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『その先に見えるもの』

 荒川和三は山間にある老舗の温泉旅館に来ていた。といっても旅行に来ている訳ではない。仕事でだ。

 荒川は土産物の卸売りをしていた。
 しかし彼にとってそれはあくまで腰掛けで、自分ではウッドカービング作家だと思っている。なかでもバードカービングの腕前は中々のものだと自負していた。

 その緻密な造形と彩色は仲間の作家達からも一目置かれていた。しかし、手間と時間がかけられたそれらの作品は値段もそれなりに設定していたから、飛ぶように売れるわけではなかった。値段を下げれば売れるのだろうが、彼はそれを良しとしなかった。

 というわけで、今のところはもっぱら土産物の卸しで生計を立てている。運が良ければ作品を買ってもらえることもあった。

「御免ください」

 返事がない。

「ごめんくださーい」

 やはり、返事は無かった。

──今日は変な時間に来てしまったのか。

 荒川は出来るだけ宿の主人が暇そうな時間帯を狙って訪れることにしているのだが、どうやら今回は当てが外れたらしい。

──まあ、いい。

 こんな山奥まで来てする仕事に取り立てて急ぐ案件は無く、暫く待つことにした。
 玄関先で納品書の内容を確認しつつ腰を据えた。

 どれくらい経ったか──。

 ふと気配を感じた。
 荒川は何気に廊下の先を見て舌打ちをする。

「ちっ、めんどくせえな」

 廊下の奥には人ではない「それ」がふわりと佇んでいた。

──女だ。

 正確にはかつてそうであったものだ。

 無視することにした。
 別段悪いものでは無さそうだし、やり過ごすことにしたのだ。荒川も所謂そういった体質の人間だが、彼のそれは何千、いや何万人に一人という類いのものだった。

「ああ、荒川さん、いらしてたんですか」

 旅館の主人だった。
 伝票に目を落としていた荒川はその声で反射的に顔を上げた。

 不意に視線を動かしたからか、主人の顔のその先、廊下の奥に漂う女と目が合った。

──しまった。

 自分を認識していると確信した女は、にやり、と笑みを浮かべ、廊下を滑るように向かってくる。

「うっ……」

 さすがの荒川も声が漏れた。

──ち、近いよ。

 女の青白い顔は目と鼻の先。
 まだ嬉しそうに薄ら笑いを浮かべている。

──わかった、わかった。見えてるよ。嗚呼、そういうこともあるだろうさ。

──お前もあんまりうろうろしてないで、行くとこ行きな。もう、大丈夫だからさ。

 そう、心のなかで話しかける。

「あの、荒川さん?どうかしましたか?」

「あっ、いえ。何でもないですよ。目がちょっと……」

「ははは、荒川さんもそろそろ老眼鏡ですか」

 主人との仕事の話しが終わる頃には、ふわふわと漂っていた女はいつしか居なくなっていた。

 荒川和三は仕事を終えると何事も無かったように、その旅館を後にした。

 その日は伊織が先に帰宅した。家に入ると部屋には既に明かりが点いていた。

「舞、ねぇ、まーいーっ。いるのー」

 返事はない。
 舞は仕事で今夜は遅くなると言っていた。

「もう、あの子、電気つけたまま出掛けたんだわ」

 その夜、舞が帰宅したのは夜の十時をまわってからだった。


 その二日後、今度は舞が先に帰宅した。居間だろうか。家が明るい。玄関を開けようとするが鍵が掛かっている。

 鍵を開けて中に入る。
 誰も居ない。

「お姉のやつ、つけっぱなしで行ったなぁ。ったく、しょうがねえなあ。電気代が勿体ないっつうの」

 舞はそう言って少し悪態をついてみた。


 その日の夕飯時だった。

「舞さぁ」
「おねえー」

 二人が同時に話し始めた。

「何よ」
「なにさ」

「いいよ、お姉から先どうぞ!」

 すでに舞は怒っているようだ。

「あんた、こないだ部屋の電気つけたまま出掛けたでしょ?」

「それ、お姉でしょー?」

 舞がとって返す。

 しばらく二人は話しあったが、どうにも噛み合わない。結局、明日は二人で確認してから家を出よう、ということで話しは落ち着いた。


 その日は伊織の提案で、何処かで待ち合わせをしてから二人で帰宅しよう、と云うことになっていた。

 いつもの路地にさしかかると、舞が先に気がついた。

「お姉、あれ見て…」

 二階の部屋から明かりが漏れている。

「ああ、やっぱりね」

「なによ、やっぱりって」

「そうじゃないかなって、思ってたの。いつものあれよ」

「あれって、なによ」

「まあいいわ。そのうち、収まるでしょうし、あんまり気にしなくていいわ、行きましょ」

 二人が家に入ると、あの時と同じように電気が点いていた。しかも今回はCDが再生された形跡がある。

「きもちわる……」

「お姉はどうしていつも平気でいられるの?信じられない」

「あんた、そんなこといちいち気にしてたら、この家じゃ生きていけないわよ」

「ったく、お姉は」

 そう言いながらも、その夜は何事もなく二人で食事をし早めに床についた。


 夜中の十二時頃だろうか。

 ピーッ!ピーッ!ピーッ!ピーッ!

