味が落ちるとすぐわかる
先日、一本の電話がありました。
内容はこうです。
「このあいだ食べたうなぎの蒲焼きがとても美味しくて、孫にも食べさせたいので是非またお願いしたい」と。(ちょっと簡単ですが概ねこんな感じです)
おお、そうですか、そうですか。
それは大変うれしいかぎりです。
そう思っていただくために日々努力しているのです。
お口にあって何より。
ひととき、そんな幸せな時間をすごします。
ほんのひとときです。
というのも、すぐに別の事が頭をよぎるからです。
一体どのあたりが、どのように美味しかったのだろうか、と思いを巡らせます。
まあ、仕事なので当然といえば当然です。
しかし、そのうち「美味しい」「美味しくない」ってどんなときに感じるのかと、どんどん思考が脱線していきます。
「美味とは食べ物そのものにあるのではなく、味わう舌にあるものである」とは、あるイギリスの哲学者の言葉です。
食材と、味覚という「感覚」の組合せがあってこそ、「美味しい」と感じる、と云うことでしょうか。
また、インド独立の父、マハトマ・ガンジーはこう遺しています。「人は生きるために食べるもので、味覚を楽しむために食べてはいけない」
もう返す言葉もありません(笑)。
それもひとつの真理だと思います。
しかし食べ物を扱う身としては、そうも言っていられない現実があって、どうせ食べるならやはり美味しい方が良いし、美味しい食べ物は身体ばかりか、心も満たしてくれるとわたしは思っています。
手の込んだ料理をいただくのも楽しいですが、素材を活かし、食材が持っている本来の味をひきだすようなシンプルな料理もまたいいものです。お新香とかお味噌汁とか大好きです。(ちょっとちがう気もするけれど)
夏の季節、ましてやこう天候が悪いと、海の魚はさっぱりです。日課のようにおろしている鯵もここ一週間は触ってもいません。となるとやはり川魚。なかでも「鮎」や「うなぎ」が主流になってきます。
夏といえば鰻が人気で、今年は土用の丑の日が2日あり、8月2日が二の丑にあたります。
今年はしらすうなぎが例年よりも豊漁だったのですが、天候の影響か、エサの喰いが悪く大きく育ちませんでした。それでも何とか良い鰻を用意して、一の丑を無事に乗り切りました。
二の丑の頃には、鰻が大きく育ってもっと安定して入荷するだろうと予想したのですが、その読みはどうやら甘かったようです。
選別をかけて池に戻された鰻は二三日はエサを食べず、加えて日照不足、気温の低下で成育が思わしくありません。養殖業者も思うような大きさに育たない鰻にお手上げ状態。脂の乗った大きめの国産鰻の入荷はお盆頃まで待たされそうです。
産地表示の必要がない店は中国産にシフトしているようですが、それでも国産にこだわり、各産地や、そのなかでも「池」にまでこだわる様な店はやはり国産鰻を使いたがるのです。
中国産も近年とても品質が良いので食べて国産か、そうでないか分かる人は数少ないでしょう。
国どうしの関係が良好ならば、中国産鰻のあつかいも違うだろうに、と市場の人もこぼしていました。
まあいろいろあって、わたしも国産鰻を選択するのですが、鰻の質が多少異なるので、焼き方なんかを微調整しながら仕上げていきます。素材に失礼のないように最善を尽くします。
しかし、この鰻というのは、同じものを使っていても、どうしてこう味に差が出るものかと驚かされる事がしばしばあります。
ひと切れ口に入れて問答無用に「旨い」という鰻もあれば、「これ食べたらもう一生鰻なんて食べたくなくなるだろうな」というものまでさまざまです。
そして、わたしのような未熟者の焼く鰻の美味しさは、まだまだ微妙なバランスの上に立っていると改めて気を引き締めます。素材である鰻選びと焼きの技術、タレの味やその乗せ加減と様々なもののバランスです。
また、食べる人の空腹具合やその日の天候や気分もあるでしょう。それでも「美味しい」と言ってくれた、その一言はわたしを報われた気にさせてくれると同時に励みにもなります。
さて、鰻に限らず美味しい物やそうでない物、はたまた「不味い」というレベルのものを食べたとき、あなたはどうしているでしょうか。
美味しい物は黙って食べて、不味かったら何も言わずに残すでしょうか。
