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偶然か、必然か?奇跡の出会いと 3Dスポーツサングラスへの道のり

吉野家で新メニューの麦とろを食べたら思い出しました。
1990年3月24日、フランス人のラテール氏と金型屋さんのミレー氏が来日、
奈良観光の案内をした時、依水園で、昼食にうなとろを食べたのを思い出しました。
私も、めったに食べないメニューです。

奈良観光の後に大阪の金型屋さんを訪問、
これをきっかけに、3Dへの金型設計と製作が始まりました。

眼鏡金型では、当時、日本の最先端となり、
世界的に有名なサングラス受注、生産につながりました。
これが、3Dのスポーツサングラスの始まりのきっかけとなった
出会いでした。

人生においても、商品開発においても、
あの時、こうだったら、こうはなっていない。
と思うことが、何度かあると思います。
多分、奥さんになられる人との出会いもそうでしょうね。
商品企画人生のおいても何度も、そんな場面がありました。

これはそのうちの一つです。

私が会社に入った当時、1975年ごろ、日本の成形品のサングラスは、
アメリカへ輸出するサングラスがメインでした。

その頃の日本の大手のサングラス工場の受注の仕組みは
アメリカのバイヤーがヨーロッパのサングラス工場で作られた最新の製品を日本に持ち込み、ヨーロッパ製品にアレンジを加えて金型を作り、
バイヤーの希望に沿うものを生産、輸出をしていました。
ヨーロッパでサングラスを生産していたのは、
主に、フランスとイタリアでした。

日本のサングラス業界はデザインはフランス、イタリアのモデルを参考にして、あるいはコピーをして、ヨーロッパ製品より安価に生産し、
輸出をしていたのが、実情でした。

私が眼鏡関連会社に入社した当時はそんな状況でした。
世界のメガネ、サングラスの情報収集の為の出張は、
ヨーロッパの眼鏡展示会、フランスのSILMO展
(当時はオヨナックスで開催されていたのが、後にパリに変わりました)
イタリアにミラノでのMIDO展
ドイツのOPTICA展
(ドイツはどちらかというと、メタルフレームがメインでした)
その頃のヨーロッパの眼鏡関連展示会は5月の連休のあたりに日程が
組まれていたので、私は、この頃は出張で連休はありませんでした。

私の仕事の一つは、バイヤーの仕事と、日本仕様で描かれた図面で
フランスのメーカーへのOEM発注の業務もしていました。
フランスのメガネ産地はジュネーブの北側でスランスに入って車で1時間半ぐらいのところにあるジュラ地方モレーでの仕事が中心でした。

ジュラ地域はあの恐竜が跋扈してジュラ紀の名前の元となった場所です。

余談ですが、
世界中、小さくて高付加価値の製品、宝石、時計、パイプ、メガネ等は、山深い所が産地です。
冬の間の仕事として、秋に材料を持ち込んで、雪の間に加工して、春に出荷するイメージです。
道路も運搬手段も充分ではなかった時代は、世界中、この様に自然発生的に同じような仕組になっています。
必然ですね、面白いですね。
日本のメガネ産業は100年程前に大阪から福井に伝えられ、
今では日本の99%は福井 鯖江で生産しています。

そのジュラ地方の産地にクリスチャンダローズ社がありました。
おそらく、世界で一番最初にポリカーボネートのサングラスレンズを
量産化した会社です。
当時、この会社は従業員10数人の会社でしたが、
今では大会社に変貌しています。

以前はメガネレンズはガラス、アクリル、CR39がレンズ素材でした。
これらの素材では耐衝撃強度が十分ではなく、割れる恐れがあり、
特にスポーツ用としては、満足のいく素材は
開発されていませんでした。
そこに、エンジニアリングプラスチックのポリカーボネートが新素材の
新商品レンズとして登場した訳です。

スキーゴーグル用のダブルレンズのレンズ部品として
ポリカーボネートレンズの取引を始め、
その後はオーバーグラス等で取引が続いていました。

その会社の担当者ラテール氏と商談時に日本に行ったら、
観光に奈良に行きたいと言うので、
私は、来日のおりには、観光案内をすると話をしていました。


そのラテール氏が来日し、
約束の通りに、1990年3月24日(土)奈良観光の案内をすることになりました。

難波だったか、上本町だったか記憶がありませんが、駅で待ち合わせました。
彼は、懇意の金型屋さんと来日されており、一緒に奈良観光へと出かけました。

ラテール氏は剣道に興味があるとの事で、
警察に電話して剣道を見れる場所を教えてもらうと
鴻池の体育館で練習していることが分かり、最初の見学先は剣道場でした。
ラテール氏は世界中をビジネスで周る営業マンでしたが、
なんにでも興味を持つ企画開発の出来る人でした。

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奈良公園、東大寺を回り、日本庭園の依水園でうなとろを食べるました。
ラテール氏は同行のミレー氏に世界をめぐりビジネスをしていると、
郷に入れば郷に従えと、何でも食べれないとダメと話していました。
ミレー氏は金型屋さんで、今回初めての遠方への海外旅行だったそうです。
うなとろには驚いた事だと思います。

