秋と桜

2019年が始まる。
新しい元号に変わるから騒ぎの最中
いつからか不思議と猛烈な擬かしさを
覚え始め、その擬かしさが絶頂に達した所で、
前から気になってたnoteとやらに手を出す事をここに宣言する。
この宣言はあくまでも気まぐれであり、
3日で唱え終わるかもしれないが
気が済むまで綴っていきたい。

新年早々、僕のモドカシサは水から来ている。
水に触れた時のあの感じ(触れたはずなのに曖昧な感触)をここの所ずっと抱いていて、
その事ばかり考えていたら、富士も鷹も茄子も見ることなく夢見心地に居た。

これは花見の感覚と似ている。
散らない桜は木を蹴って揺らし、
散り終えた桜に用はない。
桜の真骨頂は散り際。
枝の先から地面までのあの距離。
僕はあの距離の中にいる。

それは、何処かの誰かの言った
「19の春が女性の最も美しい年」
なのだという事に似ている。
たった1日、日を跨いで20になると、それはもう美しく無い。
何かに変わっていく最中の人こそ美しい。
僕は今、その変化の中にいる。
世間もそのようだ。
今、世界は、少なくとも日本は、
最も美しいはず…多分。

ここでふと桜の声。
「最中の者は、たまったもんじゃないわ。」
そう、たまったもんじゃない。
桜の死に行く様を美しいと言った人は残酷だ。
秋の匂いが好きだと言った人も卑劣だ。
秋の匂いは、生物が死滅する匂いなのだから。
桜も秋も、どっちも同じようなもんだ。
と、気付けばそれは秋桜に。
秋桜のBGMが流れる〜

そうだ、これは哀愁だ。

上流から下流へ流れていく、その流れの最中。水が掴めそうで掴めない。
でも、下流に辿り着いた時、
その水は僕の掌にしっかりと収まるはず。
それまで流されて、足掻いて、抗って、
今この美しいひと時を楽しんでいきたい。

今年はこのまま、富士の夢でも見に行こう。


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