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不登校雑考③学校に行ける理由 23/100

(昨日のつづきです)

ようやく本題。

不登校について考えるとき「なぜ学校に行けないのか?」と問う人は山ほどいる。

だけど「なぜ行けてるのか?行けてたのか?」と問う人は、意外と少ない。

今回は、なるべく一人称で、個人的な体験や感覚に照らして、考えてみようと思った。カウンセラー(という一応専門家の端クレ)として枠組みは脇に置いておく。

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●僕はなぜ学校に行けてたのか?

僕は、いわゆる団塊ジュニア世代。小中学生だったのは1981年から1989年あたりの9年間だ。

ほぼ毎日、休むことなく学校に通っていた。同じ時間に起きて、同じ服を着て、母の準備してくれた変わり映えのしない朝食を食べ、同じ通学路を通って、準備された時間割に沿って、学校で過ごしていた。

◯行けてた理由❶ー習慣

学校が楽しかったかと問われればそんな気もするし、退屈だったかと問われればそんな気もする。

そもそも「楽しいから行く」とか、「退屈だから行かない」とか、そんな類の場所ではなかったように思う。

端的にいえば、何も考えていなかった。

「行きたい」も「行きたくない」もない。あえていうなら「そういうもんだ」と思っていた。

外での用事が終わったら、自宅に帰って、家族と過ごすのと同じだ。「なぜ僕は、毎日この家に帰ってくるのだろう?」と疑問に思うことはない。

プログラムされた自動機械のように、学校に通い、家に帰る。他に選択肢はない。正しいも間違ってるもない。望ましいも望ましくないもない。価値だの意味だのに基づいてたわけでもない。

単なる「習慣」だ。

生まれる時代が違って、朝起きたら野山に混じりて薪を集め、井戸で水を汲み、親と一緒に畑仕事を手伝って、幼いきょうだいたちと遊んであげて、夜は風呂を沸かして、貴重な油を節約するためにさっさと寝床につく、みたいなのが習慣だったら、なんの疑問も抱かずに、そうしていただろう。

二宮金次郎さんや木下藤吉郎さんやスティーブ・ジョブズさんみたいに、あたりまえから外れた世界線を自らイメージして、周りから奇矯と見られることなど歯牙にもかけず、独自の選択で日々の行動を決めていくようなタイプの生き物ではない。

「僕はなぜ学校に行けてたのか?」

その問いに対する答えの一つは、

それが唯一の習慣になっていて、なんの疑問も抱かず従っていたから

それだけのことだと思う。

◯行けてた理由❷ー幸運

人が「自分はなぜここにいるのだろう?」「こんなことをしてるのだろう?」と考えるのは、現状がストレスフルになった時だ。不快や不満が一定のリミットを超えた時だ。

そういう意味では、僕は学校に、あるいは日々の生活にそこまでのストレスを感じていなかったのだろう。

食うに困ってはなかった。身の危険も感じていなかった。必要なものは与えてもらえてた。勉強もそこそこできた。友達もいた。

「もうイヤだ!何がなんでもこの環境から抜け出したい」みたいなレベルまで負のエネルギーが高まることはなかった。

ただ幸運だったから

そうとしか言いようがない。遺伝子的に、環境的に、ただ恵まれていたわけだ。親に、ご先祖様に、先生に、友人たちに、そして世の中に感謝だ。

◯行けてた理由❸ー学校に行かないメリットがなかった

当時は家にエアコンもYogiboもなかった。インターネットもスマホもなかった。ファミコンは発売されてた(1983年だ)けど、僕は買ってもらえなかった。要するに、家にいても快適ではないし、暇なだけだった。友達とも話せないし遊べないし、一切の情報から遮断されるし、一人で黙々と楽しめる趣味もない。

あと、周りはみな学校に行ってたし、行くのがあたりまえだったし、行かなかったら複数の大人たちにシバかれるだろうことは分かっていた。世間的にも家庭的にも「行かない」という選択肢はなかった。とりあえず行ってれば、心身の安全は保証される。

