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【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】国立ソウル顕忠院

初稿:2024.04.30
更新:2024.04.30

(この記事は10,246文字です)


はじめて訪ねた国立墓地

 何度か韓国を旅行する中で、気になる場所があった。
 地下鉄4号線でソウル駅から江南方面に向かい、漢江を渡ると銅雀駅(トンジャンニョク 동작역)につく。駅の手前、漢江を渡っている辺りから右方向(南西方向)を見ていると、たくさんの樹木に囲まれている一帯があり、その中に韓国伝統家屋の様式をコンクリートで造った立派な建物もあるのが見えた。ソウルの中心部に近い場所で、広大な面積を占めているこの場所は、いったい何なのかと気になって調べてみると「国立墓地」であることがわかった。
 「国立墓地」は、どんなようすのところなのか。そこ眠っている人たちはどういう人たちなのか。
 2005年の旅行のときに、はじめてその墓地を訪れた。
 その時の私の気持には、緊張があった。そこは韓国人以外が訪ねてよい場所なのか。自分が韓国の国立墓地を歩くことに対し、遠慮のような罪悪感のようなものを感じた。そのため、緊張しながら足を踏み入れたのだった。
 入り口から入っていくと、地面より一段高くなっている台が設けられていて、そこには軍人が立っている。歩哨がいるのだ。入ってくる者を見張っているようで、これから特別な空間に進んでいくような気分になった。
 国立墓地の敷地内にはたくさんの樹木や花が育っていて、さらに背後の木々の多い山の峰も借景のようになり、墓地全体が緑に包まれている風景を成している。中央部には川が流れ、ところどころには池もある。歩いていると、憩いの公園にきたように感じられる。奥に進みながら左右を見ると、広大な面積の墓域が広がっていて、きれいに並んでいる墓石に圧倒される。
 旅行の記録を見ると、そのとき以来、2006年、2009年、2010年と、今までにあわせて4回、訪ねることになった。

顕忠院の正門である顕忠門(2005年)
2005年当時の国立ソウル顕忠院
2005年当時は顕忠院内に朝鮮戦争で使用された兵器が展示されていた

国立墓地の設立

 国立墓地は次のような経過で設立された。
 1945年8月15日、朝鮮半島は日本の植民地から解放され、「光復」を迎える。朝鮮民主主義人民共和国との対立が深まる中、局地的な戦闘や各地での共匪(北朝鮮ゲリラ)討伐作戦で戦死した将兵たちは、ソウル市中区の奨忠壇公園(チャンチュンダンコンウォン 장충단공원)内の奨忠祠(チャンチュンサ 장충사)に安置された。(現在、奨忠祠は残っていない)
 しかし戦死者の数が増加していく中、陸軍では墓地の設置について検討を始める。
 1950年6月25日、朝鮮戦争が始まる。このため墓地の設置問題については議論が中断される。戦死者の数は増え、戦没将兵の英霊は釜山市金井区の梵魚寺(ポモサ 범어사)と釜山市東萊区の金井寺(クムジョンサ 금정사)に殉国戦没将兵の英顕安置所を設けて奉安された。
 激しい戦闘が続く中、増えていく戦死者に対応するため、陸軍ではふたたび陸軍墓地の設置について議論が始まる。1951年7月、軍墓地候補地の踏査が開始される。
 墓地については、陸・海・空の3軍総合した墓地の設置を進めることになり、名称は「国軍墓地」とすることが決まる。
 1953年9月まで候補地の踏査は行われ、ソウル市銅雀洞の現在の場所が選定される。
 1953年9月29日、李承晩大統領の裁可を受け、国軍墓地の場所として確定する。
 1954年3月1日、整地工事着工。
 「国立ソウル顕忠院」(クンニプソウルヒョンチュンウォン 국립서울현충원)のホームページ内「設立経緯」によると、以下、次のような経過をたどる。

1954年3月1日に整地工事を着工して以来、3年にわたり墓域23万8017㎡を造成し、その後年次的に1968年末までに広場99,174㎡、林野912,400㎡および公園行政地域178,513㎡を造成した。
1955年7月15日、軍墓地業務を管掌する国軍墓地管理所が発足され、続いて1956年4月13日大統領令で軍墓地令が制定され、軍墓地運営および管理のための制度的基礎が用意され、戦死または殉職した軍人、軍務員が埋葬され、さらに殉国先烈および国家有功者は国務会議議決を経て埋葬が行われることになった。
一方、6.25戦争で発生した多くの戦死将兵の処理のため、これまで軍人中心に行われてきた軍墓地の埋葬業務が1965年3月30日、国立墓地令で再確立され、愛国志士、警察官および郷土予備軍まで対象が拡大されることにより、国家と民族のために高貴な生を犠牲にし、あわせて国家発展に大きな足跡を残した方々を国民の名前で祀ることになり、その忠義と威訓を子孫に永久に保存・継承させることができる民族の聖域として国立墓地として地位を備えることとなった。

