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宇多田ヒカルのインタビューにガチで共感/感動した話。

宇多田ヒカルのアルバム「BADモード」発売にあたって、Billboardにインタビューが掲載された。

これが自分にとって最高のインタビューだったのでnoteに書き起こしておきたい。



私に付き纏う諦めと孤独

まず最初に、私のセクシュアリティから話しておこうと思う。
私の性自認は男、性的指向(どういった性に対して恋愛感情や性的感情を感じるか、という要素)も男だ。
LGBTQ+的にいうと「ゲイ」に分類されることになる。


学校や会社では色んなことを教わった。
人生において正しいと教えられているルートは
「いい会社に入ってお嫁さんを見つけて結婚して子供をもうけること」だったから、自分もいつかはそうなるんだろうと漠然と思っていた。
いや、向き合わないようにしていた…というのが正直なところかもしれない。


だからどうしていいか分からなくなった。
「それ」が正しいと思っているのに、自分が持っているセクシュアリティはそこから大きく外れていた。
教えが正しいとするならば、自分自身は根本から「間違っている」在り方だった。
ありのままの自分は間違っている。
隠さなければ。普通にならなければ。
じゃないと皆に受け入れてもらえない。

そう思っていくら正しくあろうとしても、正しくなれなかった。
いつしか私の根底には孤独と疎外感が居着くようになった。










宇多田ヒカルは孤独を歌う

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宇多田ヒカルの曲は家でよく流れていた。
音楽好きの父が昔から聴いていて、当時5歳の私はAutomaticのPVを観ながら踊るのが好きだった。
物心ついた時から彼女の歌がいつもそばにあったし、彼女の歌と一緒に成長してきたと言っても過言では無い。

宇多田ヒカルは孤独を歌うのが上手だ。
For Youでは「誰か」がいるからこそ孤独を感じると歌う。
FINAL DISTANCEでは「Distanceを縮めて、抱きしめられるようになる」と歌う。
一つになれるとは言わない。距離は必ずあるものとして受け入れている。
※もちろん希望を歌った歌も沢山ある。

これが歌えるのは、他ならぬ彼女が底知れぬ孤独を味わってきたからではないかと思う。
事実、彼女のオフィシャルブックでもそのことについて触れられていた。
自分の味わってきたモノと不思議と何か似ているなと感じていたけど、それは流石に私が勝手に重ね合わせすぎかなと反省したり。
でも彼女の歌は私にいつも寄り添ってくれた。辛い時はヘッドホンで夜通しアルバムを聴き、彼女の声が私を包み込んでくれるのを感じた。
一人じゃないって思えるだけで充分だった。










分かってくれていた

ところがインタビュー内で衝撃の内容を目にする。
原文は英語なので翻訳文を引用させていただく。

インタビュアー:あなたの音楽がクィア・コミュニティにどのように響いたか、お考えがあればお聞かせ願えればと思います。

宇多田:はい。私にクィアのファンが多いようだと気づいたとき、それは私にとって自然なことに思えたんです。驚くようなことではありませんでした。
ただ、納得がいったのです。
アウトサイダーであるとか、自分自身でいられないという感覚は、恐ろしいものです。
ありのままの自分を受け入れてもらえないのではないかという恐怖。

私はそれにとても共感しています。
私の孤独感やアウトサイダー感が共有できるものだと聞くと、嬉しくなります。
私たちは一緒にそれを感じることができるのです。

宇多田が言う孤独感やアウトサイダー感(疎外感)、
そして"ありのままの自分を受け入れてくれないのではないかという恐怖"。
宇多田はクィア・コミュニティーに対して発言しているが、先述したように、これらはすべて私がゲイとして生きてきても感じたことのある感情だった。

