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【猫小説】『メニー・クラシック・モーメンツ』第1章:忌まわしきもの(全話)


「一緒に暮らそうか?」

 有楽町のオイスターバーで、牡蠣をたらふく食べたその帰り道、有季はそんなことをさらりと言った。

「暮らすって、同棲ってこと?」
「そう」

 突然の「同棲しようか?」発言に、心の海は波立った。それはもうテトラポッドを乗り越えて、埠頭が海水で水浸しになるほどに。

 ゲイにとってパートナーと同棲することは「結婚」とほぼ同義だと言われている。つまり「同棲の誘い」=「プロポーズ」されたようなものなのだ。そんな人生を左右する重大な発言ですら、蘊蓄うんちくを話すのと変わらない温度で言ってのける才能が、彼にはあった。

「シュンが乗り気じゃなかったら、無理しなくてもいいんだよ」
「別にしたくない、っていうわけじゃ、ないんだけど…」

 正直、戸惑っていた。

 なぜならば、以前、付き合っていた男性と同棲(半同棲!?)がきっかけで別れてしまったという、苦々しい過去があったからだ。

*****

 大学に入って三度目の春。

 キャンパスが神奈川から都心に変わるタイミングで一人暮らしを始めた。三軒茶屋のアパートのワンルーム。大学にもバイト先にも近く、かねがね親元を離れたいと思っていた僕にとって、この部屋は ” 理想郷アルカディア ” だった。
 その頃、溜池山王で働いている10歳年上の会社員と付き合っていた。相手が社会人ということもあって、会いたい時、すぐに会えるというわけにもいかず、それなりに淋しい恋愛をしていた。
 けれども、実家を離れたことで「彼」と会える頻度や自由度は格段に上がった。「一人暮らしをするというだけで、こんなにもたくさんの収穫を得られるものなのか」と、当時の僕は、我が身のポジションをそんな風に呑気に捉えていた。

 彼の名前は「A」と言う。名を伏せる必要はまったくないのだけれども、便宜上、そう呼ばせてもらうことにする。

 A氏は八王子の実家から、毎日1時間以上かけて都心へ通勤していた。そして、残業があったりなんかすると、退勤はたいてい終電近くになっていた。
 彼と会うたび、彼の瞳から輝きが失われていったように感じたのは、そんな生活ばかりを送っていたからに違いない。顔の色も砂漠のように乾いていたし、唇もくすんでいた。
 僕が「ここから会社に通ったら?」と、つい口にしてしまったのは、そんな ” 健やかさ ” の対岸に座っているA氏の姿を、もうこれ以上、見たくなかったからだった。
 その言葉の響きにまんざらでもなさそうな表情を浮かべたA氏は、翌々日から三軒茶屋の僕のアパートに転がり込むようになった。
 カルバン・クラインのボクサーパンツにブルガリの香水、ヴェルサーチェのブレスレッドにフェンディのネックレス。いつしか僕の理想郷は、彼の衣服や日用品であふれかえっていった。
 時々、八王子には帰っていたようなので完全な二人暮らしとは言えなかったけれども、それでもやはりA氏とは同棲に限りなく近い、おままごとのような何かをしていたのは、確かだった。

 家事は二人で分担することになっていた。僕が夕食を作る代わりに、A氏は皿洗いを、掃除や洗濯をする代わりに、A氏はゴミ出しを、といった感じに。

 けれども、その決め事は、早々に破られることとなった。

 A氏は、まったく ” 家事のできない人間 ” だったことが、一緒に暮らして初めて分かったのだ。
 朝、目覚めると、ソファの上には、スーツやワイシャツ、靴下が脱ぎっぱなし。台所のシンクには油でギトギトになった皿の山が放置プレイ…。
 そんなことは日常茶飯事だった。

 彼の ” 正義 ” をまざまざと見せつけられると「時間の有り余っている学生なんだから、家事くらいやって当然だろう」と、言われているような気になった。
 A氏との間には、明らかに力の不均衡が存在していた。
 彼との ” 関係 ” を続けていくことを望んだ僕は、そんな不平等条約をすっかり飲み込んでしまっていた。

 いつのことだっただろうか。

「明日、急遽、名古屋へ出張することになったから、オロビアンコのスラックスにアイロンかけといてくれる?」

 と、深夜遅くに、叩き起こされたことがあった。

 いつもなら「うん、分かった」と、分別のある ” いい子 ” を演じることができたのだけれども、今回ばかりは彼の勝手気ままな振る舞いをどうしても許すことができなかった。

「ああ、もう無理。この先には進めない…」という声が、天から、聞こえた。

 僕は初めてA氏に反抗した。「眠いから、いやだ」と。「そのくらい自分でやってよ」と。

 ふざけんなと罵られ、拳で思い切り殴られた。今、僕の右目の横にある傷は、その時の一発によってできたものだ。

 赤く腫らした右目でスラックスにアイロンをかけている自分の姿はとても惨めだった。翌朝、彼よりも30分早く起きて、笑顔を作ってA氏を送り出している僕は「なんて愚か者なのだろう」と、思った。