「国立ソウル顕忠院」のホームページ内「設立経緯」

 1996年1月、名称が「国立顕忠院」に変更される。
 2005年7月、「国立墓地の設置および運営に関する法律」が制定・公布される。
 2006年1月、名称が「国立顕忠院」から、「国立ソウル顕忠院」(クンニプソウルヒョンチュンウォン 국립서울현충원)に変更される。

朴正熙大統領夫人 陸英修女史の死

 墓域のもっとも奥であり、もっとも高い場所には、朴正熙(パク・チョンヒ 박정희)大統領夫妻の墓がある。
 朴正熙大統領は、韓国の第5~9代の大統領(在任期間:1963年12月17日~1979年10月26日)である。
 初代から第3代までの大統領を務めた李承晩(イ・スンマン 이승만)は、1960年4・19革命により大統領職を辞す。そのあと尹潽善(ユン・ボソン 윤보선)が第4代大統領に就いたが、国内の不安要素に対し、1961年5月に朴正熙がクーデターを起こし政権を掌握する。その時点では、国家再建最高会議議長という地位にあったが、実質的には政治の頂点に立った。朴正熙は、1961年からは国家再建最高会議議長、1963年からは大統領と、あわせると1979年までの約18年間、韓国での最高権力者であった。
 1979年10月26日、朴大統領は突然の事件により、この世を去る。

 1979年10月26日。その日から、さかのぼること5年前の1974年8月15日、朴正熙大統領は陸英修(ユク・ヨンス 육영수)夫人とソウル市内奨忠洞の国立中央劇場大ホールにいた。その日行われていた光復節記念式典に出席していたのである。会場には在日韓国人の文世光(ムン・セグァン 문세광)がいて、朴正熙大統領の暗殺を狙っていた。文世光は北朝鮮との関係があったと考えられている。
 午前10時20分過ぎ、朴大統領が演壇で祝辞を読んでいるとき、文世光は銃を発射した。朴大統領は演壇裏に身を隠し、銃弾は朴大統領には当たらなかったが、数発撃ったうちの1発が陸英修夫人の頭に当たった。陸英修夫人は病院に運ばれ、脳の大手術が行われたが、その夜7時頃、帰らぬ人となった。
 陸英修夫人の葬儀は、8月19日に「国民葬」として挙行された。
 この日の国民葬について、当日夕刊の「京郷新聞」は、次のように伝えている。

  大統領夫人の故陸英修(ユク・ヨンス 육명수)女史の国民葬永訣式(告別式)が19日午前10時、中央庁正面広場で令息志晩(ジマン 지만)君をはじめとする遺族、3部要人、各界人士、外国弔問使節など2千9百人余りが参席した中、厳かに執り行われた。
 ……
 この日の永訣式場(告別式場)である中央庁から葬地である国立墓地に至る南大門~漢江の橋沿いには早朝から集まった200万人の人波が、手に手に故人が好きだった菊などの花と弔旗を持って、最後の道を涙で見守った。
 ……
 銅雀洞の国立墓地にも明け方から市民、学生など追慕客が集まり始め、午前11時頃、10万人余りに増えた。
 陸女史の墓は、国立墓地の正門から2km前方に向かい合わせに見える松林が鬱蒼とした山の中腹、東南向きの200余坪。漢江の向こうに、陸女史が生前大切にしていた子ども会館(現 国立図書館)が向かい合わせに見える。
 この日、国立墓地全域には故陸女史が生前に好んで歌っていた「カゴパ(行きたい)」「故郷の春」など歌曲が鳴り響き、弔客の心を粛然とさせた。
 陸女史の遺体は同日、午後1時に国立墓地に到着、埋葬された。

1974年8月19日「京郷新聞」

朴正熙大統領夫妻の墓

 5年後。
 1979年10月26日、その夜開かれていた宴会の最中、朴大統領は側近である大韓民国中央情報部(KCIA)部長・金載圭(キム・ジェギュ 김재규)に射殺される。その時には、大統領警護室長・車智澈も射殺された。
 朴大統領の国葬は、11月3日に行われた。
 
