ダイエット&ボディビルBL「愛と筋」24
初めは、ただ痩せたいだけだった。
身体が変わって嬉しかった。鍛えるのが楽しくなった。
……それで? その先は?
この生活をただ続けるだけでいいのか。それで自分は満足できるのか。……こんなに強くて気高い彼の側に居続けることができるのか。
(藤さん……)
「……まぁ、こう思えるまでには結構時間がかかったがな」
藤はやや照れ臭そうに髪をかきあげた。
「理想うんぬんの前にやっぱり自立しねぇとカッコ悪いから、ジム通いを再開したあとKフィットネスのトレーナー面接を受けた。
あんな不甲斐ない結果になっちまったから会長にはもう指導を頼めないけど、スタッフとしてでも会長に関わっていたかった。
採用されていざ働いてみると思ってたより大変だったけど、やりがいはあった。他人に教えることでトレーニング理論に対する理解も深まった。……それに何より、おまえに出会えた。才能のある男を育てることがこんなに楽しいなんて知らなかったぜ」
尚太郎はくっと唇を噛んだ。
これまでの話を聞いて、確信した。
高い目標を持つ藤が、プライベートな時間を削ってまで自分に付き合ってくれた理由を。
(藤さんはやっぱり、僕に会長を重ねている)
自分が、彼の憧れのひとに似た素質を持っていたから、あれほど熱心に指導してくれたのだ。
そしていずれは己の手で育てた『憧れのひと』を、憧れの場所――彼が諦めたボディビルのステージに立たせたいと望んでいるのだろう。
そんな彼の望みを、自分は無視できるのか。それでいいのか。彼に感謝しているなら、彼の望みに応えるべきではないのか。
……もし応えるとしても、初めからオリンピアなど無理な話だ。まずは国内の大会に出て、経験を積むべきだろう。そのファーストステップとして、国内の猛者が集まるというKBCは最適かもしれない。怪我から回復した藤のリスタートとなる大会で、自分もスタートできれば……だけど、自信がない。藤が言うほど、自分が優れた人間だなんて思えない。人前に立つなんて怖い。
(……僕は、)
――尚ちゃんなら、なんだってできるよ
父の言葉が脳内に響いた。
(……そうだ、僕は、こんなに変われたじゃないか。何度も無理だって思ったけど、続けてこれたじゃないか。……心も、変わったはずだろう。自信を持てたはずだろう。……怖くても、挑戦する勇気を、培ったはずだろう……!)
尚太郎はこれまでになく強い瞳で、藤を見据えた。
「……僕も、大会に出ます」
「え、何の?」
「KBCのボディビル」
藤が大きく目を見開いた。
「おまえ……」
「僕には、ボディビルの才能があるんですよね?」
「ああ。……だが、大会まであと3ヶ月もねぇ。これから仕上げるのはさすがに……」
「あなたの指導なら不可能はないはずです」
「……コンテストに出るなら、それ相応のメニューをこなさないといけなくなるぞ」
「承知の上です」
どんなにきつくても耐えてみせる! 尚太郎の意志を感じ取った藤は、にっと口端を上げた。
「上等」
尚太郎の肩をパンと叩いて、
「なら早く参加登録しねぇとな。締め切りギリギリだから急げ」
「はい」
尚太郎はその日のうちにKフィットネスのサイトから参加登録を済ませ、参加費用も振り込んだ。
「これまでは痩せること、いい身体をつくることに重きを置いたトレーニングだったが、これからは大会に出るための魅せる身体を作るトレーニングを行う」
ホームジムで空気椅子に座って腕組みする藤に、尚太郎は元気よく頭を下げた。
「はい! よろしくお願いします」
「まずはバルクを増やす。……初めのころ、俺が筋肉の付き方を戦に例えて説明したのを覚えてるか? トレーニングによる刺激を敵として、それに対抗するために身体は筋肉をつける、ってやつだ」
「はい、覚えてます。トレーニングを継続的に行うことで、身体は再来する敵に対抗しようと筋肉を太くしていくんでしたよね」
「そうだ。だが敵がいつも同じくらいの強さだと、身体も慣れちまう。『あーあいつら今の筋肉で十分だから』って筋肉を増やすことをストップしちまう。
だから強い敵を用意して、『うわ、こいつらパワーアップしてやがる! やべぇ、もっと筋肉つけねぇとやられちまう!』って状況に追い込んでやる。
端的に言うと、筋力や筋量は、同じ負荷でトレーニングを続けていても変わらないが、負荷を増やし続ければ増えていく。いわゆる漸進性《ぜんしんせい》過負荷原則ってやつだ。これまでもこの原則に則っておまえの扱う重量を上げてきた」
「はい……でも、130kg止まりですよね」
「おまえがあまりにも短い期間で高重量に達したからセーブかけてたんだよ。経験が浅いのに調子乗って高重量を扱えば、怪我のリスクが格段に高くなるからな。……勝手にMAX挑戦してやがったけど」
「すみませんでした」
殊勝に謝ると、藤はふんと鼻を鳴らして話をもとに戻した。
「そんなわけで、バルクをつけるためには高重量が必要だ。とはいえやっぱり怪我は怖いから、セット重量はおまえのMAXから20kg減らした重量にする。そのくらいの重さなら腱や関節、骨格構造に負担をかけすぎずに、筋肉に十分な刺激を入れられる」
「はい」