それとも、はっきりと感想を言うでしょうか。
美味しいものと、そうでないもの。
ましてや不味いものを食べたときの感覚は随分違うように思います。
不味いものを食べたときは、比較的分かりやすいでしょう。
だって不味いんだから。
なかば脊髄反射的に感想が口からこぼれます。
「マズッ」ってぐあいにです。
味が香りが食感が。動物として、これは食べてはいけないのではという感覚。それは少し大袈裟かもしれませんが、総じて「味が落ちた」といったことについて、人は敏感に感づくものです。
例えば行きつけのお店の味が落ちると、わりと簡単に気がついたりします。ラーメン屋、カレー屋、定食屋などいろいろあるでしょうが「なんか前より美味しくなくない?」みたいな感じになります。
そして、そんな噂はすぐにひろがったりもするのです。
しかし、これが以前と比べて味がよくなるとどうでしょう。少し事情が違う気がします。
ぼうっと食べていると知らず知らずのうちに完食していたり、「なんか普通に美味しかったよね」程度になってしまう気がします。
実際はお出汁やその取り方がこれまでと変わっていたり、素材選びや調理法に工夫がされていたりと、目に見えないところで企業努力がなされていたりするのでしょうが、なかなか気付けないものです。
味覚から得るものは、ある程度の経験や食に向き合う姿勢が必要なのかもしれません。
「いただきます」から始まり「ご馳走さまでした」で終わる一連の流れや料理に対する意識みたいなものが。
「盛り付け」や「彩り」なんかも、料理に意識を向けてもらうための演出です。
「見て見て美味しそうでしょ。さあ召し上がれ。きっと美味しいですよ。お口に合うと嬉しいです。」
と言っているように感じます。
そんな、とりとめもないことを考えていると、食べ終わってから、わざわざ「美味しかったよ」とか「旨かった」などと言ってくれる人に対して、「ああ、味わって食べてくれたんだ、ちゃんと料理に向き合ってくれたんだなあ」と感慨深い思いになるのです。
その逆もまたしかり。
「味覚」とりわけ「美味しい」という感覚は、実に多くの要素が複雑に、そして、美しく組み合わされた末に紡ぎ出されたようなもの、ではないかと思います。
しかし、実際の「おいしい!」には細かな理由なんていらないとも思います。
だって美味しいんだから。でいいと思います。
それだけでも充分です。
ただ美味しく食べられれば、それでよし、です。
なんだか噺家さんのようですが、おおいに笑ってくれればそれでいいのです。
だから一言「美味しかったよ」という声がどこからか聞こえてくれば、それで本望なのです。
誰が作ったか、なんてあまり関係ありません。
炭火が熱かろうが、煙が目にしみようが、そんなことはどうでもいいのです。
もし美味しかったらの話ですけれどね。
100人が食べて100人が美味しいと言う料理は存在しないでしょう。
それは、人それぞれに味の好みが違うのだから当然です。でも何かを食べて美味しいと感じたら、「美味しかったよ」と言ってあげると作った人はきっと喜びます。
どうでもいいと思いながらも、誉められるとうれしいものです。料理人には変わり者がたくさんいます(笑)。
残さず食べてくれれば、それで分かりそうなものですが、やはり「美味しかったよ、ご馳走さま」の一言は料理人に限らず誰でも嬉しいのではないかと思います。
その一言が、次もまた美味しい料理を運んで来てくれるかもしれません。たとえ、いまいちな料理が出てきたとしても、作る人は、大なり小なり美味しく作りたかったはずなのです。また、そうあって欲しいと思います。
毎日何かしらを作っていると、たまにそんなことを考えてしまいます。
わたしはといえば、少し面倒な性格なので面と向かって「おいしい、美味しい」と言われると「そう?ほんとにそう思う?」と疑ってしまいます。
食べ終わってからのタイムラグがあって、しかも少し遠くから「美味しかったよ」という声が聞こえてきたとき、一人でほんのちょっぴり喜んでいます。
今日もまた味を落とさぬよう、精進したいものです。
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