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ひとりぼっちのノスタル紀行 第一話

天気の中でどれが好きかと言ったら、私は断然曇りだ。晴れている日ももちろん好きだが、ときどき怖くなる。青空はどこまでも広がっていて、世界がどこまでもつながっている気がする。その雄大さは、私の手に負えるものではない。だから怖い。

その点曇りはいい。世界が小さなジオラマになったようだ。箱の中にギュッと閉じ込められているような感覚。

こうして朝からのバイトで大失敗した帰り道でも、青空は嫌味なくらい広がっている。道行く人は、それぞれの事情を抱えて歩いている。私の失敗や憂鬱なんて知ったこっちゃない。

こういうとき、置いてけぼりにされているような感覚になる。私はまだ大学生だから、社会の中にいるといえるかわからないけど、それ以上に世界の動きから取り残されているような、そんな気分になる。

もちろんそんなことはない。バイトでの失敗なんて世界中で1秒に1回は生まれている。でも、そんなことはどうでもよくて、今の私を暗く包んでいるなら、それは地球に迫りくる隕石よりも大問題なのだ。



疲れた体にカフェの紅茶は染みる。元々ちょっとかっこいいかもと思って飲み始めた紅茶も、今では飲まない日はないほどの愛飲品だ。おそらく、こういう飲み物はその場の雰囲気も含めてのものだろう。つまり、紅茶の味だけじゃなくて、「カフェで紅茶をたしなむ私」に自己満足している。それを科学的に証明することは絶対に不可能だけど、今の私にはこれが必要なのだ。だが、そんなことはおくびにも出さない・・・出してないよね?

カフェをでて家路につく。今日はこのままぐーたらするかあ・・・時々頭によぎる。このままでいいのかと。一応あと8か月ほどで働き始めるわけだけど、それまでの時間はこうやって過ごしてていいのだろうか。いや、これは道義的とかそういう話ではなくて、私自身の問題として。だってつまらない、この生活。

家に帰る。ゲームでもしよう。据え置きゲームを取り出す。それは現代のグラフィックには到底かなわない1980年代のゲームだ。私はこれが大好きなのである。

その理由は曇りが好きな理由と一緒だ。今のゲームは本当によくできている。ゲームによって無限に世界が広がっているような気さえしてくる。だから怖い。

その点この時期のゲームはいい。世界が広がっているように見せている。けど、どことなくジオラマ感があって、私はそれがたまらなくいとおしい。

これをリアルタイムにやっていた人たちはどう思ったのだろうか。本当に世界が広がっているように感じたのだろうか。そして、私と同じようにそれにおびえていた人間もいたのだろうか。

こういうスキの感覚をなんといえばいいのだろう?性癖?・・・なんかいやだな。

ラスボス一つ手前の敵に4連敗したところでゲームを切る。こういうゲームはどうせここで大苦戦した後ラスボスはあっけなく倒せちゃうんだ。

テレビを見る。土曜のこの時間帯はもっぱらどうでもいい情報だけ流れてくる。人気のスイーツだの、おすすめスポットだの・・・ただ、こういう態度はおくびにも出さない。だって、すれてるみたいだもん。「私はこんなのじゃなくてもっと本質をみてますよ」みたいな。

今日はおすすめスポットの日だった。アナウンサーがしゃべりだす。

『今日はおすすめノスタルジックなスポットです!懐かしい気持ちに癒されながらご覧ください!』

ほう、ノスタルジック?何気なしに見てみる。・・・数分後私は出てきたスポットを逐一検索していた。私の中にあるジオラマ的空間への愛。それを形容するのに「ノスタルジック」という言葉がぴったりな気がしていたからだ。

紹介されるスポットは全国に散らばっていた。意外と近くにもある。あんまりにも遠いところは無理だけど、多少ならいけるかな。

誰か誘おうかな?・・・いや、一人で行こう。これは決して誘う友達がいないということではない(本当にそうではない、本当に)何となく、これは一人で行った方がいい気がしたからだ。

決行は明日にしよう。ちょっと急だが、これくらいの距離なら日帰りで行ける。

でもな・・・ただ旅するのも面白くない。この旅を記録しておこう。いつでも戻ってこれるように。写真を撮ろう。それで・・・そうだ。絵を書こう。いろんなところの写真を集めて、それを基に一枚の絵を描く。「私の最強のノスタルジックスポット」を創ろう。

こうして、私は検索を再開した。もっと具体的な行き方を。

これが「ひとりぼっちのノスタル紀行」の始まりであった。 


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