 国立墓地では朴大統領の国葬に向けて墓の準備がおこなわれた。「国葬」前日の11月2日の「東亜日報」は、次のように伝えている。

 大統領死去3日後の29日午前から始まった墓域造成作業は、朴大統領の遺宅(墓)が故陸英修(ユク・ヨンス)女史の墓の右側(弔客から見ると左側)に双墳で用意されることになり、南山美術院(院長 李逸寧(イ・イルニョン)55)が墓域造成および拡張工事を引き受けて推進中だが、朴大統領の墓は陸女史の墓所と1.2m離れたところに同じ大きさで用意された。
 造園工事を担当した李氏は、朴大統領の墓の周りの囲い石は四角形で鳳凰が彫刻され、碑石も3.3の高さで百日齋の時までに完成することにした、と明らかにした。
 墓地造成作業のためにトラック150台分の土が移され、周辺の松、チョウセンマツ、カエデ、モクレンなど62本を移し植え、芝生も150平方メートルを移したり、再び運んで被せた。
 墓域丹粧(装飾)作業が続く間、去る1974年に故陸英修(ユク・ヨンス 육영수)女史の遺宅(墓)を選んだ韓国易理学会会長の池昌龍(チ・チャンヨン 지창용)氏(58)が引き続き出てきて、遺宅(墓)の位置と周囲の拡張工事を見守った。
 故朴大統領夫妻の墓域に上って行く階段は、三虞祭(サムジェ 삼우제)(=葬儀のあとの三回目の祭祀)が終わった後に拡張工事を始め、49日齋の時までには完工する予定で、周辺の山域作業は百日齋の時までにはすべて終えると国立墓地のある関係者は話した。この日、墓域の丹粧(装飾)を終えた朴大統領夫妻の墓地には、3日の安葬式に来る弔問客のための席472席が設けられた。
 朴大統領が埋葬されるこの墓域は、南山が見渡せる日当たりの良い場所で、墓の左側から伸びた左青龍の形勢は、雄大な姿の龍が頭をもたげ、うごめきながら漢江と接しているようで、右側に伸びた右白虎の形勢は、力強い虎一頭が頭を下げて護衛しているような形状で、地勢がいわゆる左青龍右白虎の名堂として知られているところ。

1979年11月2日「東亜日報」

 翌11月3日の「国葬」について、新聞各紙は数ページに渡る特集記事を組み、さらに写真も何枚も載せて、詳細を紹介している。
 ここでは詳細記事は引用しきれないので、要点部分のみを引用する。
 次のものは「朝鮮日報」と「東亜日報」の記事である。

 故朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の「国葬」が3日、全国民の嗚咽の中で厳かに執り行われた。 故人の遺骸は15年10か月16日の間、体をおいてきた青瓦台を午前9時25分に出発し、中央庁広場で永訣式(告別式)を行い、銅雀洞の国立墓地に運柩され、安葬式を行い、午後2時30分下棺(棺を墓穴におろすこと)となり、故陸英修(ユク・ヨンス)女史の墓所の右側に設けられた幽宅(墓)に安置された。霊柩車が進行する光化門~南大門~ソウル駅~国立墓地の沿道は、ソウル市民をはじめ全国から来た200万人余りの国民で埋められ、故朴大統領との別れを悲しむ多くの人々が大声を出して泣いた。

1979年11月4日「朝鮮日報」

 最後の道を行く大統領は無言で、弔問客は嗚咽に浸った。全国民の哀悼の中、故朴正熙(パク・チョンヒ 박정희)大統領の国葬が挙行された3日、青瓦台から国立墓地に至る10.5mの国葬行列が通る通りは、弔旗を垂らしたまま、ほとんど撤市し、白い喪服と黒い礼服姿の200万人の弔問の人波は、早朝から沿道の左右を埋め尽くし、大統領の運柩行列を粛然と見守った。 霧が深く立ち込めたこの日の朝、朴大統領は落ち葉の転がる「官庁1番地」を無言の「花の喪輿」に乗せられたまま、5年前に大統領夫人が眠った国立墓地の遺宅(墓)に一緒に埋葬された。