 そんな自分にさよならをしたかった。神様も「今がその時なのだ」と、言ってくれているような気がした。

 だから僕は、彼と別れることを決めた。

 A氏が出張から戻った数日後、自分の正直な気持ちをできるだけ簡潔な言葉で打ち明けた。

 最後にひと悶着あって、部屋はすっかり荒らされてしまったけれども、彼が立ち去った後、僕の心の海は本来の落ち着きを取り戻したかのように、静かに満ち引きをし始めた。

「これで良かったんだと、思う ―」

 片付けるのはもう明日にして、今日はとにかく早く寝てしまおう。

*****

 翌日、部屋を片付けながら、引っ越しの準備も始めた。実家のある府中へ、一旦、出戻ることに決めたのだ。このまま三茶に住んでいると、思わぬトラブルに巻き込まれてしまうかもしれない、という恐ろしい考えが、前頭葉によぎったからだった。

 大学まで電車で5分という理想郷は、嘘のように、夢のように消えていった。

 季節はずれの、冬の花火みたいに。

*****

「あれからもう5年以上も経つというのに、いまだに、誰かと一緒に暮らすっていうこと自体にトラウマがあるんだ。ちょっと大袈裟な言い方かもしれないけれど…」

 僕はすっかり有季に、自分の ” 過去 ” を、話してしまっていた。

「俺となら、きっと大丈夫だよ。洗濯だってするし、ゴミ出しだってする」
 そんな有季の言葉の直球に、僕は笑った。
「じゃあ、ご飯はどうするの?」
 と、たずねると、
「ご飯か…。そっち方面は申し訳ないけど、よろしく頼むよ。自炊は昔からどうも苦手で…。皿洗いはちゃんとするからさ」
 と、軽く目配せしながら、そう言った。
「ご飯を作るのは好きだし、別に苦じゃないから、僕が担当するよ。皿洗いもする。皿洗いがきちんとできる人は、料理も上達するっていう ” 迷信 ” も信じてるし」
「ありがとう。シュンの手料理、凄く嬉しい。でも、割と皿洗いは好きなほうなんだよ。ということは、俺も料理上手になれるかもしれないってことかな?」
「じゃあ、今度、何か簡単なモノでも、一緒に作ってみよっか?」
「うん。俺は ” ハンバーグ ” とか、作ってみたい!」

 何となくだけど、この人となら一緒に暮らせるかなと思った。付き合って3年。ふたりの間には、他人に言えることも、言えないこともたくさんあったけれど、なんだかんだ、ふたりでこれまでやってこられたわけだし。

「ハンバーグか…。そう言えば、こないだ読んだ『きのう何食べた?』のシロさんも玉ねぎを炒めないやつならカンタンにできる!って言っていたし、いつか、それ、作ってみようか?」
「やったぁ!」

 あの忌まわしい過去のせいで、有季の ” プロポーズ ” に一瞬でも曇った顔を見せてしまった自分をとても後悔した。昔の自分を超えることもできず、自動的に臆病な過去へと引きずり込まれてしまう、そんな僕をとても弱い人間だと思った。

 最初から素直に「嬉しい」って言えば、良かった、…な。

「今度、一緒に『イケア』に行ってもいい?」
「うん、いいよ。シュンはインテリアに相当なこだわりがありそうだもんな。ところで、何を見に行きたいの?」
「リビングには、どうしても大きなソファが欲しいんだ」
「ソファがある生活か。それはいい。是非、そうしよう。実は、カーテンも新調したいと考えていたところだったから、俺もインテリア系の量販店に行きたいと思ってたんだ」
「それなら良かった。有季は何色のカーテンにしたいの?」
「うーん、そうだな。新緑っぽい感じの色かな。ほら、去年の7月に行った銀閣寺。あの境内で見たような、一面、苔で覆われた、見事な黄緑…、みたいな」
「僕もそんな色のカーテンがいいな、と思っていたよ」

 なんだかとても理想的な住まいになる予感がした。ふたりが一緒の生活を送ることで、もう少し先の未来へと進めるような気がした。

「そうだ、久しぶりに、今から ” 時子ママ ” のお店にでも行ってみる?」
「いいね!僕も時子さんに会いたいと思ってた。あの話の続きを聞きたかったし…」
「あの話って?」
「有季が昔 ” 遊び人 ” だった頃の話…」
「あぁ、俺が遊び人だった頃の、…って、そんなことは聞かなくてもいいの!」

 ふたつの背中が、小さく小さく揺れていた。切なく輝く、都会のネオンの甘い抽象の中で。

 空を見上げると、真っ白な月がぽっかりと浮かんでいた。ほろ酔い気分の、とてもいい月夜だった。

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