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遊ぶ人 54/100

みうらじゅん氏の『さよなら私』(2009)を再読し、氏が五年間かけて完成したという「アウトドア般若心経」に、改めて心惹かれた。

全国津々浦々の街中に溢れる看板の文字から、般若心経を構成する全278文字を探し出し、全文を完成させるという試みだ。

なんという無意味!
なんという遊び心!

楽しそすぎる・・・

とは言え、コレを自力で完成させる性根はない

でも、やってみたい

というわけで、かなりライトに似た試みをやってみた。

ターゲットは大好きな尾崎放哉氏の自由律俳句。

「アウトドア自由律俳句」だ。

いやー、楽しかった♪

街中歩いてる間ずーーっと、看板からポスターから視界に入る文字という文字をチェックしつづけた。余計なことなーーんも浮かばんかった!

無我無心でお経あげてんのと同じ効果アリ

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「人間とは何か?」

紀元前から議論され続けてきた哲学的問いである。

まぁ答えの出るはずもない不良設定問題だ。

ただ、人間は分かった気にならないとストレスを感じ、グルグルと余計なことばかり考えてしまう悩める生き物である。

そういう意味では「悩める人:ホモ・アングスティア?」あたりが最適な人間の定義のような気もする。

コレは僕が今テキトーに思いついた定義だが、過去には「悩める賢き人」たちが余計なことをアレコレ考えることに貴重な時間を費やし、脳みそのリソースを無駄遣いしなくて済むように、思弁や議論を重ねに重ねて、さまざまな定義を生み出してきた。

有名どころでは・・・

□ホモ・サピエンス(知恵あるヒト)
□ホモ・ファベル(工作するヒト)
□ホモ・ロクエンス(言葉使うヒト)
□ホモ・エコノミクス(経済するヒト)
□ホモ・レリギオス(宗教するヒト)
□ホモ・ソシオロジクス(社会するヒト)
□ホモ・シンボリクス(象徴するヒト)
□ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)

いろいろあるけど、個人的に好きなのは最後の定義だ。オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガー氏が1938年に出版した自著で示したものだ。

ホイジンガー氏は言う。

人間とは「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」のことである。遊びは文化に先行しており、人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた。つまり、遊びこそが人間活動の本質である。

遊びは自由な行為であり、「ほんとのことではない」としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用を織り込まれているものでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範を作り出す。それは自らを好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。

難しいことは置いておく。

日々の暮らしの中で、意識なり注意なりは「外」に向いているのが本来であり、健全だ。それが「遊び心」に駆動されていれば、言うことなしだ。元気になる。意味なんて不要だし、必要なら後からいくらでも付け足せる。

意識をうちに向け、内面をグルグル探索しても、なんにも見つからない。

なんであれ、外の世界に探し求めるべきものが設定されているのが、良きライフの条件だと思う。

良い遊びを見つけた♪

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