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序文 - 連載『今夜もウェブで会おう』

なぜ文通は始まったのか side

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最初から自分人は自分自身から最も大きな影響(と甚大な被害)を受けます。人生がスタートしてから終わるまで、われわれは自分という人間がうまく収まる場所を手探りで見つけていくしかないのです。まるで昆虫が住処を探すように、それに気がついたのは、ごく最近のことでした。

さて。

「そういう年齢だった」ということを除いても、私たちは変わった高校生でした。私たちが通っていた高校には、同じ学区の優秀な子女が集まっていましたが、自分はすこし端のほうにひいて、ちょっと現実逃避ぎみに過ごしていたような記憶があります。

私たちが出会ったのは、1年生の時だったと思います。将軍川くんは、窓ぎわの席でいつも絵を描いていました。ある日、ちょっと覗き込んだら、とても上手くてびっくりしました。普通の絵が上手な子が「竹」だとすると、彼女は「松プレミアム」くらい上手でした。

ある時、将軍川くんに「雪を見る少女を描いてほしい」と頼んだことがあります。彼女は軽くペンを動かして、空を仰ぎ見ている少女の絵を描いてくれました。その少女は勇気を奮い立たせながら、不安そうに空を見ていました。そのたたずまいはどこかはかなく、心細そうでした。彼女には、15歳にして、すでに完成した画風がありました。ぼんやりと、プロになるんだろうなと思った記憶があります。

そのうち、将軍川くんは学校と社会のシステムに反発して、学校に来なくなりました。わたしはその点について何か言ったことはなかったと思います。学校のプリントは、学級委員がまとめて手渡していたようでした。

でも、わたしたちはよくお互いに向けてメールを書きました。夕食後に書き始めて、深夜になったこともあるし、朝と晩で2往復したこともあります。なぜ学校があるのか、芸術とはどう理解すればいいのかなど、手当たり次第のテーマで際限なく書きまくりました。集めたら文庫本数冊くらいにはなったはずです。文章は溢れ出るように湧いてきて、いくらでも書くことができました。

今だから言えることですが、あれは相手に向けて書いているようで、自分自身のために書いていた文章だったのだと思います。16歳のころのわたしたちは、何よりもまず自分自身が興味の対象でした。自分自身の思いつきは世界一素晴らしいと天にも昇る気持ちになり、思いつくままに文章を書きなぐっては、相手のいそうな場所に、闇雲に投げつけあっていました。言葉は、当たりもかすりもせずに、そこらじゅうに積み上がっていきました。
あの頃、はてしなくラリーが続けられたのは、お互いに向けて、文章を書いていなかったから、でした。
大人になると、人との関係性を、いろいろな角度から観察できるようになるのです。

画像2

当時の将軍川が描いた「雪を見る少女」の絵

(文: 



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なぜ文通は始まったのか side 将軍川

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私たちが出会ったは高校2年の夏休み、誰もいない教室でした。
体育祭用のTシャツのイラストを仕上げていた私の手元を、梶さんが覗き込んできたのがきっかけです。
クラスは違えど、私は彼女の姿をなんども見たことがありました。
彼女は、朗読の全国大会で優勝したり、文章で賞をもらったりしていて、表彰台にしょっちゅう上がっていたような生徒でした。それに対して私は、勉強を諦め、友達もいない不登校気味のじめじめした生徒でした。
そんな正反対の二人はその日、メールアドレスを交換しました。

その当時の私は「あんないい子ちゃんが一体何の用だ。どうせ劣等生のウチをからかうつもりだろう」と正直、少しうっとおしく感じていました。
しかし、メールのやり取りを始めると、梶さんはどうやら私と似たようなところがあることがわかりました。2、3行程度だったメールの文章は、回を追うごとに長くなっていき、多い時には2000字を超える長文になったこともありました。

振り返ってみると、梶さんと私をつなげたのは「高すぎる感受性」ではないかと思っています。
例えば、ある物事が平均的な人に与える衝撃を1とするならば、私たちは同じものから10を受け取ってしまうような人種なのです。
その「高すぎる感受性」が、お互いの心の部屋をつなぐ小窓になっていました。

梶さんは、世界を他の人とは違うように見ていました。そして、その景色を文章にして私に見せてくれました。
また、私のことを変わった人と思っているようでしたので、こちらも心の景色をたくさん見せることにしました。