「だからって高重量だけを扱うわけじゃないぞ。バルクアップのためには様々な刺激を筋肉に与える必要がある。これまでどおり軽・中重量で効かせるメニューもしっかりやるからな」
「はい」
「じゃあまずはベンチプレスだ。レップ数は決めない。限界までやれ」
藤に促され、尚太郎はベンチに寝転んだ。プレートは160kgにセットされている。MAXの180kgから20kg減らした重さだから、そこそこ回数はこなせるはず……と思いきや、
「背が少し反りすぎてる」「あごが若干上がってるぞ。頭部角度はニュートラルに保て」「動作は素早く丁寧に」「肘を微妙に伸ばしすぎ。胸への負荷が抜けたらどうする、もったいない」
正確なフォームのはずなのに、わずかなズレすら許さず細かく指摘が入る。これまで以上に正確なフォームを求められながら行うトレーニングは、設定重量以上の負荷を大胸筋に与えてくる。
ぎりぎり8回が限界だった。ガチャン、とバーベルをラックにかけて、荒い息を吐く。
藤がパンと手を叩いた。
「はい、さっさと起きろ!」
「え、でも、2セット目が……)
「1セットだけでいい」
「え、なんでですか……?」
「これも前に話したが、長いトレーニングをすると身体は生き残ることを重視して、筋肉をエネルギーに変えようとする。筋肥大のためにはトレーニングの時間は短いほうがいいから、短時間で様々な刺激を筋肉に与える。ってことで早く起きろ」
急きたてられて、尚太郎は息を整えながらベンチから起き上がった。その両手に、藤はラックの左右に付いているケーブルのグリップを握らせる。
「ハイケーブルクロスオーバーで大胸筋下部を整える。さぁ引け」
尚太郎はうなずいて前傾姿勢になり、左右斜め上の位置から、胸前でグリップを握った両手を合わせるようにケーブルを引いた。
「戻すときはゆっくり、そう、もっと胸を張れ」
負荷は軽めに設定してあるものの、藤の指示に従いながら行うとかなり効く。
「ぐぅ……ッ、」
「よし、そうだ。だいぶパンプしてきたぞ。そうして皮膚の表面が張れば、身体はそれに相応するように筋肉を太くする。張れば張るほど、筋肥大の限界値が上がっていくんだ。よし次、クロスオーバーフライ」
軌道は同じだが、両手を合わせるところで止めずにクロスさせる。これにより大胸筋がぎゅっと絞られる。特に内側が強く収縮する。
「動作は大きく!」「伸展と収縮を意識しろ!」「しつこく追い込め!」「ゲットマッスル!」
疲労が蓄積した状態でさらに追い込むような指示が飛んでくる。きついなんてもんじゃないが、弱音を吐いてはいられない。やると決めたのは自分だ。
「う、ぐ、あああああ……!」
全身が紅潮する。心臓から送られた血液が毛細血管のすみずみまで充溢し、肩や腕にまで青々とした血管の筋が立つ。大胸筋に至っては汗腺を潰すほどパンパンに膨張していく。ものすごいパンプアップで皮膚が張り裂けそうだ。
「次はプッシュアップ(腕立て伏せ)だ。両手の幅を広くとって床に着き、両足はベンチ台に乗せろ。そうだ。大胸筋の上部に負荷がかかるように意識して。はい、いーち、にー、」
足を高く上げているので重心が上半身に傾き、自分の体重がダイレクトに大胸筋上部にかかる。
「ぐぅぅッ……!」
「うちのジムに通ってくるトレーニーたちは自重トレーニングを軽視しがちだが、効かせる意識で行えば自重でも十分に効果を得られるんだ。それに自重だと怪我のリスクも少ないから安全に追い込める。……あ、カウント忘れてた。えっと、どこまで数えたっけ。……まぁいいや、いーち、にー、」
「……」
最早うめき声すら出てこない。完全に無になったところで、「よし、OK。今日は終了」が出た。
大会に向けてトレーニングの時間が増えると思いきや、以前より短く、30分程度で終わった。
しかし辛さは以前の倍だ。尚太郎は腕立て伏せの格好から、べしゃっと床に潰れた。
「お疲れさん」
尚太郎の頭の横にプロテインの入ったボトルを置いた藤は、自分のメニューを開始した。
その姿を、尚太郎は寝ころんだまま眺める。
藤はベンチに右手と右膝を着いて、左足は床に着け、上体をベンチと平行に倒した。
その体勢で、左手に持ったダンベルを床すれすれまで下ろし、すぐに引き上げる。
背中、とりわけ広背筋を鍛える種目『ダンベルローイング』だ。
そのマシンのような正確な軌道から、努力の積み重ねが透けて見える。
(すごいな……)
トレーニングをやればやるほど、藤の凄さがわかる。彼がどれほど心血注いでトレーニングに打ち込み、己の肉体を突き詰めてきたのかがわかる。
天井のライトが、滴る汗をきらめかせ、隆起する筋肉に濃い陰影をつけている。
(……綺麗だな)
じっと見ていると、セットを終えた藤がこちらを振り向いた。額に落ちた髪をかきあげて、ふっと微笑む。
「いつまでもそんなとこでダラけてないで、さっさと着替えて帰りな。早く寝て身体を休ませなくちゃなんねぇだろ」
「……は、はい、」
尚太郎は胸を押さえて立ち上がり、プロテインを一気飲みすると、着替えて藤の家を出た。
蒸し暑い夜道をよろよろと駅まで歩いていく。
なんだか頭がぼおっとする。頬が火照る。胸がびりびり震えている。尚太郎はそれを、疲れのせいだと思った。
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