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#3 一番辛かったこと



彼の有名なエイブラハム・リンカーンはこう言っている。


あなたが転んでしまったことに関心はない。
そこから立ち上がることに関心があるのだ。



今回は大学時代の後輩Nさんのリクエスト「一番辛かったこと」について書いていきたい。


先日ある記事で知ったのだが、
人間は幸せな記憶よりも辛かった記憶の方をより強く記憶する生き物らしい。

であるにも関わらず、
辛い記憶を呼び起こそうとするもすぐに思いつかなかったというのが本音だ。

私の忘却癖は人の真理をも覆すようだ。


しかしながら詳細に振り返っていくと辛い記憶は確かに存在し、全体的に見ると私の人生に鮮やかなアクセントを加えてくれている。


さて、本題に入ろう。
私には「一番辛かったこと」がない。
というのも私の辛かった出来事は順位などつけられないほどにどれも色濃いのだ。

だから今回は辛い記憶の一部を紹介しよう。

それは高校3年を迎える直前に負った「人生初の大怪我」だ。


①絶望

2年生での高校サッカー選手権大会の全国大会を終え、いよいよ高校ラストシーズン。
新チーム最初の大会である新人戦を無失点で優勝。
県内一つ目のタイトルを獲得し意気込んでいた時にそれは起こった。



左膝半月板損傷



半月板とは膝の骨と骨の間にあり、膝への衝撃を和らげるクッションのような重要な役割を担う軟骨である。
膝の怪我は選手生命を左右するほどの大怪我になり得る。
当時、私が崇拝する本田圭佑選手がこの怪我を負って半年の戦線離脱を余儀なくされていた。

私の半月板は損傷どころか真っ二つに割れてしまっており、医師の判断で将来的に膝への負担を和らげるが復帰まで長い時間を要する縫合術(縫い直す)を施すことになった。
また、半月板には血液が流れていないことから自然回復しないため、縫合したとしても上手くいかず再発を繰り返す可能性も十分にあった。


「夏のインターハイは難しい」


ドクターからのこの診断は、まだ当時17歳の未熟すぎる私を絶望させるには十分だった。

高校サッカーにおいて最も世間の注目を集めるのは冬の「高校サッカー選手権大会」だが、
プロや大学のスカウト、つまりは進路に直接的に関係するのは夏の「インターハイ」であり、ある意味冬の選手権よりも大きな意味を持っていた。

大きな絶望感に苛まれていた私は、
情けないことに俯きながら半泣きで診断結果を当時の監督であったF先生に報告しに行った。

F先生は軽く微笑みながら言った。

「そんな元気ないの珍しいな。
かじなら乗り越えられる。一緒に頑張ろう。」


私は超がつくほど単純だった。
この瞬間に将来教員免許を取ることを決めた。


自然と顔が上がった。
こんな日でも夕日が綺麗だったことを今でも鮮明に覚えている。


②孤独

私は受傷から1週間程で手術を受けた。
初めての手術であったが、手術の担当ナースが可愛いかったからか私は妙に落ち着いていた。
男は可愛い子を見ると全ての能力が5ずつ上がる。その時自分のことをキムタクだと思うほどに私のカッコつけポイントは跳ね上がっていた。
可愛いは正義なのだ。

手術を無事に終え、同部屋のお爺さんの夜中に連発される寝っ屁や大きないびきを除いて、術後は順調だった。

2週間後に退院、そして1ヶ月後には伸展(膝を伸ばしきった状態)させたまま固定していた膝の装具を取り外した。

私は言葉を失った。

2週間の車椅子生活と1ヶ月の松葉杖生活で見るも無残に痩せ細った足。

そして、何より膝が曲がらないのだ。
例えるなら、関節を逆方向に曲げようとしている時のような嫌な感覚である。

ここからのリハビリはまさに地獄。
まずは膝を曲げること。
次に筋力を元に戻すための1日が長く感じるような地味なトレーニング。

もう1度ボールを蹴る姿が想像できなかった。

練習で充実の汗を流す仲間を横目に毎日病院にリハビリに通った。
試合では得点で歓喜し、負けては悔しがる仲間を見て、蚊帳の外にいる気分だった。

鏡に映るトレーニングしている自分はいつも無表情。


孤独だった。


そんな私に寄り添い、
文字通り叱咤激励してくれたのが当時高校の専属トレーナーであり、通いつけの病院のトレーナーもしていた理学療法士のHさんだった。

インターハイまでの復帰を目指す私のリハビリの量は尋常ではなく到底2、3時間で終わるものではなかった。

長い日では5時間をゆうに超えた。
だが、Hさんは病院の営業時間は終わっているのにも関わらず灯り1つだけが灯る薄暗くなった病院のリハビリルームで、本当に遅くまでトレーニングに付き合ってくれた。

毎日通う私に他のトレーナーの方や常連のおじさんおばさんも声をかけてくれた。

暖かった。
気付けば独りではなくなっていた。

よろよろだった足取りはいつしか力強く踏ん張れるようになっていた。


③復活

迎えた夏のインターハイ広島県予選。
負ければ私のインターハイが終わる。

ピッチに私の姿はない。
スタンドから全ての試合を見守った。


目標としていた場所には立てなかった。


私のいないチームは問題なく勝ち上がり、見事決勝も試合終了間際の劇的な決勝ゴールで全国への切符を手にした。


終了のホイッスルと同時にスタンドに雄叫びをあげながら駆け寄ってくる仲間達。

彼らは口を揃えて言った。


「かじ、一緒に行こうな」


自然と涙が溢れていた。

独りじゃなかった。
私がピッチにいない間も彼らはずっと仲間だったのだ。


そして受傷から約半年、

私は全国大会のピッチに立っていた。

足は万全ではなく出場時間は限られていたが、先生や仲間はそんな私を信頼してメンバーに選んでくれた。
これまで支えてくれた全ての人の為に精一杯闘った。

ベスト8で敗退してしまい目標としていた日本一には届かなかったが、希望していた大学への切符と大会優秀選手に選ばれて、
怪我や孤独と向き合い続けた私の半年間は幕を閉じた。




私はこの辛い経験から何を学んだのか。

誰しもに訪れる予期せぬ悲劇。壁。

その瞬間は辛い現実に目を背け、立ち止まりたくなるだろう。

しかし、その場で足を止めてうずくまっていても時間の流れは止まってくれない。

共に寄り添って悲しんではくれない。

どれだけ己の弱さや不甲斐なさに打ちのめされようと歯を食いしばり前を向かなければ永遠に情けない自分のままだ。


だからこそ、リンカーンは言ったのだろう。


あなたが転んでしまったことに関心はない。

そこから立ち上がることに関心があるのだ。

と。


失敗にめげず再び立ち向かうのか。

教訓を得て別の道を目指すのか。

それとも

自分の不幸を嘆き続けるのか…





P.S.メディアさんおれの言ったこと忠実に書かんかいとこの時思わされた記事が下のやつです。私はもっと本田圭佑みたいにバリバリカッコつけて語りました。


https://www.soccerdigestweb.com/news/detail1/id=4923



#海外 #日記 #サッカー #辛いのはちょっと重たくなるね

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