 けたたましく鳴り響くガス警報器の音で伊織は目を覚ました。

「なに?ガスもれ!?」

 台所へふらつきながら歩いていく。
 しかし、ガスが漏れている様子はどこにも無かった。コンロからも、湯沸し器からも、ガスの臭いはしない。

「こんなことまでする?」

 そう言いながら伊織は警報器のコンセントを引き抜いた。念のためガスの元栓を全て閉め再び布団に入った。仕事で疲れていた伊織はすぐに眠りに堕ちた。


 小一時間くらい経っただろうか。
 伊織は異臭で再び目を覚ました。

「ガスくさ!」

「ガスが漏れてる!?」

 慌てて台所に向かう。

「どこ、どこ?」

 咄嗟に部屋の電気をつけてしまったが、さすがに爆発はしなかった。見ると、ガスコンロのホースが外され、元栓が開けられていた。

 何はともあれ、ガスの元栓だけは閉めた。

 すべての窓を全開にしてからあたりを見渡し、携帯電話を探す。床に落ちていた携帯を拾い上げると、アドレス帳から番号を呼び出し、発信ボタンを押した。

トゥルルル…トゥルルル……

──出て!お願いっ!

トゥルルル…トゥルルル……

「も…し、…もし……」

「あっ、ごめんね、遅くに」

「あ…あ…、い…おり……か……」

 電話がひどく聞き取りにくい。
 雑音が混ざっている。

 電話の相手は荒川和三だった。


 荒川とは高校時代からの友人だった。この家に引っ越してからというもの、よくその手の相談にのってもらっていた。

 しかし、大概は「ああ、また今度な」とか「まぁ大丈夫だろう」とか「そのうち、見に行ってやるよ」というものが多かった。

 だが今回は違った──。

 荒川は「何時だと思ってんだ」とか「どうしたんだ?」とかは一切言わずに、ただ「いま家か?」とだけ聞いてきた。
 そして「今すぐ行くから、待ってろ」とだけ言って電話を切った。


「伊織、入るぞー」

 そう言いながら荒川は家にずかずかと入ってきた。

 電話を切ってから二十分と経っていない。
 寝起きとは思えない鋭い目をしている。

「和三、ごめんね。こんな時間に」

「そんなことはどうでもいい。とりあえず家ん中見せてもらう」

 そう言って、荒川はうろうろと家じゅうを歩きまわった。そして、こう言った。

「まあ、大丈夫だろ。電話の感じで慌てて飛んできたんだが、大したことは無さそうだ」

──大したこと、ない?

「だいたい、舞はともかく、お前みたいなやつに憑くものなんて、そうそういないんだよ」

「なによ、人を化け物みたいに」

 荒川の表情が一瞬、険しくなったように見えた。

「でだ。何でこんな風になるまで放っておいた?大層ご立腹だぞ。お前たち殺されかけただろ?」

 伊織は荒川がここに来てからも、何ひとつ説明はしていなかった。

「ええ、まあ。ガスが、漏れてたわ……」

 それに、と今までの経緯と思われるものを、一通り話して聞かせた。

「なるほどな。で、お前ら二人はそれを見て見ぬふりしてたわけだ──」

「向こうはお前を頼りに来てんだ。あんまり放っておくもんじゃねえよ」

「ちょっと、こっち来い」

 伊織は階段へと連れていかれた。

「見えるか?」

「ううん、なにも」伊織には何も見えなかった。ただ「それ」の気配だけは感じた。

「階段の踊場に軍服を着た男が立っている。お前たちに自分のことを気づいて欲しかったみたいだ」

「服はずぶ濡れに見えるな。それと…あれは…喉元に大きな切り傷か、何か…」

「自害でもしようとしたのか、それ以上はわからん」

「お前には見えてもよさそうなもんなんだよ」

「いやよ。わたし見たくないし」

「そんなんだから、見えない。今回みたいに見えた方がいいこともある」

 伊織は特別な場合を除いて、「それ」を見ることはほぼ無かった。
 それは"特別な場合"にはそれなりのモノを見てしまうと云うことを意味していた。

「とりあえず、あそこに小さな台を置いて、その上にコップ一杯の水と、小皿に塩を置いておけ。それでいい」

「たった、それだけ?」伊織が言った。

「ああ、たった、それだけだ」

「あれらは案外、純粋なもんなんだよ。肉体がない分、俺たちよりずっとと云うか、一途な気がするよ。きっと」

 荒川は少し遠い目というより、どこを見ているのかわからない顔をしている。

「なのに、あんまり放っておくもんだから、本気で殺すつもりは無かったにせよ、お前たちは危険な目に遭って、挙げ句、俺が呼び出されて、ここに居るってわけだ」

「わかったわ。何だかごめんなさい」

「まあ、いいんだ。こうして無事なんだし」

 荒川は男を見ているのだろう。
 伊織も見ているつもりで立ちつくした。

 男は何も言わず、今もその場に存在しているのだろう。


 舞が眠たそうに目を擦りながら二階から降りてきた。いつの間にか朝になっている。軍服姿の男の横をそのまま通り抜けてくる。

「お、おはよう…」

「あれ、和三さん来てたんだぁ。久しぶりっていうか、こんな朝早くにどうしたの?」

「おはよう、舞ちゃん」

 荒川が言った。

「おう、ちょっと、近くまで来たからさ」

「そうなんだー、コーヒーでも飲んでく?」

「ありがと舞ちゃん、気が利くねえ」

「ううん、わたしが飲みたいから、ついでに淹れるだけ」

 舞はそのまま、二人をも通り越して台所へと入っていく。

 伊織が言う。

「和三さあ、前から思ってるんだけど、どうして舞はちゃん付けで、わたしはお前呼ばわりなわけ?」

「いいだろ、んなこと別に」

 その時、台所から伊織を呼ぶ声がした。

「おねえー、ちょっと!」

「どうしたの、舞!」

「ガスがつかないんだけどー」

「あっ、ごめん」

 ガスの元栓は閉められたままだった。

「あ、和三、今──」

「どうかしたか?伊織」

「ううん、なんでもない」

 伊織は二階の部屋でカチリと明かりが灯されたような気がした。



〈了〉

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