宇多田を自分がゲイだから聴いていたわけではなく、この歌はLGBTQ+を意識している〜などと明言されていたわけではない。
偶然昔からずっと好きで聴いていただけだ。
"孤独"は普遍的なメッセージではある。だから最初は宇多田が歌う対象は所謂"ストレート(異性愛者、通常の性的指向)"の人々なのだろうと思っていた。多くのアーティストがそうであるように。
ただ歌詞を見ていると、どうも同性愛者っぽく思える表現も多くあった。だから私が勝手に同性愛者として感じたことを重ね合わせて共感しているだけと思っていたのに、宇多田側もこちら側を見ていてくれたのだ。
自分の歌う孤独の輪の中にあなたもいるんだよと言ってもらえたのが、どんなに嬉しいことか。
普遍的なメッセージの中に自分も含まれているという感覚は、生まれて初めてのことだった。
※同じLGBTQ+の人は分かってもらえる、、かもしれない。



インタビューはこう続いていく。

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インタビュアー:また、プライドストリームの発表について、まだあまり詳しく語られていないと思うので、今その機会を設けたいです。

宇多田:はい。私が「ノンバイナリ」という言葉を知ったのは、おそらくそのまる2年も前のことです。
私がその考えに出会ったのは...日本語では、"目玉から魚の鱗が落ちる "という表現がありますよね。変な表現ですが、まさにそんな感じでした。
「エウレカ」というか、「ショック」に近い瞬間です。

男の子と一緒にいるときは、男の子になろうとしているような気がした。
女の子と一緒にいるときは、女の子になろうとしているような気がした。
何一つ自然な感じがしないのです。
社会的な場面でなんとなく無理をしているようなところがあったり、自分の体を見て、毎回「あれ?まあ...いいか」と思っていました。
でも、信頼できる人にそういう話をすると、いつも "そうか、君は変なアーティストなんだね "って言われるんです。"ああ、そういうのわかるよ "っていう人には会ったことがないんです。
自分のことだと思ってたんです。同じようなことを感じている人が大勢いることを知り、今までで一番納得のいく体験でした。
世界との関係も、自分との関係も、すべてが変わりました。
でも、それをみんなに伝えなければならないと思ったわけではありません。
時は流れました。大きなプラットフォームを持つ人たちが、「私にできるのはこれくらいだ」と言っているのを見ました。
可視性はとても重要なのです。私はそれを実感していました。
それで、"よし、失うものはない "と思ったんです。

インスタグラムのQ&Aは、その頃と重なりますね。
私はいつも、質問にはテーマがあることに気づきます。多くの人が、あるいは私が特に気になったのは、ゲイであること、カミングアウトできないこと、パートナーがいても周囲に言えない罪悪感、などについて尋ねていたことです。
みんなに好かれようとしてきた結果、自分が何者なのかわからなくなってしまった」という人もたくさんいました。

それは、つながっている問題だと思ったんです。それで、"自分に何ができるのか "を考えたんです。
できることをやろうという気持ちは大きくなっていたのですが、正式に言うのはまだすごく怖かったんです。
自分でも怖いし、これでクビになるとか、家族のサポートがなくなるという心配もない。
友人も家族もみんな元気だろうし、やっぱり本当に怖いんです。

私が怖いのは、私の知らない人たちが持つかもしれないパブリックイメージのようなものを失うことだけです。
バカな話だ。私が言えば、良い影響があるかもしれない "と。結局、正直に言っただけなんだから、何の害もないだろう?

でも、やっぱり怖かった。
言う前にちょっと震えたのを覚えています。
「なるべく気軽に言おう」と思っていたのですが、どうしても大きなテディベア「くまちゃん」が後ろにいないとダメだったんです。(笑)
その後、特に日本での反応が激しかったので、しばらくSNSを控えていました。
でも、自分がノンバイナリであると言って、本当によかったと思っています。いい決断でした。すべての愛とサポートは本当に素晴らしかったです。