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同行の人が金型屋さんと知ったので、日本のメガネの金型作りを見学する?と聞いたら
興味を示したので、大阪に戻り、懇意の山岡金型を訪問しました。

ミレー氏は山岡氏が銅のマスター型をヤスリで削り出すのを見て、
驚いたようです。
また、山岡金型のマスター型は独自に考案して作られたもので、
メガネの銅のマスター型そのものが、作るべきメガネの完成品と同じ形状のモノを作るのです。
そのマスターは顔に掛けることが出来ます。
これにも、感心されていました。
まさに、芸術品です。

しかし、ミレー氏は
もし、ケガで手が使えなくなったらどうする?
との問いには、山岡氏は答えられませんでした。

ひとしきり、金型談義をして、楽しい時を過ごしました。
帰り際に、ミレー氏は、もし、フランスへ来たら
工場見学をさせてあげるとの話になりました。

その年の5月の展示会のタイミングで山岡氏が展示会視察と金型工場への訪問を決めました。

勤務先の社長には勝手な事をしてと叱られました。
取引先の金型工場を秘密にしておきたかったのか、
勝手に重要な事を進めたことに対して怒られたのかは聞いていません。
どっちだったのでしょう? 両方だったのでしょうか?

山岡氏はフランスの金型工場を訪問して、当時の最先端の金型製造方法を
見学し、アドバイスをもらって、帰国、当時は、清水の舞台から飛び降りる決意で、最新の設備導入を図りました。
三次元測定機、ワイヤーカット、ファナックの数値制御機械、マキノフライス等です。

その結果、金型生産工程に革命がおこり、
以降、最新設備を駆使した金型が作られ、立体的なスポーツグラスの
デザインが出来る様になりました。

数年して、
当時、ナイキはサングラス事業への進出を模索し、
世界中のスポーツグラスメーカーと金型メーカーを訪問して、
自社設計の金型製造とナイキスポーツグラスの生産が出来る工場を
探していました。

ナイキは来日し、山岡金型を訪問、その金型製造技術を調査します。
結果、当時の世界中の中で、山岡金型に金型生産、川本光学に製品生産を依頼することとなりました。

山岡金型はナイキとの取引が始まり、ナイキへの訪問もし、
ナイキのサングラス開発の手法を学びました。
彼らは、最初のスポーツグラスを作る為に、
メガネ作りに精通した商社、設計の出来るIDEOに開発を依頼していました。

まずは人頭の3Dデータを作成し、その人頭データの上でメガネを設計する仕組みです。
そのソフトは飛行機を設計時に使用するものでした。

三次元でデータを作成して、そのデータをもとに製品設計、金型設計、
強度計算までもできます。
3D CAD CAM CAE を駆使していました。

山岡氏はナイキの要望に対応するために、同じシステムの導入を決断し、
その設計から金型製作までの
数値データを使用した製品設計、金型設計から金型製作までの手法を
ほぼ5年の歳月を要しましたが、自社の金型生産手法としました。
その道すがらは大変な苦労であったと聞いています。
仕事を進行させ、売り上げを確保しながらの、
当時、世界最先端の3Dシステムを自社に落とし込むのですから、
大変であったと想像できます。

この事で、3Dを駆使して、幅広い立体的なスポーツグラスが
デザイン出来る様になりました。
スポーツサングラスのデザインの制限がほとんどと言って良いほど
無くなりました。
ハイカーブ、レンズとフレームの勘合、細いフレーム、テンプルとフレームの接続の為のビス穴等々、従来では不可能とされた事が可能となっていきました。

ラテール氏とミレー氏と山岡氏の短い出会いは日本のスポーツサングラスの奇跡的な出発点となりました。

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偶然か?必然か?小さな出会いが、結果的に日本のスポーツサングラス、
メガネの開発から金型製造、生産に至る革命を起こしたのです。

私は、毎年の海外出張で、世界のメガネの動向を早くに知ることが出来ていました。
帰ってから、お取引先の方々に情報を提供し、素早い対応をしていかないと、世界の開発スピードについていけなくなる事を口を酸っぱくなるほど、伝えていました。
結果的には、話を聞いて、対応したのは、山岡金型と川本光学だけでした。

時代は常に変化しています。
フランスのモレル社 ミシェル氏は、営業で世界を回りながら、
自分は変化に対応するために素早く動いているつもりだと、しかし、世界はもっと早いスピードで動いていると。

商品開発は立ち止まることを許されません。
時代の波はとどまることはありません。
常にその波に乗って、時代に対応して商品を開発し続ける必要があります。
企画マンは何事にも興味を持って、好奇心を持って、アンテナを立てて情報を感じて、次への一歩を踏み出し、歩き続けるのが商品企画開発の仕事でしょうね。
この仕事は飽きることがありません。
今、年金生活をしている私ですが、常にこうしたら、ああしたらとか考えることがイッパイで退屈することはありません。
現役の皆さんは、仕事としての商品開発の担当でなくても、常に、その様な問題意識、興味、野次馬的に行動することが、次への商品開発のヒントをつかみ取ることになるだろうと思っています。

創意工夫と昔から言われていますが、
横文字でなくて創意工夫でカオス時代を歩みましょう。



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