1979年11月3日「東亜日報」

 朴大統領は、独裁政治だったという否定的な評価がある一方、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げたという肯定的な評価もある。朴大統領を韓国の人たちが評価をするときには、その人の年代や立場によって大きく違いがあるように思う。
 個人的な体験を書くと、1998年に職場の親睦旅行で韓国を旅行したときは、団体旅行であったため現地のガイドさんが添乗した。50歳代のベテラン女性ガイドさんで、流ちょうな日本語で、うんちくのあふれる説明をしてくれた。話が朴大統領のことになった時、彼女は、朴大統領はぜいたくをしない倹約家であったこと、朴大統領によって国民の生活は豊かになっていったこと、朴大統領が取り組んだセマウル運動によって隣人と助け合うことや社会生活のマナーが高まったことなどを、朴大統領を尊敬し懐かしむような雰囲気で話してくれた。
 一方、私より若い年齢のある知り合いは、朴大統領の独裁政治と民主化運動への弾圧という面から、否定的な印象を話す。
 評価が分かれる面はあるものの、数年のうちに大統領とその夫人を銃弾によって失った事件は、韓国の多くの人々にとって、あまりに衝撃的で悲しいことであったことだろう。
 「国葬」の新聞記事を読むだけでも、朴正熙大統領と陸英修夫人に対する人々の思いが伝わってくるようだ。

左が朴正熙大統領の墓 右が陸英修夫人の墓

運柩車(霊柩車)

 朴大統領の国葬で使用された運柩車(霊柩車)が、朴大統領夫妻の墓の手前、将軍第1墓域の脇に大切に保存されている。

 ここは「朴正熙大統領 霊柩車保存館」と名づけられていて、次のような説明がある。

朴正熙大統領 霊柩車保存館
ここに保存された霊柩車は1979年10月26日に逝去され、11月3日に挙行された朴正熙大統領の国葬の時に使われた霊柩車として、国葬当時、外部に装飾していた菊の花は取り除き、そこに長期保存できる油絵を描き入れ、棺を外部からも見られるように霊柩車の外部に窓ガラスを設置しました。

「朴正熙大統領 霊柩車保存館」説明板

 この霊柩車について、新聞記事では次のように紹介されている。運柩車というのは、霊柩車のことである。

運柩車
 朴大統領の遺体は特別に製作された運柩車の大型バスに乗せられ、幽宅に運ばれた。
 葬儀執行委員会がセハン自動車に特別に依頼、セハン技術陣が先月28日から延べ100人余りを動員して製作、去る1日午前2時に試運転を終えたこのバスは同日午前6時、趙禮煥(チョ・イェファン)氏(36・セハン自動車技術部)の運転でソウルに到着した。
 車体の長さ10.1メートル、高さ3.1メートル、幅2.5メートルのこの運柩バスは、クッションをよくするために車体を普通のバスよりずっと低くし、ガラスは厚さ5ミリ(mm)の特殊ガラスになっている。
 霊柩車は床に赤いカーペットが敷かれており、中間に棺を安置するために特別にチーク材で作られた棺台があり、ここに6つの室内スポットライトを照らし沿道の市民たちは横3m、縦1.5mの大型ガラス窓を通じて故人の最後の姿を見ることができた。
 また、内部には棺台の前に5つ、後方の両側に3つずつの白い座席が配置されていて、遺族たちは後ろの引き戸を通って乗り降りした。
 白で塗られた霊柩車の屋根は赤い菊で、前後は黄色い菊で、中間は白い菊で飾られ、ここに使われた菊は白い菊が1万2千本、黄色い菊2万本、赤い菊4万本など7万2千本で計50人余りの人員が動員され、2日午後花飾りを完成した。
 霊柩車を運転した趙氏は「大統領の最後の道を案内することになって光栄だが、安らかにお迎えする考えで心配が先立つ」と話し、花飾りを管理した權泰鎬(クォン・テホ)氏(38・ソゴン花園)は「大統領夫人の最後の道も案内したが、今回も案内することになった」と涙声で話した。

