」碑石の表
碑石の裏

 朝鮮総督府官舎遺構と統監官邸跡どちらにも言えることだが、その建物があった当時の建物の配置図や間取り図のようなものが、資料として近くに設置してあると、その時代についての理解がより深いものになるのではないか。

逆さに立てた銅像

 統監官邸跡の碑石の横には、「逆さに建てた銅像」がある。
 銅像本体部分はなく、基壇部分の3面の石が、裏返しに組まれ、なおかつ上下が逆さになっている。 

 この銅像には、次のような説明がある。
「逆さまに立てた像
 林権助(1860~1939。1900年、駐韓日本公使として赴任)は、高宗皇帝と大臣たちを脅迫して乙巳勒約(1905年11月17日。徳寿宮中明殿)を強要するなど、併合の足掛かりを築いた人物である。
 日帝はその功績で男爵爵位を与え、大韓帝国が国恥(1910年 庚戌年 8月22日、総理大臣李完用と韓国統監寺内正毅が署名。29日発表)をされた、ここ韓国統監官邸に銅像を建てた。銅像の名前は男爵林権助君像である。
 光復70周年を迎え、散らばっていた銅像の残骸を集め、逆さまに立てて辱めを称える。」

中央情報部本館(ソウル・ユースホステル)

 さらに先に進んでいくと、ソウル・ユースホステルの建物が現れる。
 ここがかつて中央情報部本館だったところである。

中央情報部本館(現:ソウル・ユースホステル)
玄関脇の郵便受け

玄関前の郵便受けに、次のような説明がある。

「旧中央情報部(国家安全企画部)
本館
ここ一帯である「南山」(中央情報部の別名)は長い間、立ち入りが禁止された空間でした。山を市民の懐に返し、人権侵害の象徴であるこの建物の標石を人権郵便受けとして設置します。」

玄関前脇の碑石

玄関前の「ソウル・ユースホステル」の碑石には、次のような説明がある。

「ソウルユースホステル
南山は漢陽の南側にそびえ、都城を含めて、漢江を見下ろす名山で、民族史の浮き沈みとともに数多くの栄辱を経験してきた。朝鮮時代には国祠堂を建てて国の平安を祈願し、日帝は神社を建てて参拝を強要することもあった。
ここにあるこの建物は、一時、国家安全企画部の本部として使われたが、ソウル市が引き取り、新しく改装した後、ユースホステルとして開いた。趣に優れ、先人たちの格別な愛を受けたこの由緒ある場所で、国内外の若者たちが交わり過ごしながら、お互いに友情を厚くし、南山の青い松の木のように高い気概を育むことを願う。
2006年3月30日
ソウル市長 李明博」

中央情報部第6別館

 ソウル・ユースホステル前の駐車場を間にして、反対側には「ソウル総合防災センター」がある。
 その隅に、「旧中央情報部 第6別館」についての説明がある。

ソウル総合防災センター 駐車場脇に「第6別館」の説明がある
「第6別館」の説明

「旧中央情報部(国家安全企画部)
第6別館
地上構造物がない地下3階建ての施設で「地下バンカー」、「地下拷問室」と呼ばれました。 多くの政治家やジャーナリストが連行されて取り調べを受けた場所であり、本館の建物と地下通路でつながっています。」

中央情報部第5別館(中部公園余暇センター)

 ソウル・ユースホステルとソウル総合防災センターの間をぬけて、さらに先に進んでいくと、トンネルが現れる。
 そのトンネルをぬけると、玄関に「ソウル特別市 中部公園余暇センター」と表示された建物が現れる。
 ここが「中央情報部 第5別館」だったところである。玄関脇の植え込みの中に、説明がある。

「旧 中央情報部第5別館」(現:ソウル特別市中部公園余暇センター)
「旧 中央情報部第5別館」の説明

「旧中央情報部(国家安全企画部)
第5別館 (対共捜査局)
スパイ嫌疑などを捜査していた対共捜査局だったが、捏造スパイも作り出した場所です。建物の前に、大きな鉄製の門があったトンネルが伸びています。」

そのほかの情報

 統監官邸跡の周辺には、調べると、乃木神社跡、京城神社跡、やや離れて朝鮮神宮跡がある。
 たとえばリラ初等学校の隣にある「社会福祉法人 南山園」の敷地内には、乃木神社にあった手水舎の水盤(手水鉢)が残されている。私はかつて南山園を訪ねて、水盤(手水鉢)を見せていただいたことがある。2003年7月30日のことだ。

乃木神社の手水舎の水盤(南山園 2003年7月30日)

 今から20年も前のことになるので、最近のようすを韓国内のブログやインスタグラムなどで調べると、周りの様子や配置が変わっている。置かれている位置も変わっているかもしれない。しかし今も南山園にあることがわかった。
 ただ、ここは南山園という施設の敷地内のため、勝手に入って見るわけにはいかない。要件を説明して、許可を得る必要がある。
 その他、京城神社跡、朝鮮神宮跡については、手元に資料がないため、今回は紹介をしなかった。今後調べて、紹介したいと思う。

もうひとつの南山

 ソウルにある南山ソウルタワー(Nソウルタワー)というと、ランドマークともいえる場所である。ケーブルカーを使うと、簡単に行くことができる。タワーの展望台に上ると、ソウル市内がよく見える。また、夜には夜景がすばらしい。
 観光地としても有名なところだが、南山には、日本が統治していたころの歴史や中央情報部による人権侵害の歴史が残っている。


 なお、いずれの場所も一般的な観光地ではない。訪ねると、ただ建物や礎石が残っているだけ、という感想を持つかもしれない。日本語の説明がないところもある。しかし、「記憶6」の展示室内の説明文にもあるように、「歴史に話しかけるときだけ、石やセメントも叫んで答えてくれるはずです。歴史が言葉がないのではなく、話しかけないときに歴史が沈黙するのです。」という言葉を、ここではもう一度、載せておきたい。
 以上のようなことを理解したうえで、訪ねていただきたい。中級程度の韓国語の読解力があれば、各所の説明文の内容の理解はできると思われる。


地図(この記事のはじめに載せたものと同じ)

南山人権空間(クリックで拡大表示)(NAVER mapを加工) 

地図(naver mapへのリンク)

・南山芸場公園

・記憶6展示館

・統監部(および景福宮敷地内に新築移転するまでの朝鮮総督府)所在地


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