家にいても、何もいいことはなかった。学校以外に行ける場所もなかった。

学校に行かないことに一切のメリットがなかったから

これが行けてた理由の三つ目だ。

●今の子どもたちは大変だ

そう考えると、古い世代の僕なんかは「今の子たちは大変だな」と思ってしまう。

現在に比べれると、やるべきことも、やれることも、楽しいことも、出会いの機会も、情報にアクセスするチャンネルも限られている不自由な環境を「あたりまえ」のものとして育ってきた僕にとって、「自由に選択できる」「たくさんの選択肢がある」というのは、魅力的でもあり、面倒でもある。

なければ「仕方ない」とそのままスルーで受け入れることができるけれど、たくさんの可能性を示されれば、どっちの方がよさそうだとか、それぞれのメリットデメリットとか、いろんな判断を下さなきゃいけなくなる。

例えば、「重力」というのはあるのが当たり前だ。それをストレスとは感じない。けれど、重力をコントロールし、従来の1/10の負荷で日常を過ごせるデバイスを誰もが持てるようになったとしたら、そのデバイスが使えない「自然な環境」はストレスでしかなくなるだろう。

テクノロジーによって快適化された世界、あるいはサポートの仕組みが手厚くあれこれ整備された世界というのは、ある意味で「ストレスの種が増えた世界」でもある。

そんなこんなを勘案して、「自分の責任で選びなさい」というのは慣れてないと大変だ。「多様性」や「自己決定」を尊重するという価値観が大切なのは確かだけれど、不自由に慣れてしまっている僕は、そんな事態を「しんどいな」と感じてしまったりもする。

選択肢が限られていることは確かに不自由で不快なことではあるけれど、やることが決まってるというのは、楽チンでもある。

中学生の頃、教室に不登校してるクラスメイトが二人いた。

僕が彼らに対して抱いた感想は「スゲェ」だった。「学校に来ないって、アリなんだ」と思った。

現在の多くの家庭は、学校よりも快適な環境が整えられている。自室があり、Yogiboがあり、エアコンがあり、Wi-Fiがあり、スマホやタブレットやパソコンやSwitchやPlayStationがある。

学校に行かなくても、楽しいことは山ほどあるし、情報も手に入るし、友達ともつながれる。

世間的にも「学校に行かないこと」を許容する考え方が一定程度浸透しつつある。学校以外の選択肢も少しずつではあるが整いつつある。

コロナ禍を通じて、オンライン授業を可能にするシステムがあらゆる学校に整えられた。学校に行かなくても勉強できるという可能性が示されてしまった。「こっちの方が効率的だし、快適だな」と感じる生徒さんも一定数生まれたことだろう。もちろん、自分はリアルを好むんだなと再確認した生徒さんもいるだろうけど。

今の子たちには、昔より多くの選択肢が示されている。自分で選ぶことができる。いや、選ぶことを迫られる。しかも、僕みたいな古い感覚や価値観に縛られた(主体的に自分で選ぶという習慣を身につけていない)大人たちからの曖昧なプレッシャーを受けながら、決めなきゃいけない。

「選択肢がないんだから仕方ない」と受け入れるのと、「あるのに選べない」と我慢したり、「どうなっても知らないよ」と圧を受けながらオルタナティブな選択をしたりするのとでは、ストレスの度合いは格段に違うだろう。

僕はただ流れと習慣に任せて、何も考えずに小中学校に通っていた。

今の時代の小中学校に転生したとしたら、何を選ぶだろうか?

毎日学校に通うだろうか?

考えるのが面倒だから、案外通うような気もするな。

そして、そんなイージーで主体性のかけらもない選択をしてしまう自分に、ガッカリしてしまいそうだ。

ここまで思いつくままに書いてみて、僕が毎日、なんの疑問も抱かずに学校に通えてた理由が、分かった気がする。

やる気があったわけでも、怠惰じゃなかったわけでも、甘えてなかったわけでも、ない。

考えること、実験することをサボっていたから

そういうことなのかもしれない

そう考えると、ある意味で僕はむしろ、考えるべきことを考えない、やる気のない、怠惰で、甘えた人間だったんじゃないかとさえ思えてくる

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