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【職員ミニコラム】「お城」って何?掛川城から考えるお城のカタチ
皆さんこんにちは。掛川城公園管理事務所です。
掛川城と言えば「東海の名城」の別名を持つ、美しい天守が有名です。
平成6年に本格木造で復元された天守は今年で開門30周年を迎えます。
昨年4月には外壁の土佐漆喰の修繕が行われ、記念すべき年に向けてお色直しをいたしました。
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○「天守」って何?「お城」のこと?
「天守」とは、皆さんが「お城」と聞いてイメージするこのような建物のことです。
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織田信長の時代以降を中心に、戦力や権威の誇示のためのシンボルとして、遠くを見渡し戦況を把握する物見の櫓として、また非常時には城主が立て籠る最後の砦として全国各地のお城に建築されました。
石垣の上に建つ一番大きな建築物なので「天守」=「お城」と呼んでいる人も多いかもしれませんが、「お城」は天守だけのこと指す言葉ありません。
と言うのも、戦国時代よりも前、室町時代のお城は今皆さんがイメージしている小高い山の上に天守が鎮座しているようなお城ではなく、平地にお堀や塀を備えた館を中心とした「平城」でした。甲府の武田館(躑躅ヶ崎館)や駿府の今川館が有名です。
天守が無くても「お城」だったのです。
しかし室町時代とは言え戦乱の世。籠城戦に不向きな平地の館だけでは心許なかった当時の城主たちは、館にプラスしてそこから少し離れた位置、近くの山などに「詰の城」と呼ばれる砦を備えていました。
わかりやすい例として、滋賀県の観音寺城の復元イラストを見てみましょう。
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城びと「理文先生のお城がっこう 歴史編 第17回 戦乱による山城の発展 」より引用
https://shirobito.jp/article/886
中央にある「御屋形(館)」とは別に、裏手の山の頂上付近に本丸(詰の城)を築いています。
先ほど平城の例に挙げた武田館や今川館も同様に、それぞれ要害山城と賎機山城という「詰の城」をもっていました。
時代が進み織田信長や豊臣秀吉の時代になると、館と「詰の城」をそれぞれ御殿、天守として同じ場所に建てるようになりました。
これがお城の一般的な形となり、同一区画に御殿と天守を備えるお城は全国に300以上あったとされています。
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天守が現存するお城は12城あるのに対し、御殿が現存するお城はわずか4城しかありません。数だけを見たら現存御殿の方が貴重とも言えます。
その現存する4つの御殿のうちの一つが掛川城の二の丸御殿です。
その他の現存御殿は高知城、川越城、二条城にあります。
天守に登って景色を眺めただけでお帰りになるご来城者様も多くいますが、江戸時代から現存し国の重要文化財に指定されている二の丸御殿こそ掛川城の一番の見どころです。
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安政の大地震の後に時の城主・太田資功により安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建された二の丸御殿は、163年の歴史を今に伝える大変貴重な建築物です。
ご来城の際には、是非御殿もご覧くださいませ。
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