1979年11月3日「東亜日報」

大統領の墓

 国立ソウル顕忠院には、朴大統領の墓のほかに、李承晩大統領(第1代大統領、在任1948~1960年、1965.7.19逝去、1965.7.27埋葬)、金大中大統領(第8代大統領、在任1998~2003年、2009.8.18逝去、2009.8.23埋葬)、金泳三大統領(第7代大統領、在任1993~1998年、2015.11.22逝去、2015.11.26埋葬)の墓がある。
 私が最後に訪ねたのが2010年なので、李承晩大統領、金大中大統領の墓は訪ねたことがある。
 大統領の墓の前に立つと、大統領が存命中にそばに近寄ることなどできなかった私が、わずか1mほどしか離れていないところに立っていることが不思議な気がした。
 日本の植民地からの解放後、朝鮮半島は南北に分かれ、激動の歴史をたどってきた。歴代大統領の人生を知ることは、その激動の歴史を知ることになる。
 一人一人の大統領の人生について、ここでは紹介することはできないが、墓参りを機に調べてみることで、韓国の歴史についてより詳しく理解することができるだろう。

李承晩大統領の墓
金大中大統領の墓

名前のない墓

 2010年に国立ソウル顕忠院を訪ねたとき、展示館を見学していたところ、ひとつの墓のエピソードが紹介されていた。
 ひとつだけある名前がわかっていない墓として紹介されていたもので、その墓石には「육군소위 김 의 묘」(陸軍少尉 キムの墓」と刻まれている。苗字が「金」(キム)、その下の名前はわからない。
 墓の裏には、この墓についてのエピソードを扱った新聞記事がそのまま写されている。
 1964年6月16日の「朝鮮日報」の「黄大領(ファン大佐)と無名少尉と······激戦地に咲いて散ったある友情」と題したこの記事のあらましを紹介する。黄大領(大佐)の名前は、フルネームで黄圭萬(ファン・ギュマン 황규만)である。

 1950年8月のこと、朝鮮戦争の激戦地、慶尚北道安康付近の高地で、新入小隊長である金少尉は北朝鮮軍の猛攻撃に対応するため塹壕の外に出て走っていたところ機関銃で頭を打たれ死亡する。
 そこにいた黄大佐は、金少尉の身元を確認しようと体を探ったがポケットの中には鏡が1つといくつかの所持品以外には何もなかった。黄大佐は小銃の帯剣で近くの松の木の切り株の下を掘って死体を埋め、後日のためにその上に石を1つ載せて退却した。
 その日から14年の歳月が流れた。黄大佐は、その間も忘れることができなかった金少尉の遺骨を見つけるため、1964年5月7日、救急車1台と衛生兵3人の助けを得て、骨を埋めた場所を捜索した。一日中、深い山中を探しまわって、記憶にある松の切り株と石を発見する。弾が貫通した金少尉の頭蓋骨、上体、鏡、ボタン、バックルを掘り出した。
 参謀総長に請願し、6月3日、軍墓地への埋葬が許可された。

 記事は、金少尉のいくつかの特徴を挙げ、どなたか知っている方はいないだろうか、と呼びかけて結んでいる。
 

「陸軍少尉 キムの墓」(2010年)

 今回、note の記事を書くにあたり、この墓のことを調べてみると、国立ソウル顕忠院のホームページに紹介があった。メニューを[묘역별소개]>[주요묘역 ・시설물]>[장병묘역]([墓域別紹介]>[主要墓域 ・施設物]>[将兵墓域])とたどっていくと、黄大佐と無名の金少尉についてのエピソードが掲載されていた。
 それによると、黄圭萬(ファン・ギュマン 황규만)氏は1976年に除隊したあとも、金少尉の身元を確認するために努力を続けていたところ、1990年に金少尉の同期に偶然出会い、持っていた名簿からその後、金少尉の家族を探し出すことができた。金少尉の名前は、金壽泳(キム·スヨン 김수영)であった。

国立ソウル顕忠院は金少尉の身元が確認されたが、戦争の痛みと黄圭萬将軍の戦友愛を後代に長く継承する歴史の産物として残しておくために、名前のない墓碑としてそのままにして追慕碑だけに名前を刻んでおいた。
黄圭萬将軍は6・25戦争70周年になる2020年6月に死亡し、54番墓域のキム少尉墓碑の横に並んで安置(1649号)された。 一度の戦友が永遠の戦友になる瞬間だった。

