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【猫小説】『メニー・クラシック・モーメンツ』第5章:もぬけの殻


 気が付くと、宙に身体が浮いているのが分かった。

 重力を無視して、覚束なく漂っている姿を、俯瞰ふかんで正確にイメージすることができた。
 頭はぼんやりとしていて、深い霧が立ち込める山の上を歩いているような気分だった。かつて一度だけ見たことのある夢の続きを見ているかのようでもあった。けれども、不思議とリアルな感覚は伴っていた。だから、この場所が夢の世界ではないことは、すぐに分かった。

 とにかく身体がすごく軽い。
 
 それは誰もいない湖で溺れた ” 土座衛門どざえもん ” にしか知り得ない感覚だった。激しい抵抗の末に絶命し、一度底に沈んだ後、腹に溜まったガスの浮力でひょっこりと水面に現れる、そんな、とてつもなく奇妙な浮遊感。

 ところで、ここは一体、どこだろう。

 真っ白で無機質な天井が目の前に見えた。照明は落とされ、物寂しげな空間が広がっている。

 おそらくこの場所は「霊安室」なのだろう。

 やっぱり、あの日、あえなく僕は死んでしまったということなんだな。我が人生、ここまでだったか。思っていたよりも長く生きられず、とても残念だ。
 こんなところで浅瀬の海草の如く、ゆらゆらと揺蕩たゆたっているということは、どうやらうまく昇天できずに、この世に取り残されてしまった、ということなのだろう。
 生きていた頃からあまり運が良い方ではなかったけれども、死してなお、思い通りにいかないだなんて、我が身の不運には、ほとほと呆れてしまった。

 いや、そもそも「天国」とか「地獄」は、一切存在しない、ということも十分に考えられる。
 キリストも仏陀も、ナポレオンもファラオも、ウォルト・ディズニーもスティーブ・ジョブズも、しゃぼん玉みたいにふわふわとした ” 霊魂 ” の状態で、今もこの地球で暮らしているとするならば、生身の人間たましいのいれものたちは、一体、どんな顔をするだろう。

 そんなことを考えると、ちょっと笑えてきた。
 ひょっとすると「僕はまだ生きているんじゃないか」という錯覚さえ、起こしてしまうほどだった。

 人って死んだら、案外、こんなものなのだろうか。不思議と怖くはなかったし、絶望もしなかった。三大欲求でさえ、羽を生やして遥か彼方へ飛んでいってしまったようだし、疲れもせず、悲しくもなかった。

 「ところで、有季は…、どこ?」

 僕は「有季」を探すことにした。そのためには、まず、この薬品臭い部屋の中から脱出しなければならない。

 身体をごろんとひっくり返し、真下を見てみると、白いシートがかけられた僕の亡骸なきがらがあった。
 無論、身体はまったく動かない。
 すっかり役目を終えてしまった、旧式のロボットのようだった。つい数日前まで、この ” ロボット ” に乗って、映画を観たり、パスタを食べたり、花に水をあげたりしていたことが、遥か遠い国のおとぎばなしのように思えた。

 ドアをすうっと通り抜けて、青白く、冷たい廊下へと出る。
 視線の先にある階段をのぼって外来フロアに辿りつくと、ロビーや待合スペースにはどこかしら身体の不調を訴える患者や、彼らのお世話をする医療従事者たちで賑わっていた。
 すでに病院の開始時刻は過ぎているらしい。

「どこかで見たことがあると思ったら、聖マルコ病院ではないか」

 僕は昔、肺を患ったことがある。半日、手術が遅れていたら死んでいたかもしれないという、それなりに重篤な病気だった。
 呼吸器の機能がおかしくなると、大きな病院で検査をしなければならなかった。聖マルコ総合病院は、自宅から最寄りの医療施設だったこともあって、これまでに何度も何度もお世話になっていた。
 手入れの行き届いた中庭に、凛とした回廊。麗しくも堅実性が感じられるそのビジュアルから、瞬時にここがその病院だと判別できた。
 そして、自分の最期を迎えるのはこの場所であるということを、なんだか遠い昔から知っていたような気がする。

 あぁ、もうこれからは、肺で苦しむこともなくなったのだなぁ…。

*****

 病院を抜け出し、僕は真っ先に、有季と同棲していたマンションへと向かった。
 
 ドアの隙間からにゅるっと、自宅へ侵入はいる。部屋の中はがらんとしていて、いつもより広く感じた。
 有季の気配はそこにひとつもなかった。もぬけの殻だった。

「一体、有季はどこにいってしまったのだろう。昨晩、あなたの ” パートナー ” が死んでしまったというのにさ…」

 「丸善」や「紀伊國屋」、喫茶「クロノス」など、思いつく限り、彼が出没しそうな場所を片っ端から探してみたのだけれども、あのほっそりとした猫背のシルエットはどこにも落ちていなかった。

 今日は何曜日…、木曜か。時子さんのお店は定休日だしな。あと、行くとしたら…。

「まさか…」

 ふっと、停止した心臓の中に、不穏をかたどった大波が押し寄せた。まさか有季は、僕の ” 実家 ” へ向かっているのでは…。

 ― 絶対に、” あの場所 ” にだけは、行ってはならない。

 そう願いながら、僕は音速で新宿へ急行し、京王線の電車に飛び乗った。

*****

 分倍河原駅で降り、15分ほど歩いたところに、僕の実家がある。
 
 すーっとドアをすり抜けて家の中へ入ると、携帯電話で話している父親と出くわした。無論、彼が僕の存在に気付くことはない。葬儀社か親戚にでも電話をかけているのだろうか。
 そんな父の脇腹を通り過ぎてリビングへ向かうと、八つ歳の離れた妹と近所に住んでいる叔母が、沈んだ顔を浮かべながらソファに座っていた。

「あぁ、良かった…」

 どうやら有季は、僕の実家には訪れていないようだった。
 テーブルの上を見ても、湯呑とか急須とか、客人をもてなしたような形跡はなかったし、父親以外の男の靴も玄関には見当たらなかった。

 …、そういえば、えっと…、は、どこに…?


 実家は、昔から居心地が良くなかった。

 死んでしまった今でも、そんな風に思ってしまう。空気がよどんでいて、うまく酸素を取り込めない感じがする。
 汽水域きすいいきの魚は、淡水の水槽で飼い続けると長くは生きられないと言われているけれども、おそらく、それに近い感覚なのかもしれない。

 結局、” この場所 ” でも有季を見つけることができなかった僕は、再び、京王線と山手線、ふたつの電車を乗り継いで、品川のマンションへと戻ることにした。

*****

 その日の夜、23時過ぎ。有季はマンションに帰宅した。

 散々、待たせられたこともあって「一体、どこをほっつき歩いていたのだろう。どこかで一杯やってきたのだろうか」と、ついそんな腹立たしい感情ばかりが先行してしまったけれども、彼のやつれきった亡霊のような(お前が言うなよ…)姿を見てしまったら、もう、何も言えなくなってしまった。

 彼は玄関のドアをひとりで閉め、そっと鍵をかけた。

 ふらつく足でトイレに向かい、小用を足し、洗面所では念入りに時間かけて手を洗っていた。バスルームや寝室へは向かわず、書斎に閉じこもった。
 それからは一言も話さなかったし、照明や暖房をつけることもなかった。コートを着たままデスクでうつ伏せになって、静かにまぶたを閉じた。

 しばらくすると、有季はすうすうと寝息を立て始めた。遊び疲れた、子供みたいに。

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