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CDジャケットの美学#4:yonige『健全な社会』

最近日中時間があれば図書館に行ってる。

家にいるとまず確実に、様々な誘惑に勝てずベッド・インからの動画鑑賞タイムになってしまうので。

大学時代からそうだったけど、大量の本と同じ空間にいるってこと自体が異様なまでの安心感と勉強への意欲を生み出してくれる。

ああ、聖域。ここは自分にとっての聖域なんや……。しかもタダの。徒歩15分かかるけど。それもいい運動とすら思える。ビバ図書館。

さて、ということで今日も朝方から図書館に引きこもって諸々の作業をしておる次第。

そんな清々しい朝にコーヒー……ではなく、こんな鮮烈なCDジャケットを。

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yonigeの『健全な社会』。

もうね、タイトルといいアートワークといい、濃厚なメッセージ性が滲み出てきてる。

東京事変のアートワークを彷彿とさせるような、社会をズバッと風刺するようなシニカルな遊び心を感じる。

yonigeといえば、大阪出身のガールズバンドで、リーガルリリーとかの並びで昨今のガールズオルタナティブ・ロックシーンでじわじわ活躍してる、っていうイメージ。

逆に言えばちゃんと曲聴いたことないし、それくらいしか情報がない。

さて、このアルバムを通して彼女たちをどれくらい知れるだろう。

好きになれるかな。

ということで、今回はこのアルバムの魅力を紐解いていく。

アルバム情報(ざっくり)

・発売日:2020年5月20日
・yonigeのセカンド・アルバム。
・アートワーク担当者は残念ながら不明。誰か教えてくれ。
・アジカンの後藤正文さんと、元チャットモンチーの福岡晃子さんがそれぞれ収録曲中の2曲ずつをプロデュース。

後藤さんと福岡さん……。さすがJロックシーンの金字塔のお二人。自身の表現活動だけでなく、後進への積極的なサポートも行っていく精力。尊敬。

おびただしい数の靴が指すものは?

まず、前提知識をなるべく排除して、ジャケットそのものをじっくり味わってみる。

ジャケット研究の醍醐味の一つは、一枚の絵・写真から無限の想像力が生まれていくプロセスだ。

それは名探偵が殺人現場を見て、残された犯行の断片から真相を読み解くような。

美術館の名画との一対一の対話の中で、絵の中に自分だけの物語を作ってしまうような。

しらす干しの中にたまに混ざっている、ちっちゃいエビとかイカの一生に思いを馳せるような(?)。

そんな驚きとクリエイティビティに富んだ時間なのだ。

……と、思うことにしている。そっちのほうがかっこいいじゃん。

さあ、ではさしあたって、このジャケットに描かれている風景をひとつひとつ読み解いていこう。

ジャケットさんには今一度ご登場いただく。

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ふむ。切り取られているシーンは、学校の下駄箱の一角。中学か高校か。

靴のサイズにかなりばらつきがあることから、おそらく男女共学。

男女ともに同じローファーを履かせて投稿させるってことは、かなり規則に厳しい学校なのだろう。

よく見ると靴の一つ一つに名札貼らせてるしね。管理体制がしっかりしてるイメージ。

奥には、下駄箱の割り当てられた区画ごとに律儀に詰め込まれた靴たち。

そして手前には、それよりもっと多い、おびただしい数の下駄箱からはみ出した靴たち。

こんなところか。

さて、この風景から読み解けることは一体なんだろう?

制服の向こうの真実

解釈に絶対的な正解はないにせよ、まずは自分なりの正解を導き出してみよう。

ジャケット全体を見たときに自分が感じたのは、「画一性の中の個性」そしてその逆説としての「個性の中の集団性」と言ったものである。

下駄箱にきっちり並べられた靴たちは、一見無個性のように見えてその実、ちゃんとそれぞれに個性がある。

きっちり左右揃えて靴箱に入れているもの。

わりと乱雑に放り込んであるもの。

かかとを踏み潰して履いてたんだろうなーと思わせる、背面がくしゃくしゃになったもの。

それはむしろ、見た目上「すべて同じ規格の靴」だからこそより強く見えてくる、それぞれに生徒の内面の「個性」「性格」といったものである。

とかく私達は、自分以外の人を社会的な属性やわかりやすい外見でひとまとめにしようとする。

「スーツを着た、同じような顔のサラリーマンたち」。

「ルールを守れない、幼稚な学生たち」。

「なんだか気持ち悪いオタク」。

あるいは

「ボランティアやってそうな良い人」。

なんてのも、そういうレッテルの一つかもしれない(ちなみにこのレッテルは褒め言葉として機能することはほとんどなく、大抵が「自己満足に浸っている偽善者」という含意を少なからず含んでいることが多いように思う、言葉って難しいね)。

