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『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレディみかこ 「小学校は社会の縮図だ」と、難しい顔して

このnoteは、まだ本を読んでいない人に対して、その本の内容をカッコよく語る設定で書いています。なのでこの文章のままあなたも、お友達、後輩、恋人に語れます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレディみかこ

○以下会話例

■社会問題を考える入り口

 「社会問題を考えるきっかけになる本か。そうだな、そしたらブレディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』がおすすめかな。この本は、イギリスで起きてる人種差別や貧富の差などの社会問題を、日本人の視点で書いているエッセイなんだ。著者のブレディみかこさんは、高校卒業後イギリスに渡って、アイルランド出身の旦那さんと結婚して、中学生になる一人息子がいるんだ。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、その息子の視点に立って、息子が中学校生活を送るなかで直面する小さな出来事から、大きな社会問題を考えるエッセイなんだよ。

■初めての「下層階級」

著者の息子はもともと、優秀な生徒が集まるいわゆるエリート小学校に通っていたんだ。だけど、中学に上がるときに、地元にある「元底辺中学校」に通うことにするんだ。その「元底辺中学校」は、生徒の学力レベルの低さと素行の悪さから、近所からの評判も悪く、市の学校ランキングで最下位をとっていたんだよ。だけど新しい校長先生が就任して、伸び伸びとした教育を生徒に受けさせることで、学力レベルが上がって今や中くらいのレベルになっている中学校なんだ。ただ、学力レベルが多少上がったと言っても、貧しい地域に建っているその「元底辺中学校」は、息子がかつて通っていたエリート小学校では考えられない出来事が起きるんだよ。

例えば、「ランチに使うお金が多すぎる」と先生に注意される生徒がいるんだ。イギリスには、生活保護や失業保険を受けている家庭は一定額まで給食費がタダになる、というフリー・ミール制度があるんだ。中学に上がったばかりの生徒は、慣れていないからその上限を超えてしまう生徒が多くて、それを先生が注意していたんだよ。他にも、「夏休みどうだった?」と聞いたら「ずっとお腹が減ってた」と答える生徒がいたり、平気で人種差別的な発言をする生徒や、身長が伸びても新しい制服を買えない生徒がいるんだ。

こういう貧困や人種差別といった社会問題は、「上層階級」にいたらなかなか気づけないんだよね。「元底辺中学校」に入って「下層階級」の生活を初めて見て、あらゆる社会問題に直面した息子は、中学生なりに自分で考えて、その問題に対して行動するんだよ。その行動が純粋で、核心をついているから、自分の社会問題への向き合い方について考えさせられるんだよ。

■エンパシー(共感力)の大切さ

この本は、「人の立場になって想像すること」が大きなテーマになっているんだ。イギリスはたくさんの移民がいて、いろんな人種が混じり合って暮らしているよね。そこでは人との差を認め合う「多様性」がキーワードとなってくるけど、なかには差を認めない、人種差別的な発言をする人がどうしてもいるんだよ。

著者の息子も、日本出身の母親とアイルランド出身の父親から生まれているから、国籍はイギリスなのに見た目はアジア系で、「元底辺中学校」では差別の格好な標的にされてしまうんだよ。ミュージカルの授業で「春巻きが詰まった声」と言われたり、下校中に「チンク(中国人への蔑称)」とからかわれてしまうんだ。

そしてここで大切なのが、「人の立場になって想像すること」だって著者は言ってるんだ。差別的な発言をする人を「レイシストだ」って断定して非難することは簡単だよね。でも断定してその人の悪口を言ったとしても、そこから何も生まれないよね。

生まれながらのレイシストはいないはずだから、なぜ彼が差別的な発言を平気でするようになってしまったのか、その背景、環境、思考を想像して理解しようとしてあげること、これが大切だって言ってるんだ。

■エンパシーとシンパシー

この、「人の立場になって想像すること」を「エンパシー(empathy)」と言うんだ。エンパシーは、たとえ自分が賛同しない言動に対しても、歩み寄ってその人の立場になって想像する能力のことなんだ。間違えやすい単語として「シンパシー」がある。シンパシーは共感とか同情とか、ある考えに対して感情が動くことなんだ。一方エンパシーは、他人の感情や経験を理解する能力。つまり、シンパシーは心の動き、エンパシーは理解する能力なんだよ。