「国立ソウル顕忠院」ホームページより

 国立ソウル顕忠院のホームページには、金少尉の墓碑と黄圭萬氏の墓碑が仲良く並んだ写真が掲載されている。

資料館ほか

 国立ソウル顕忠院の敷地内には、いくつもの大きな建物がある。韓国の伝統的な建築様式を生かした姿になっている。
 私が最後に訪ねたのが2010年で、それから10年以上が経っている。その間に、建物の内部が大きくリニューアルされたものや、新たに建てられたものもあることがわかった。
 そのため、最近のようすがわからないので、くわしいことは書かないことにする。今後、改めて訪問してから、書きたいと思う。
 10年以上経ってもよく覚えているのは「遺品展示館」(ユプムチョンシグァン 유품전시관)と名づけられた建物で、その後、リモデリング工事に2年あまりをかけ、2022年に再開館したとのことである。ここには、国立ソウル顕忠院に埋葬されている元大統領の遺品、他が展示されている。
 遺族でない者が見学しても差し支えがないと思えるところは、「展示館」と名づけられた建物になるだろう。上記の「遺品展示館」(ユプムチョンシグァン 유품전시관)のほか、「護国展示館」(ホグクチョンシグァン 호국전시관)がある。

顕忠門爆破事件

 顕忠門(ヒョンチュンムン 현충문)は、国立ソウル顕忠院の正門である。

顕忠門(2005年)

 この顕忠門では、かつて一つの事件が起きている。
 1970年6月22日、午前3時50分ごろ、北朝鮮のゲリラ数名が顕忠門に時限爆弾を仕掛ける作業をおこなう。作業中に時限爆弾は爆発し、この爆発によって、後面の中央部分の軒の垂木や瓦20枚ほどが壊れる。作業をしていたゲリラ1名は爆死、残りのゲリラは逃走した。
 軍・警察・予備隊の合同捜索隊は、逃走したゲリラの捜索を連日おこなう。7月7日、金浦地域の山中でゲリラ2名を発見し、銃撃戦の末、彼らを射殺した。

昌嬪安氏の墓

 李承晩大統領の墓所から金大中大統領の墓所に行く途中には、昌嬪安氏(チャンビンアンシ 창빈안씨)の墓域がある。
 昌嬪安氏は、朝鮮第11代王である中宗の後宮(側室)の女性であり、第14代王の宣祖の祖母になる。
 国立ソウル顕忠院がここにできる以前から、この場所にあった墓域として保存されている。

昌嬪安氏の墓

 次のような説明がある。

昌嬪安氏の墓域
指定番号:ソウル特別市有形文化財第54号/時代:16世紀後半~17世紀後半
所在地:ソウル特別市銅雀区銅雀洞299-10番地 (国立顕忠院内)
ここは朝鮮第11代王である中宗の後宮(側室)であり、宣祖の祖母である昌嬪安氏(1499~1549)の墓域だ。 本来は1550年(明宗5)3月、京畿道楊州長興里に墓所を作ったが、翌年に場所が良くないと言ってここに移した。 墓域の封墳には護石を巡らせ、墳丘の後には曲牆を設置した。 神道碑をはじめ、墓標、魂遊石、象石、香炉石、望柱石、文人石、長明燈などの石物を建てた。昌嬪安氏は1507年(中宗2)に9歳で宮女になった。
中宗の寵愛を受け、22歳で尚宮となり、31歳で淑媛、続いて淑容まで品階が上がった。 彼女は2男1女を産んだが、次男が宣祖の父親である徳興大院君だ。 徳興大院君のほか、三男の河城君が子孫のいない明宗に続き、第14代王(宣祖)として即位すると、1577年(宣祖10)に昌嬪と追尊された。墓域の入口にある神道碑は1684年(粛宗10)に建てたものだ。 彼女の子孫が王位を継承したため、後宮(側室)としては珍しく墓域に神道碑を建てた。 ここは朝鮮時代の後宮の墓域がどのような姿をしていたかを示す貴重な文化財だ。

「昌嬪安氏の墓域」説明板

 「国立ソウル顕忠院」は、一般的な観光地ではない。
 設立経緯にあるように、「国家と民族のために高貴な生を犠牲にし、あわせて国家発展に大きな足跡を残した方々を国民の名前で祀ることになり、その忠義と威訓を子孫に永久に保存・継承させることができる民族の聖域として国立墓地として地位を備えることとなった。」場所である。
 そのことを念頭に置いて、敬虔な気持ちで訪ねたい。
 中級程度の韓国語の読解力があれば、各所の説明分の内容の理解はできると思われる。


地図(naver mapへのリンク)

・国立ソウル顕忠院 顕忠門

・朴正熙大統領夫妻の墓(国立ソウル顕忠院)

・朴正熙大統領霊柩車保存館(国立ソウル顕忠院)

・昌嬪安氏の墓(国立ソウル顕忠院)




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