でも。

当たり前のことだけど、同じスーツを着ていても中身は全然違う人だ。

コンビニスイーツが大好きな人もいれば、一ヶ月に一回はキャンプに行かないと身が持たない人もいる。

苔玉づくりが趣味の人もいれば、両親のために実家にすむべきか迷っている人もいる。

つまり、あなたが貼ったレッテルの向こうには、その人それぞれの興味深い個性や事情、性格が眠っている。

それは、制服とかスーツとかオタクとか偽善者とかいった言葉にこだわっているうちは絶対に見えてこないものである。

ちなみに、ジャケットをよく見ると、床に置かれた靴たちの中に一つだけ靴の内部の色が違うものがある。

これを履いている子は、学校からの強制に対して、「靴の中身の色を変える」という必死の抵抗をしているのかもしれない。

そんなことを考えると、この1枚の写真から見えてくるストーリーにぐっと厚みが出てくる。

個性の落とし穴

さて、このジャケットから読み取れることはもう一つある。

それは、さっき言ったことと一見矛盾するようなこと。

床一面に置かれた靴たちについてである。

ここでジャケットさん3回目のご登場。サブリミナルサブリミナル。

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この床一面の靴たちを見て、何を感じるだろうか?

「靴箱になんか入れてやるもんか」、という生徒たちの反骨の意志。

というのが真っ先に読み取れることだと思う。

学校という巨大なシステムに対して、真っ向から対立することはできないにせよ、せめて「学校への入り口(出口)である玄関の、下駄箱という装置に対しては反抗する」という健気なアウトサイダーたちの主張だと。

そして、アルバムタイトルの『健全な社会』という言葉を見て、

「ああそうか、学校という健全さを押し売りしてくる社会に対しての皮肉と抵抗を込めている表現なのだな。」

と推論する。

うん、とてもしっくりくる。

……。

でも。

自分は、この写真から、その一見「個性の勝利」とも思える示唆以外の、もっと空恐ろしいものを感じるのだ。

下駄箱に入ることを拒否した大量の靴たち。

うん、間違いなくそれは体制への順応を拒否した反骨の証だ。

そこは間違いない。

でもね。

この靴たち、一見乱雑に置かれているようで、ぜんぶ同じ方向を向いてきっちり並べられてるのだ。

むしろ、「靴箱による区画」という自分だけのスペースを失ったことで、それぞれの靴の見分けがつかなくなり、結果的にとても無個性的なものにすら感じてしまう。

これ、痛烈な皮肉だと思う。

「よし、『健全な社会』に一泡吹かせてやったぞ!」と息巻く若者たちは、無意識のうちに集団から植え付けられた自分たちの同質性に気づかない。

もっと言えば、かれらは自分たちに「社会への抵抗をしているアウトサイダー」という画一性でレッテルを貼っているのだ。

かつて自分たちが否定した集弾性・画一性から唯一逃れる道だと思って進んだ道が、むしろ自分たちの画一性をむき出しにしてしまうとは、何たる皮肉だろうか。

そのむこうでは、

「どうあがいても社会や集団の支配からは逃れられないんだよ。」

というシステム側のほくそ笑みが透けて見えるような気さえする。

個性と、集団。

生きていく上で、いずれにせよ切っても切り離せない2つの要素の葛藤。

自分はそんな物語を、このジャケットを通して感じた。

yonigeはどんな思いをこめたかったのか?

さて、ここまで、自分なりにこのジャケットから読み取れる示唆を述べてきた。

でも、実際のところこれを作ったyonigeはどんな思いを込めたかったのだろうか?