病気の人とか弱い動物を見て、可哀想だと思って同情することはもちろん大切なことだよね。だけどあくまで「同情(シンパシー)」は自分に賛同できるものに対してしか心が動かないんだよ。そして自分で努力をしなくても自然と湧き出るものなんだ。

それに対し「エンパシー」は、自分とは違う考え方、信念に対して、別に可哀想だとかは思わないけれども、何を考えているのか想像する能力のことなんだ。

■自分で誰かの靴を履いてみること

文中ではエンパシーを

「自分で誰かの靴を履いてみること」

って表現しているんだ。靴には色々なサイズがあって、カッコいいものも、汚いものも、軽いものも、高級なものもあるよね。その「自分には合わない靴」である「誰かの靴」を履いてみて、相手の考えを理解する能力がエンパシーなんだ。

さっきも行ったけど、イギリスには多くの人種がいて、黒人も白人も黄色人種も同性愛者も障害者も貧しい人も色んな人がいるよね。その多様性の社会で、お互いが違いを認めあって生きる上で大切なことが、エンパシーなんだって著者は言ってるんだよ。

■多様性を否定する人を理解する

ぼくはこの「エンパシー」についての説明を読んで、多様性について、前からモヤモヤしていたことがすっきりしたんだよね。日本では、職場で同性愛者に対してセクハラがあったり、同性婚を認めてもらうように運動していたり、LGBTに関連する報道が時々されているよね。僕はLGBT当事者ではないけれど、LGBTの方がもっと生きやすい社会ができれば良いと思う。そして同性婚も認められるべきだと思う。でも世の中にはLGBTに対して嫌悪感を示して、同性婚に反対する人がいるよね。

この「LGBTを否定する人」に対して、「異性愛だけが愛じゃない、同性愛も立派な愛だ。多様性を認めろ」と言って批判する声があるけど、それって、「『多様性を認めない』という多様性」を否定しているんじゃないかって疑問に思っていたんだよ。多様性を認め合う土壌に、LGBTの尊厳は成り立つはずなのに、その運動が逆に多様性を否定することになってしまっている気がしたんだ。

LGBTを否定する人が、なぜ否定するのか、その信念は何なのか、どういう論理構成なのか。「エンパシー」を使って「LGBT否定派」の考えを理解することが、互いにとって意義のある一歩になると思うよね。

全員が同じ考えを持っている社会を目指している訳ではなくて、違いはそのままに、多様性を認め合う社会を僕らは目指すべきだよね。だとしたら、やっぱり「相手の靴を履いてみること」が大切だって気づかされるよね。

■人間は罰するのが好き

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』では、さっきの「自分で誰かの靴を履いてみる」とか、印象に残る言葉がいくつか出てくるんだよ。その中でも息子が言ったイジメに関する言葉で、「人間は人をいじめるのが好きなんじゃないと思う。罰するのか好きなんだ。」という言葉がすごい印象的なんだ。

この言葉は、食堂で万引きをする生徒に関しての言葉なんだ。「元底辺中学校」には、家が貧しくて十分な食事が取れないため、食堂で頻繁に万引きをしている生徒がいるんだよ。その生徒に対して、他の生徒が「万引きをしてはいけない」と言って最初は注意するんだけど、その注意がエスカレートしていって、イジメに発展してしまっているんだ。

万引きをすることが多様性だとは言わないけれど、イジメにまで発程してしまうのは、正義感が膨れ上がって暴走してしまっているよね。人は、一度「叩いていい人」だと認定してしまうと、正義をかざしてとことん叩いてしまう傾向にあるんだ。これはSNSでの誹謗中傷でも同じようなことが言えるよね。

「悪い人」を罰することで、自分が良いことをしたような、正義に従えたような高揚感を得ているんだ。「人は罰するのが好き」。確かにそうかもしれない。

新約聖書にも「あなたたちの中で一度も罪を犯したことのない者だけ、この女性に石を投げなさい」という記述があるけど、まさにこのことを言ってるよね。

■きっかけとなる本

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、難しい問題を扱っているけど、文体自体はとても軽くて読みやすいから、楽しんでスラスラと読めるはず。貧困とか人種差別とか少しでも興味があったら、いやなかったとしも、その社会問題を考えるきっかけになると思うから、是非読んでみて。」

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