見出し画像

#7 The Majority World




2分の1成人式というイベントをご存知だろうか?


子供が二十歳の2分の1である十歳になる時に、親に感謝の気持ちを伝える、特別な参観日のような学校行事らしい。


親にとって今まで育ててきた息子や娘が立派に育っていることを感じることができる1つの大事な節目イベントである。


子供からの
「おとうさん、おかあさん、いままで育ててくれてありがとう!」
は威力抜群で、感動間違いなしの涙腺崩壊イベントだそうだ。

このイベントのことを私の友人Kが話してくれて、私は素直に思ったことを伝えた。


「素敵なイベントだね」と。


しかしそれに対して友人Kは、このイベント自体を開催すべきではないという。


なぜかと思い、色々聞いてみると、Kには当時片親の友達や、親から虐待を受けている友達がいたらしい。

Kは、Kやその友達が十歳の時に2分の1成人式をしなかったのだが、そういったKの友達にとって2分の1成人式に参加することは苦痛なのだろうと話した。


Kはそんな子がこの世の中にはいるのに、親が子供の成長を喜ぶための2分の1成人式は開くべきではないと考えていることを話してくれた。


確かに。同感である。

十歳の子供に与えられる試練としては、厳しすぎるかもしれない。


周りに親がいないことを知られる。

他の人とは違った育ち方をしたことを、肌で実感することになる。


たかが親のエゴを満たすためにやっているとも言えるかもしれない2分の1成人式のせいで、辛い経験をしなければいけない子がこの世に1人でもいるのなら、こんなイベントはなくてもいいのかもしれない。



しかし、それが1人だけだとしたら…



仮に40人のクラスがあったとして、その1人の子が我慢してこの試練を受ければ、39人の子の親は人生で何度あるかわからないほどの感動の涙を流し、今までの苦労を肯定することができるのだ。


「育ててよかった」
「生まれて来てくれてよかった」
そんなことを考えながら子供への愛を深め、二十歳で迎える成人式までまた子育てに励むのだろう。


思春期を迎え口も聞いてくれない息子や娘との関わり方に悩み、時に涙を流しながら孤独な辛い子育てにめげそうになっても、2分の1成人式の「ありがとう」を思い出してまた頑張れるのかもしれない。


もしかしたらそのような複雑な環境で育った子にとっても、試練を乗り越えた先には成長があるのかもしれない。


誰しもが大変で苦しい経験をするが、それも今となってはいい思い出であり今の私を作り上げてくれた1つ1つの大事な要素なのだ。
私は「おかげで人間強度が上がったな」くらいに考えている。


なので、親のいない1人の子にとっても、同じことが言えるのではないかと考えた。


だからKに言ってみたのだ。

「もし2分の1成人式をやらなかったら、親たちは幸せになれる機会を失ってしまうかもしれないんじゃない?」

これを聞いた途端Kは、まるで私を感情を持たない冷たい人間だとでもいうかのような目でみた後に、力強く私の言葉を否定した。


「1人の子を見殺しにするの?」


この言葉を言われた時には、
「そこまでは言っていないじゃん」
と思ったのだが、いろんな人とその後この話をしていく中で、世の中には2分の1成人式のように全体最適を優先するイベントや社会の仕組みがたくさんあることに気がついた。


利き手がわかりやすい例だと思う。
世の中は右利きの人(大多数)が暮らしやすいように基本作られているため、左利きの人(少数)は少なくとも生きづらさを感じたことがあるだろう。


LGBTもその1つで、彼らはマイノリティのジェンダーを持っているというだけで、異性愛中心主義を掲げる全体最適の中で自分たちの存在を肯定されないことに苦しんでいる。


就職活動だってそうだと思う。

巨大なデータによって算出し、就活生の性格の診断結果を意味押し付ける自己分析。
そして文字数や内容の制限があり、自分を語りつくせるはずのないES。

この2つを装備して就活生は企業の人事に立ち向かうのである。
実際多くの人がどこかの企業に採用されるのだが、こんな装備では語れない才能を持った人が人事にぶちのめされ、自分を否定されることもある。


私はこの人たちを殺していたのかもしれない。


全体最適が優先される社会のシステムの中で、ただそのシステム上で良しとされるものを単純に評価していた。
私は恐らく彼らを見殺しにしていた。

しっかりと耳をすませば、世界中のどこからでも悲鳴は聞こえてくるのに。

私は耳を塞ぎ、心を閉ざし、当たり前のように正しいとされるものを正しいと評価していた。


それでKの言葉を振り返り、
「まあそりゃあんな目をするわな」
と思ったわけである。


でもどうすればいいのだろう。

やっと彼らの悲鳴を聞こうとした私は、悲鳴の根源が大きすぎることにも気づくのだ。

それはシステムであり、マジョリティであり、正しいと定義されていることなのである。

こんなデタラメなラスボスを倒す必殺手段を、私は某トレーディングカードゲームの主人公のような引きの良さで用意することができないので、はてさてどうしたものかと悩む。

しかし、そんなモヤモヤも最近T先輩と話して少し晴れた気がする。
T先輩は僕の友人Kと同じように考える人なので、私がこの話をしてLGBTの人を例にあげると、

「たとえだれかがゲイをバカにしたことでその場が笑いに包まれたとしても、そのゲイの人が全体最適で苦しんでいるのなら、全員無表情でいる方がマシ」

と言っていた。

こんなことを考えて、言葉にしてくれる人がいるのだ。

こんな人が近くで自分のマイノリティを支えてくれたら、どんなに心が軽くなるだろう。

どれだけの苦しんでいた人が、
「生きててよかった」
と考えてくれるのだろう。

だから私は、彼らのそばに寄り添って彼らの存在をちゃんと肯定できる人でありたいと思うようになった。

どれだけ社会のシステムや既存の正しさが、2分の1成人式のせいで親のいない1人の子を傷つけても、私はその子の近くで話を聞いて、うんうんと頷きながら、話してくれてありがとう。
と言える人でありたい。

たとえ99%の人が、
「2分の1成人式をするべきだ」
と言って、その子の存在を否定しようとしても。

私はただその1%の人のために、近くで寄り添える人でいたい。


身近にそんな人がいるだけで、もう少し世界は優しくなれると思うのだ。




P.S.今日は私の尊敬する、世界を征服するかの如く野心に満ち溢れた友人についての文です。私がnoteを始めたのも彼の影響です。





#海外 #日記 #サッカー #いろいろ考えさせられる歳やなぁ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?