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青空英会話セラピー

今の仕事を始めて二年目の頃。人と話すのを怖れるひきこもりがちの若いクライアントがいた。まぁ何度目からかワタシとマンツーで会えるようになってたし重度ってほどじゃなかったのだけれど。英語に興味があるってことで週に一回英検の勉強を一緒にしてた。 

ある日「なんで英語の勉強してるの?」って尋ねたら「外国の人と話してみたい」と言う。 

「話してみたい⁉︎」 

だったら話してみようと外国人観光客で溢れる広島平和記念公園に誘ってみたら意外にあっさり承諾。 

二人で立てた作戦はこうだ。 

❶彼が外国人に聞きたい質問を英語で考え準備し、喋る練習をしておく(宿題)
❷一緒に平和公園に行く。
❸ワタシが(一応英語で)外国人観光客に声をかける。
「僕らは英会話を学んでいます。僕らはお金がありません。この公園は僕らの無料英会話教室です(ドヤ顔で)。少しの時間でいいので僕らの英語の先生になってもらえませんか」
❹相手が英語圏以外の方の場合、あるいは断られた場合は、丁重にお礼を言って、別れる。
❺相手が英語圏の方で承諾してくれたら、ワタシがもう少し話を膨らませて彼の「質問タイム」につなぐ。
❻彼が質問する。会話する。
❼丁重にお礼を言って別れる。
❽以下、繰り返し。 

この世は結構善意に満ちていて、やりとりを断られることはほぼなかった。皆さん笑顔で丁寧にやりとりに応じてくれた。 

何より驚いたのは、彼がやりとりを本気で楽しめてたことだ。回を重ねるごとに堂々と質問するようになり、アドリブさえ加わるようになっていった。 

この青空英会話セラピーは、ワタシが部署を離れることになったことで半年に満たず終了してしまった。後任の人に引き継ぎを頼んだが二つ返事で断られた。 

この経験から学んだこと。 

僕らは日本語を自在に使える。だからこそ自分の思いをより正確に伝えようとするし、伝わってほしいと望む。それゆえ、表現の正確さにこだわったり、僅かな解釈の齟齬に過敏になったりする。チョットのズレがストレスになる。 

でも不自由極まりない異国の言葉によるコミュニュケーションならば、ハナから正確さなど期待しない。てか、できない。ハードルは桁違いに下がる。限られた語彙を組み合わせできるだけシンプルに言いたいこと聞きたいことだけを表現しようとする。 

できるだけシンプルにってのがポイントだ。余計な枝葉へのこだわりはサッサと捨てることができる。 

だって無理だから。 

それがいい。 

もう一つ。コミュニケートすること、そのものの喜びを思い出せる。 

自分の質問を相手が理解しようとしてくれる、相手に理解される、相手からリアクションが返ってくる、そんな単純なことがものすごく嬉しいって思える。 

「伝わった!」ってテンション上がる。 

訊いてる内容なんて無関係だ。 

「どこから来たの?」「どこ行ったの?」「どこが良かった?」「何食べた?」「美味しかった?」 

文字にしたら屁みたいなことだ。 

でもそんなの関係ない。大事なのはアクションーリアクションの気持ち良い連鎖。それだけ。 

そんなこんなで、当時の僕は「外国語セラピー」というのを妄想してた。セラピストもクライアントも外国語でやりとりするというもの。「これって英語だと何て言うんだっけ」って辞書引きながらお互いに相談しながら、やりとりするってもの。結局本番でやる勇気はなかったのだけれど。 

でも、外国語を通すことで、言いたいこと伝えたいことがシンプルになる(ならざるを得ない)っていうのは面白いなーってずっと頭に残ってた。 

で、最近このエピソードをなぜかフト思いだして、「あぁそうか」と気づいた。 

「別に外国語じゃなくても日本語のままシンプルにすりゃいいじゃないか」と。 

妙なこだわりさえ捨てれば今すぐにでもできる。 

そんなことに気づくのに15年近くかかったというマヌケなお話。

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