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『乙女色 Otome-iro』

「私ってアナログ人間なんです」

 月見里やまなし まりは確か自己紹介でそう云っていた。彼女は大学の文芸部で知り合った僕と同じ一回生。

 趣味は読書で他に華道と茶道も少し嗜んでいると云っていたか。流派やなんかも一緒に聞かされたはずだけれど、僕には関係のないことだと記憶にすら残っていない。

 僕はしがない貧乏学生であり、彼女とはいわゆる"住む世界が違う"と云うやつなのだとその時確信したのはよく覚えている。彼女が実際にお金持ちかどうかは知らないけれど、例えそうでなくとも彼女の見ている世界と僕のそれとが同じでないことくらい容易に想像できた。

 月見里 鞠と云う名もどこか印象的で、部内ではその美しい容姿と清楚な物腰とが相まって入部当初から注目の的になっていた。

 その彼女が今、僕の隣に座っている。部室に残っているのは彼女の他には僕しかいない。僕は締切間近の部誌に掲載する小説をひたすらタイピングしていた。そのパソコン画面を彼女は食い入るように見ているのだ。僕は無視を決め込んだ。

 そもそも彼女が部室に残っている理由が解らない。彼女は詩だか短歌だかを載せることになっていたはずだし、それらもとっくの昔に詠み終えているだろう。他に用事などないと思うのだけれど、詮索してみたところで僕に判る道理がなかった。別にパソコンを打つ姿など珍しい光景でもないだろうに──そう思う。

 不意に彼女の髪が視界の端に入ってきた。ストレートロングのその髪は近くで見ると意外にもかなり明るい茶色をしていた。地毛なのか染めているのかは判らない──が、そんなことはどうだっていい。

 月見里に興味を抱いてはいけない──そう、いつだってもう一人の僕が告げるのだ。興味を抱いた途端、ずたずたに引き裂かれた僕の骸が転がっている絵柄が脳裏に浮かぶ。

 僕は彼女が怖い。見た目も美しく言葉の端々に隠しきれない知性の片鱗を見え隠れさせる彼女がとてつもなく恐ろしい。

「触らぬ神に祟りなし──」

「え? なに?」
「何でもないよ。それより、月見里さん。僕に何か用?」
「いえ、特に用はないのだけれど、随分さくさくと作業をこなすものだと感心しているのよ」

 作業ときたか。この僕の創作活動を作業呼ばわりするとは。僕は無意味にエンターキーを大きな音をさせて叩き、彼女を見た。

 僕はこの月見里という女が気にくわない。見ているだけで僕を不安な気持ちにさせる。その美貌も、賢そうなところも気にいらない。でもそれは僕の自己防衛本能が発動した末の印象操作ではあることはほぼ間違いない。

「作品のプロットはもう頭のなかで完成してはいるんだ。細かい情報は手書きのノートに」

 後はそれらを組み合わせて出力してやればいい。伝えたいものがはっきりとイメージされていれば、後はそれほど難しいことではない、とは思う。ただ僕の場合はこの段階に辿り着くまでに酷く時間を要するのだ。

──まあ、作業と云えなくもないか。

「今、書いてるこれってSF短編なの?」
「一応、そのつもりだけど──」

 僕はぶっきらぼうに答えた。

「そうなんだ。私は君の書くライトノベルっぽいヤツが好きなんだけどな。部誌には載せてくれないもんね」

「え? もしかして僕のラノベを読んだの?」
「先月アップしてたのも読んだわ。とても面白かったよ。特に異世界転生した洗濯機がエルフのショーツを体内に取り込んで、ぐるぐる洗いながら悶絶するくだりがね」

 僕は顔から火が吹き出るくらい恥ずかしくなった。

「いや、でも、ペンネームも違う訳だし、部員の誰にもラノベ書いてるなんて話してないし、そもそもどうして僕だって判るのさ」
「判るわよ、それくらい。地の文がまんま君の話し言葉だし。関心事や考え方、それに君の気力が部誌に載せてる作品と違って横溢おういつしてるのも実にいいわ」

「それって、つまり僕の思考がだだ漏れってこと?」

 月見里の笑みに僕は現実の恐怖を覚えた。一体どうやって僕の作品にたどり着いたのか、皆目見当がつかない。彼女は僕の何を知っていると云うんだ。いや、どこまで知っているかの方がこの際問題である。