答え合わせというわけではないけれど、作者の意図がわかると自分の意見との対置もできて、より作品の厚みが増すので、それを紐解いていこう。

アルバム発売直後のyonigeへのインタビュー記事があったので、それを参考にすることにする。

この記事によると、ヴォーカル&ギターの牛丸さんが、歌詞カードをテスト用紙の裏側に落書きしたみたいにしようと思ったのがジャケットのコンセプトのきっかけらしい。

「それならジャケット画は学校にしよう」と考えたときに、学校ぽいものとして習字の風景が思い浮かんだと。そしていろいろ調べていたら、「健全な社会」という標語がズラーッと並んだ習字の画像が出てきたのだという。

そのワードがとても強く記憶に残っていて、最終的に採用したということである。

へえーーー、なるほど、そういうことだったのか。

たしかに、習字って学校的なコンテンツの最たるものだと思う。

みんながみんな、思ってもないような言葉を何枚も何枚も書かされる。

そのうえ、上手い下手の如何を問わず、貼り出されて全生徒にさらされるというオマケつき。

全体主義的な、傍から見たら正直不気味な時間である(ちなみに自分は書道好きだったので習字の時間も別に苦じゃなかったのだけれども)。

その光景の異様さって、たしかに大人になってから検索することで初めて見えてくる異様さなのかな、とも思う。

でも、決して社会派バンドではないyonigeが、かなり強い社会風刺を含んだこの言葉を選んだのはなぜなのか?

それについても上記の記事に答えが載っている。

牛丸さんによると、完全に後付けらしい笑。

まず「健全な社会」という言葉が強く頭に残っていて、それに対してあとからどんな意味がつけられるか考えた、と。

曰く、

「(前略)……結果的に、毎日人とのお別れがあったり、悲しいことがあったり、モヤモヤすることばっかりだけど、それが一番健全な日常といういうか、健全な毎日だっていう意味をあとからつけましたね。」

なるほど、となると、『健全な社会』というタイトルには、社会への皮肉という意味の他に「自分なりの健全な毎日を生きる」という前向きなテーマが含まれているわけである。

それが後付けで生まれていったというのも面白い。

案外名作の生まれるきっかけってそんなもんかもしれない。

ちなみに、上の記事にも書いてあるし、実際曲を聴いているとわかるけど、このアルバムの中の曲に社会への痛烈な皮肉や反骨を歌った曲はほとんどない。

むしろ、在りし日の個人的な思い出を眩しく思ったり、日常のささいなシーンへの情感を密かに歌った曲がほとんどである。

自分のお気に入りの曲は、8曲目に収録されている「春一番」というギター弾き語りの曲なのだけど、その歌詞の一節にこんな言葉がある。

あの日々も、もういないあの人も必ず
帰る場所があり、眠る場所があったのか

日々の忙しさとか、雑多なしがらみの中で忘れてしまいそうになるいろんなこと。

だけどどんな人の中にも、必ず帰る場所があり、安心して眠れる場所がある。

健全さっていうのは、そういう場所を大切にできることなのじゃないか。

そんなメッセージを感じる、優しい言葉だと思う。

CDジャケットって、ほとんど一つの小説なんですよ

もうね、yonige完璧に好きになった笑。

少なくとも『健全な社会』はまごうことなき名盤。

曲がいい。タイトルがいい。

そして、CDジャケットがいい。

そう、CDジャケットって単に視覚的に美しいとか目を引くってだけじゃなくて、曲とかタイトルとか作者の個性とか、そういうものすべてひっくるめたひとつの物語として楽しめちゃうのがすごい。

もう正直、ジャケットの秘密を紐解いていくだけで、ひとつの小説を読んでいる気分。

そう考えると、アルバムの中の曲は、それ自体が主役であると同時に、ジャケットという物語をもり立てるための挿入歌にもなりうる。

今回もまた、すんばらしい作品に出会えた。

愛してやまねーぜ、CDジャケット。

P.S. 断定口調のほうがかっこいいかなーと思ってここ最近ずっと堅苦しい書き口だったんですが、あまりに堅苦しすぎて肩こりする(大学時代のレポートを思い出した)のと、書いてるうちに自然にですます調になってその度断定口調になって修正する、という本末転倒な自体に陥ってナンノコッチャわからなかくなったので、今回限りで断定口調をやめます笑。少しでも誰かに読んでもらうことを前提とするなら、やっぱり丁寧な口調でいたいなと言うのもあるし。次の記事からはですます調で再スタートです。



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