秋から冬へ。

秋の到来に身を浸し、迫る冬の風音を聴きながら、襲い来る焦燥感。

口に出すのも野暮のように感じる後悔の数々。

この肌寒さは毎年のように自分に対し、現実を突きつけてくるような気がする。
夏が終わり、束の間の秋の過ごし易さに世間が躍る中、それを横目にいつも気持ちが沈む。
世間と言えば、少し自分の場所から離れていて、遠くの存在。心なしか他人事のようなニュアンスに捉えることができるが、私が言いたいのはそうではない。実は私がこの意を綴る上で「世間」という表現は大袈裟なものだ。厳密に言えば、知人のこと。もっと、噛み砕き、皮肉れば「過去の人たち」のことだ。

それは流行り廃りの中の意ではなく、自分が過去に関わりを持った者たちのことである。では、なぜその過去、その者、そして自分が去った今も存在するその空間に劣等感を抱いてしまうのか。

それはその者との関係・空間を自ら手放しているからである。

いつもそうなのだ。望んで始めたことを投げ出してしまう。その時は「もう自分にはやり切れない。賄い切れない。精一杯だ」と嘆き、自分を可愛がって、逃げ出す。それから少しの間は気が安らいで安定するが、その安定が続き余裕が生まれると今も尚自分なしで回転するコミュニティを羨む。手放した自分を責め、喪失感に押し潰される。そうこうしているとまた何かを始め、手放し、後悔。

この繰り返しで21年をこき下ろした業は深い。

しかし、このように自分の寂寥感を文字に起こし、インターネットに流すことで気を落ち着かせることに価値などあるわけもなく、ただ不毛なのだ。
次の自分に活かすことなど考えられず、殻に閉じこもり、文字に発散し、何処かに届いて情けをかけてもらえないかとあわよくば助けを乞うこの行為。
文字に価値のない感情を吹き込んでも、全く浮かばれない。

情けない。情けないがそうする他ないのもまた事実なのだ。端から諦めてしまう。そうして何の学びもなく、日常を消費をしてしまう。
人生において旬の時期がこんなにも早く無駄に過ぎてしまって追いつけないのに、死ぬまでまだ80年近くある。

生きることは大変すぎる。
ちんけなプライドだがこんな在り来りな言葉は使いたくないのだが、本当にこの言葉通りの感覚を常に抱いていて、無意味な日々を知らずのうちに周りの人間に擦りつけてしまっていたら…と不安になる。

自分には“生”なんてそんな大層なもの勿体無さすぎるのに、自ら“死”に向かって行けるほど大層でもない。

惰性で消費する日々に価値などない。
後悔に塗れた2枚のレンズは一生曇ったままだ。

笑っている全ての人が羨ましく、腹の底からでなくとも日常の中で笑っている自分に嫌気が差す。
かと言って涙が出るわけでもなく、何となく哀しい。

悲壮感の漂った自分には他との関わりさえも本当は勿体無いのだと思う。人々はこれを「ヤミ」と形容するのだろう。病みという言葉に括られてしまうのならば、とても不甲斐ない。無論、今の私に言い返すことなど出来ないが。

闇を抱えているという表現の方が幾分か気が楽だ。それは生きることに置いて、離れられないものだと思うと共に、それが無いといけないとさえ思うからだ。
ヤミを昇華できる時はまだ遠く、それまで生が続くのかも知らない。考えられない。

ただただ、今を生きるものは素晴らしい筈だ。

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