『シューフィッター』
そのとき僕は文字通りひざまずいていた。「失礼します」と一声かけ彼女の左足にそっと触れる。
仕事柄いろいろな足に触れてきたが、彼女ほどの足を今まで見たことがなかった。その美しさはソックスの上からでも容易に想像できる。それは僕に神々しいとまで感じさせた。
──小指がほんの少しだけ内転しているか。
しかし綺麗なものだ。これなら別段幅の広いトレッキングシューズを提案する必要もないだろう。彼女が2Eや3Eのモデルをデザインだけで選ばないことを願うばかりだ。
候補のシューズをいくつか彼女の前に置く。それぞれにカラーバリエーションが多くあるわけではない。あって2色がいいところだ。
「トレッキングってはじめてで、どんなシューズ、いえ、ブーツなのかしら。どれが良いのか分からなくて。あとリュックも」
「そうですか。日帰りですか?それとも一泊されるとか?」
「今回は日帰りですが、あとあと本格的な山登りになるだろう、と聞いてます」
「それじゃあ、リュックの方はとりあえず30リットルもあれば充分な感じですね。日帰りから山小屋一泊くらいまで行けますよ。シューズはアッパーやソールが極端に硬いものは避けましょうか……」
「はい。ありがとうございます。わたし何も知らなくて」
「ちゃんとお選びになろうと思うだけでも…素晴らしい…と思いますよ。靴は大切ですからね。足に合ったもの…をお選びしますね……」
──なんだろう。
この人と話していると妙に眠気を催す。夕べは……しっかり……寝たはずな……のに……。
ガクンッ、と頭が落ちた。
接客中に居眠りなんて失礼極まりない。
僕は気取られないよう、ゆっくり頭を起こした。そして「話を聞いていましたよ」とアピールするために何度か頷く素振りを繰り返す。
彼女は僕の居眠りに気がついただろうか?
普段からお客様の顔を下から見上げるようなことは気恥ずかしくてあまりしないが、失態を犯した今の僕にそれが出来るはずもなかった。しかし、気になる。
「あのう──」
彼女が言った。
「は、はい、なんでしょう?」
──やっぱりバレてたか。
「以前、山で登山靴をお忘れになったことはないですか?」
彼女は居眠りに気づいていたのかもしれないが、その事に対する言及はなかった。
「えっ?それは無いと思いますよ。基本履いているモノですし」
「そうですか──」
突然、何だというのだろう。
表情は分からない。
「どうしてですか?」
靴を合わせながら訊いた。
「いえね。山の中に忘れられたように置いてある登山靴がありまして、その靴が持ち主をずっと待っているんです」
とても寂しそうでならないんです、と彼女はつけ加えた。
山によく行く僕ですらそんな靴は見たことがない。そもそも彼女は山登りが初めてなのだと言っていた。そんな彼女に山中で置き去りにされた登山靴に出会うような経験が出来るのだろうか。
その時、苔むした靴が一瞬見えたような気がした。どれくらい経てばあの様になるのだろう──。
「すみません、変なこと聞いてしまって」
いえ、構いませんよ、と言って見上げると、彼女はなぜか僕の持ってきたモノとは別の登山靴を持っていた。
「これにしますね。良いのを選んでいただいて、ありがとうございます」
「あ、いえ、こちらこそ」
いつの間にそれに決まったのだろうか。しかしながら、彼女の持つ登山靴はメーカー、サイズともに何の問題も無さそうだった。
背中を見送る僕に彼女は振り返り、にっこり微笑んだ。
さっきは本当に眠ってしまっていたのだろうか。僕は山中に放置された靴のイメージが拭い去れず、彼女を追いかけて訊いた。
「すみません。先ほどお話の靴はどこにあったのですか?」
「靴がどこにあったか、ですか?」
「もしも、あれがあなたの登山靴でないのだとしたら、これから置き去りにしてしまうのかもしれません。どうかお気をつけを──」
「・・・・・・」
「あのう、すみません、すみません」
彼女が僕を呼んでいる。
「あっ、ごめんなさい、僕、もしかして」
「大丈夫です。お疲れなんですね。履きやすいし、色も気に入ったのでこれにします」
彼女は僕の提案したトレッキングシューズを両手に持ち、さっきと同じ笑顔で微笑んでいる。
──さっきって、一体いつだ?
──そういえば。
僕は接客中にちょっと居眠りをして、変な夢を見てしまっただけなのだと思いたかった。
〈了〉
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