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「やさしさ」は「つよさ」があってこそ

世間では看護師といえば「やさしい」という形容詞で語られることが多い。
また、「人の世話をするやりがいのあるいい仕事」というイメージもあるだろう。
確かにやりがいがある仕事だと自身は感じているがそれは全てではなく、一部である。
よいイメージが強調されると、交代勤務の厳しさや医療事故などのリスクと隣合わせの現実は薄らいで見えてしまう。
一部が全体のイメージを構成してしまうことに違和感を感じるのである。


実際、そのイメージを支えているのは看護師ではなく、むしろそれ以外の人々ではないか。
人が他人に親切にするのは好意や愛情があってのことだから、看護も好意や愛情が基本にあるに違いないという信念が、このイメージを支えているのではないか。
そうした「やさしい」「やりがいのある仕事」というイメージから「看護におけるやさしさとはなにか」について考えてみたい。


看護師といえども、嫌なものは嫌であるし、
不快なものは不快である。 

鳴り続けるナースコール
(家に帰ってからも耳から離れない時がある…特に夜勤明け。耳鳴りか現実か…)

約束を破り勝手なことをする患者
(糖尿病教育入院中だが、売店で購入したものを堂々と食べている…無断外出してアルコール片手に帰って来た強者も)

わがままで怒りっぽい患者
(私はあなたの召使いではありません!)  

患者の排泄物や吐瀉物の処理 
(慣れますが…自分の体調が思わしくないときは辛い…)

創傷の処置
(縫合時は創部を直視せず、先生の手元に注目してみる) 

だからこそ嫌なこと、不快なことでも「職業」として行っている。わりきっている。
しかし、あらゆる全てのことをわりきって、機械的にこなしているわけではない。
嫌そうに、不快感を顕にやったとすればそれは職業人として失格である。プロとは言えない。
仕事としてわりきっているから、「えらいですね」「私にはそんなことはとてもできない」などと言われると、不本意に感じる。
「それだけじゃない!」
と叫びたくなる。
そのようなネガティブな感情を持つのはひとりの人間としてはごく自然であり、誰しも持つであろうと思う。問題はそのネガティブな感情とどう向き合い、処理するかということである。


生や死、不安、葛藤、痛み、苦しみ…
人間の本質にかかわる、深い部分に接する仕事
それが看護の仕事である。
 

「やさしさ」以上に「つよい心」がないと、病にたおれ、傷つき、苦悩する人と向き合うことはできない。
私自身の傾向として、困っている人を放ってはおけない、おせっかいな一面がある。
どんなに怒られようと、どんなに嫌味を言われようと、どんなに罵られようと、
最後はみんな死んでしまうのである。(かなり飛躍した極論であるが…)
そう思うと、何だか愛おしくなる。 
やさしさに包まれたような気分になる…
もちろん毎回そう思えるわけではないのだが。
それが愛情なのかやさしさなのか
明確にはできない
愛情ややさしさというものは多種多様に与えられ、受け取られる。それゆえにはっきりと定義することは難しい。


「看護におけるやさしさ」ということに着目して言うならば
「やさしさ」だけでは看護の仕事はできない。

ネガティブな感情をコントロールする力が必要である。
「つよい心」をもって、その「やさしさ」を発揮するための「優れた」看護技術、知識を身に着つけ、感性を磨いていきたい。
「感性」つまり「センス」であるが、その磨き方についてはまたの機会に考えてみたい。


「やさしさ」は「つよさ」があってこそ
「つよさ」は「よわさ」を知っているからこそ
その力を発揮できるのであろう。

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