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【猫小説】『メニー・クラシック・モーメンツ』第7章:スターリーナイト ①


 あの事故から、9ヶ月が経過した。

 相変わらず「幽霊」をやっている僕は、片時も有季のそばを離れられないでいた。
 浮遊する身体を自在に操るテクニックも、隙間からすうっと通り抜ける技も、かなり上達した。今となっては、こんな生活もなかなか楽しい。
 不規則な彼の生活にもすっかり慣れてしまった。物書きをしている時も、夕飯を食べている時も、シャワーを浴びている時も、映画を観ている時も、悲しんでいる時も、苦しんでいる時も、僕はいつも有季のそばにいた。

「俺と付き合って欲しいんだ。もう一度」

 サトシの告白は、少なからず、有季の日常に変化をもたらしたようだった。
 あの一件以降、仕事のパフォーマンスは明らかに落ちている。集中力というものがすっかり欠如してしまっているのだ。
 彼の海馬では、あの ” パワーワード ” が鳴門海峡の渦潮うずしおの如く、ぐるぐると対流し続けているに違いない。

*****

 告白から、すでに3ヶ月が経とうとしている。けれども、有季はその「返事」を、サトシに伝えてはいなかった。

「一体、何をやっているのだ、有季は…」

 あれはサトシなりの精一杯の ” プロポーズ ” なのだから、きちんと誠意をもって答えを出してあげるべきだと、僕は思った。
 彼は一度失ってしまったものを、もう二度と失ったり、傷つけたりしたくないのだ。

 こんな風にニッチもサッチも行かなくなった時、有季を乗せた船が流れ着く場所は「たいむ」だと、相場が決まっていた。
 時子の理知的な性格やユーモア、そして、人としての豊かな情緒が、彼の ” 魂 ” を救済していたことは、紛れもない事実だった。

 たいむココへ訪れたのは、オイスターバーで牡蠣をたらふく食べた、あの夜以来のことだった。
 今宵も彼女のお店には、黄金色の常夜灯がゆらゆらと揺れている。蛍の光みたいに。

「いらっしゃい。あら、ユウちゃん…」

 有季の顔を見た瞬間、時子ママは涙ぐんだ。そして「大変だったわね」と言った。緑柱石りょくちゅうせきのような透き通った涙が、すーっと、頬を流れ、ぽたり、ぽたりとふた粒、孤独に床を湿らせた。
 その崇高な感受性。それこそが、彼女のすべてなのだ。

「…、知ってたんだ」
「うん。最近ね。こっちの世界のコミュニティは良くも悪くも狭くてホントに困っちゃうわね」
 と、時子は言った。有季が力なく笑うと「でも、知らないよりは良かった」と、彼女は言った。
「良かった?それは、どうして?」
「…、あなたと、分かり合いたかったから…」
 時子は言った。肌をそっと撫でる、初夏の風のような柔らかさで。

 その清らかな涙を流してくれただけで、有季は、もう十分過ぎるほど大きなものを彼女からもらったような気がしていた。
 彼は「ありがとう」と、時子に告げ、ほんの少し、久しぶりに心から、笑った。

 幸いなことに、お客は有季のほかには誰もおらず(時子ママにとっては災難だけれども…)、心ゆくまで ” ママ ” を独占することができた。

 淡いオレンジ色の照明の下、紫色の髪をした ” 聖母 ” が、そこにいた。
 彼女が注いだスコッチ・ウイスキーにほんのりと酔っぱらった有季は、椅子にだらっともたれかかり、天井を見つめながら座っていた。 
 その構図は、サン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」のようだと、僕は思った。

「あ、そうそう。お通し用に作った ” じぶ煮 ”、失敗しちゃったの。食べてくれる?」
「失敗作を食わせるなんて、ひでえママだな」
「ふふっ。お通し代は取らないから、お願いだから食べてちょうだいよ」

 時子はそう言って、茶色く艶めいたお肉やいびつな形をした季節の野菜、きのこをふんだんに使った郷土料理を陶器のお椀に豪快に盛り付け、有季の目の前にコトンと置いた。
 一口食べると、甘く煮込まれた醤油の香りが鼻に届いた。とろっとした鴨肉、そして、じゅわっと味が染み込んだすだれが優しく胃の中へ流れ込んでいった。「これのどこが失敗作なの?」とたずねると「プロ級の腕だとこれでも失敗なのよ」と、笑いながら時子は答えた。

 ばっちりとキメていたはずの彼女のアイシャドウは、すでに崩壊していて、岩海苔いわのりのようになっていた。

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