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プライバシー・パラドックス ~データ監視社会と「わたし」の再発明~を読んで

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メディア美学者である武邑さんの新著「プライバシー・パラドックス」が非常に面白かったので、備忘録的に内容と感想をまとめておこうと思う。

この本を一言でいうと

昨今「データ」や「プライバシー」に対する人々の欲求と行動の間に大きな乖離が生まれている。

人々はプライバシーや自己のデータ保護を主張する一方で、そうした権利を脅かす便利なサービスを進んで利用している。

そうした「プライバシーパラドクス」とも言うべき状況の問題、その解決の目指すべき方向性について書かれた一冊。

本書が提示する現代インターネットの課題

インターネットによって我々はプライバシーに対する自己決定権を失っており、ポスト・プライバシー、プライバシーの死とも呼ぶべき状況になってしまっている。

我々はサイバーパンクな未来に加速しているのではなく、魔術的な前近代の過去に放り込まれている。

デジタルツインの所有権が自分にない状態は中世の農奴的な状態であるし、データ侵害からの保護を受ける交換条件として、自分のブラウジングデータという果実を提供している構造は恐ろしく封建主義的だ。

そうした状況の原因

法律でプライバシーを保護するべきだが、現代は保護する対象が正確に決定することができない。

物理的な現象が主軸に置かれる世界ではプライバシーの範疇がわかりやすかったが、データとなったプライバシーは明確な線引が難しい。

筆者が主張する解決策

ヴォルテールが「もし神が存在しないなら、人は彼を発明しなければならない」と言ったように、プライバシーが存在しないなら、我々はプライバシーを発明しなければならない。

プライバシーは権利である以上に義務であることを人々が自覚できるための法制度が必要だ。

納税(とそれによる対価)は国民の権利であり、義務である。それと同様に、プライバシーは権利であり義務である。

人々は自身のプライバシーを自ら守る義務がある。

そのためにも、プライバシーの所有権はあくまで個人にあるべきだ。

ヨーロッパの市民社会の登場の歴史を見れば、人々は市民である前に個人である必要があった。プライバシーにおいても個人がコントロールを持っている状態が必要だ。

ハンナ・アーレントが言うように、誰にも服従する権利はないのだから。

そして同じくハンナ・アーレントが言うように、悪は凡庸である。

一般市民の判断力の崩壊によって悲劇が生まれる。

プライバシーの権利と義務を放棄することがあれば全体主義は繰り返される。

全体主義に対抗できる武器として、プライバシーの権利と義務は固持しないといけない。

本書を読んで考えたこと・感じたこと

筆者が主張する「ユーザーが自己のプライバシーデータのコントロール権を持つべき」という論には大いに賛成だ。

しかし同時に、今日のインターネット産業において、データはサービス利用のための対価であるということも忘れてはならない。

企業が無料で高度なサービスを提供できているのは、ユーザーが提供するデータを集約し収益化アルゴリズムを最適化できているからに他ならない。

プライバシーパラドクスの解決策を考える際に、企業側の経済的インセンティブをうまく設計できなければ、規制を講じてもすぐに形骸化してしまうだろう。

社会・企業・個人にとって三方良しのプライバシーデータの取り扱い方とは何なのか。

このテーマに対する明確な答えを自分はまだ持てていないが、引き続き考えたいテーマである。

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