 我が文芸部の部誌はジャンルもそれなりに幅広い。各小説にとどまらず詩や短歌、エッセイなども掲載している。部誌は部室の前で無料配布しているのだが、僕はいつもライトノベルではなくSF短編小説を書いていた。面白いかどうかは別の話だけれど──。

「前にさ、自分のこと"アナログ人間"だって云ってたよね? それと何か関係ある?」

 僕は話題をすり替えたくて咄嗟に質問をしてしまったが、思惑どうりにはならなかった。

「関係ないわ。単なる私の好みと云うか、趣味の話よ。君は私の云ったアナログの意味を勘違いしているようだけれど、私、別にサイエンスやデジタル機器に疎いわけでも、まして機械音痴でもなくってよ」

 テレビの配線だって自分で出来るし、と彼女は云った。機械音痴でない例えとしては些か時代がずれている感があるがまあいい。多分、彼女の伝えたいことはそう云うことではないだろう。

「じゃあ、どう云うことなの?」

 僕が問いただすと彼女は自身の髪を人差し指と親指でひと束つまみ上げながらこう云った。

「これ、何色に見える?」
「明るい茶色」

 だから、駄目なのだと彼女は云った。

焦香こがれこうよ。濃い香色ってこと。ちなみに香色と云うのは、やわらかい黄ってことね」

 はあ、と僕は間抜けな返事をした。

「君の目や脳みそは、茶色は茶色、赤は赤、青は青としか認識できないわけ? 本来はそんなことないでしょ? それぞれに無限の色調があるの。濃淡や強弱があるのよ。それを限りなく細分化して認識するの。日本の伝統色なんかがいい例ね。わかる?」

 何かの講義が始まった。面白そうなので暫く付き合うことにした。

「あとデジタル時計とアナログ時計かな。前者はそれこそ時間をある程度細かく区切って数字で表示するけれど、後者は違うわ。時間を連続した量として表現するのよ。数字と数字の間を短針と長針で表すの。そこには当然──」

「グラデーションがある、のか」

「まあ、そんな感じね。私たちは言葉を使ってこの世の中を細分化しているの。多くの語彙を知っていれば、より多くのものが見えるのよ。勿論、無限と云う訳にはいかないけれど、それを知ることによってより正確に自分の気持ちなり感情を相手に届けることが出来る」

 相手もそれを知っていることが前提になってしまうけれどね、と彼女は付け加えた。

「私がアナログと云ったのはそう云う意味。でも、それは"そうなりたいな"って云う、私の願望も込みなの」

「なんとなく、解った、ような気がする」

 結構、結構、と彼女は笑った。

「でもさ、それと僕のラノベが面白いと云ってくれることに何か関係あるの?」

「さあね、自分で考えなさい。でも君には君のグラデーションがあるんだなって読んでると思うの。私にはない君だけのがね」

 彼女はそう云った。僕はなんだか少し嬉しくなった。

「赤色や桃色にだってほんと沢山の種類があるの。日本語って素敵ね。私は乙女色って色が好き。乙女椿って花の色だそうだけれど、その花は私の誕生花でもあるのよ」

「乙女色かあ、なんだか──」
「私には似合わないって顔してる」

 そう云って、彼女は笑った。

「私、もう帰るね。今日はありがと」

 唐突に彼女はそう云った。

「いや、僕の方こそ、なんだかその──」

 いいの、いいの、邪魔してごめんね、と彼女は胸の前で手をひらひらさせた。

「あ、私の好きな色が乙女色だってことは、君しか知らないことだから内緒にしててね。実際ちょっと恥ずかしいし」

 そう云って部室を後にする彼女に僕は俄然興味が湧いてしまった。今回の部誌には先日書き終えたばかりの新作ライトノベルを掲載してやろう──そう思ったけれど、即座に却下した。

 今のところ、僕と彼女の接点と呼べるものはみんなに内緒で書いているライトノベルしかないのである。もう少し何か出来るような気がしてきた。

 月見里 鞠という女性が本当は何色なのかを確かめるのは、その後でもいいと思った。

 僕の好きな色って何色なんだろう。
 そんなことを生まれてはじめて考えた。

 頭のなかが一瞬虹色でいっぱいになった気がした。いや、正確には"二次色"だったかもしれない。でも僕は彼女の見ている世界をこの目でも見てみたいと本気で思い始めていた。

 僕は彼女のことが──少しだけ怖くなくなっていた。


 


〈了〉

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