心の中を

noteでエッセイを書き始めたきっかけは他でもない。自分ではどうしようも無い思いや、やるせなさを何かに昇華したかったからだ。でも、やはりそれだけじゃ満足は出来ず、沢山の人にこの思いを届けたいと思う。この頃の僕は活字から離れた生活をしていて、綴る文章は大層面白くなく、

誰も読まないだろ!

と自分でもツッコミを入れたくなるようなものであった。でも、僕の尊敬する星野源のエッセイを読むことにより、彼のエッセンスを抽出し、文章に昇華する力を得たように思える。そんな出来事を経ての執筆だ(そんな大層なものじゃないけど(笑))。

ある時から人は「他人」というものを自覚し始め、何時しか自分と比べるようになる。こればっかりは人間の性というもので断ち切ることなど到底出来ない。僕達は死ぬまでこの「他との差」を痛感し続けねばならない。

自分は自分だ。

確かに人間そう思える時もある。けれど、それはアイデンティティが確立されている精神状態であるからで、厄介なのはそのアイデンティティが確立されてもいつかまたふとした瞬間崩れる時があるという事だ。

脆くて、柔く、儚い思いは心を搾って、喜怒哀楽を孕んだ果汁が滴り落ちる。その漏れた汁を感情という名の器で受け止める。それを調理して行為に移す。僕は今、文を綴るという行為で感情の昇華を図っている。しかし、現実は冷たく、僕の思いに耳を貸す者は居ない。誰も気にとめない。気づかないかもしれない。誰かは僕を嘲笑うかもしれない。誰かは僕を貶すかもしれない。けれど、いつか僕の思いと共鳴する者を信じて綴り続ける。いつかなんてそれこそ柔くて脆い。そんな不確かな未来に僕は思いを馳せ、それを希望と呼ぶ。無謀かもしれない。無茶苦茶かもしれない。でも、そこにあるのは確かな「今」でそこに虚飾などない。今目に映る景色を言葉にするだけだ。

「今」を映す鏡が心なんだ。

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