高校を卒業してからも文通は続きましたが、私たちの物理的な距離はどんどん離れていきました。
有名大学に推薦で入学した梶さんは、卒業後一流企業には就職せず、自分の道を探し始めました。一方私は、精神科に通うNEETから「ぱっと見、健康な人」まで這い上がり、絵の仕事の依頼を受け始めました。
20代初期を別々過ごした私たちにはもちろん共通の友人もいませんし、進んだ業界も全く異なるものでした。

そんな私たちが文通を続けられたのも、また「高すぎる感受性」のおかげでした。
感受性はやっかいです。いい塩梅でであれば「感性豊か」となりますが、それが過ぎれば「社会不適合者」となります。なので、メールのやりとりに「どうやって人間とかかわるか」「いかに社会での居場所を作るか」などのテーマが加わりました。

人生を切り開く剣があるとするならば、感受性はその剣を大きく、重たく変えてしまうように思います。そうなればなるほど扱いにくくなり、普段使いが難しいような代物になります。おまけに手がちょっとすべると、そいつはだいたい自分側に倒れてくるのです。
それが、私たちが小さな出来事で大きなストレスを感じたり、「まともな社会人」になるまで、他の人よりも時間がかかった理由でしょう。
その一方で、この剣さえ使いこなせれば、人に影響を与えたり、人生の景色が豊かになることも、私たちは知っています。

9000km以上離れた今もつづく私たちのメール文通はいわば、その扱いにくい剣のさばき方を教え合う稽古場であり、高校時代から心の部屋にある、不思議な世界を傍観するための小窓なのです。

(文: 将軍川



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わたしたちは別々に眠りについた

20代は退却の時代でした。
夢が完全に叶うことはない、と思います。10代だった私たちは勘違いしたまま希望を持って世の中に飛び出し、失敗し、諦め、それでも夢は現実になるという考えを捨てきれませんでした。20代の終わり頃には、想像の1000分の1ぐらいのものが残りました。簡単にいうと、それは「金になるスキル」というものでした。

20代の頃に追いかけていたのは空想みたいなものでした。でも、不毛だったとは思いません。夢を失ったことで、われわれはかなり身軽になりました。

そして、20代の終わり頃には、それぞれの専門分野ができつつあり、2人ともなんとか一人でやっていくようになりました。その間も文通は、頻繁になったり途切れたりしながら続いていました。

さて、ごく最近の話に戻ります。
2019年の9月、わたしの誕生日のことでした。わたしは文章を書く手を止めて、ひと息ついたところでした。窓を開け放つと、秋風がさわさわとカーテンを揺らしました。温かいレモンティーをすすっていると、胸の奥からじわっと幸せの塊みたいなものがこみ上げてきました。

その時、ベルリンにいる将軍川君からスカイプのアラートが届きました。すぐにアプリを開くと、将軍川君はオンラインでした。

「最近調子どう?」とわたしは呼びかけました。
「あれ」と将軍川くんの声がしました。「おぉ、久しぶり。今スタジオにいる。昼ごはんを買ってきたよ」。
「相変わらずだね」

久しぶりにチャットをしているうちに、わたしたちの会話は「マイペースに、自分で働きかたを決められるから、フリーランスになった」
という話になってきました。

フリーランスの働き方は、これといって決まっていません。会社を辞めれば、時間や場所や付き合う相手は自分で決めることができます。
ただし、仕事自体はいろいろな人との協力関係の中で成り立つものだし、キーパーソンとの出会いが仕事の方向性を決めることもあるでしょう。
そういう意味では、より広く多くの人と手をつなぐこともまた大切です。


高校3年生の夏の夕方、わたしはよく、授業が終わると屋上の渡り廊下のベンチに座って、暮れなずむ空を見ていました。

「星の名前を覚えれば星座がわかるし、釘の打ち方を覚えれば、板きれで小屋が作れるかもしれない。なのになぜ、学校ではみんなが同じことを習うのだろう」。

たぶん、

これは、フリーランスとなって道なきところを進んでいる、われわれ2人の記録です。

公開した文通を通じて、誰かの役に立てることを祈り、また色々な人とつながっていけることを祈って、序文を終わります。

次のノートから、文通が始まります。

キャラクターイラスト:2

(文: /挿画: 将軍川

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