インタビュアー:すごい動きでしたし、多くの人に感動を与えたと思います。おっしゃるとおり、目に見えることは重要です。

宇多田:ありがとうございます。

圧倒された。
ここで書かれている通り、宇多田は少し前のインスタライブで自身が「ノンバイナリー」であることを公表した。
これは私もたまたまリアルタイムで見ていたが、今から重大発表をしますという空気では無かった。
たしか本来は庵野監督とのライブだったはずだし、庵野監督と繋ぐ前の視聴者との雑談中だった。
後ろに居たくまちゃんは実はゲイで〜という話から入り、"ちなみに私はノンバイナリーなんだけど〜"という実にあっさりした公表だった。
なんというか、彼女の姿勢がすごく気軽で、自然だったのだ。
あまりにあっさりすぎて私も"あっ、そうなんだ、それでそれで?"とすごく自然に受け入れたのを覚えている。


でもそうじゃなかった。
あんなに自然に見えたのに、すごく怖かったと。
気軽に言おうと意識しないとあんな風に言えなかった。震えたと。そう彼女は語ってくれた。

もう、、ヒッキー!分かるよその気持ちーー!!!!!と叫びたくなった。
そうなのだ。怖いのだ。
引かれたらどうしよう?という不安。
受け入れられなかったらどうしよう?という不安。
理解されなかったらどうしよう?という不安。
これを言うことによって"除け者"にされたらどうしようという不安。
私をよく知らない人が持つパブリックイメージを失うかもしれない、、というのも本当によく分かる。
要は私たちで言うところの"世間体"だ。レッテル貼りと言ってもいい。
そんなの気にしないと口では言えるのに、どうしても付き纏ってくるモノ。
なんてことない、自分にとって本当のことを言っているだけなのに、"普通"である人から"普通ではない"と区別される恐怖。

私も宇多田と全く同じ葛藤にぶち当たったことがある。
初めて人に言う時は自然に言うことはできなかった。
声が震えたし、笑い飛ばすようにはとても言えなかった。
でも嘘をつきたくなかったから、深刻そうな雰囲気で言うしかなくて、逆に相手を困らせてしまったと思う。
両親に言う時もとても自然ではなかったし、咄嗟に言ってしまったというのが近かった。

※結果的に両親は文句も何もなく、こちらが拍子抜けするほどあっさり受け入れてくれたのは完璧に予想外だったけど。両親には今でも本当に感謝している。
周囲の人達もカミングアウトしても何も言わず受け入れてくれて、私は素晴らしい人達に囲まれていると心から思った。


でもヒッキーは言ってくれた。こちらに向けてカミングアウトしてくれた。
本当に怖かったろうけど、それでも共有してくれた。
よくあんなに自然に言ったなぁと驚かされる。

自分がずっと敬愛するアーティスト(それこそ私は人生のほぼ全てを彼女の音楽と共に過ごしている)が、
自分と同じ孤独と戦っていたこと、
彼女の感じたであろう孤独が自分と一緒だったこと、
そして彼女がそれを共感できると語ってくれたこと、
歌に込めて応えてくれていたと分かったこと。
自分が宇多田ヒカルから感じた"孤独"の答えがこんな形で返ってくるとは思っていなかったけど、
敬愛する彼女と孤独を共感/共有できていたのが、本当に本当に嬉しかった。





終わりに

多分私はずっとこの孤独と生きていく。
根底で熟成されすぎて、いくら拭こうとしてもこびり付いて離れないだろう。

でも宇多田の曲を聴けば思い出すことができる。
ありのままの自分でもいいんだと。
私は一人じゃないということを。
同じ孤独に共感している相手がいるということを。


インタビューはまだまだ続きがあるので、よかったら読んでみてください。
息子さんとの微笑ましいエピソードもあります。







余談

※余談だがこの宇多田の公表の時、
なんでわざわざ言うの?」とか、
自分から周りに知らせる意味が分からない」という意見もあった。

私からすればこの意見は「無自覚の傲慢さ」に他ならない。
これに対する明確な答えになるかは分からないが、私の考えを記しておく。

少なくとも私はだが、「常に世間に対して嘘をついて生きている感覚」があった。
この世間とは自分の周りの世界のことだ。家族、職場の同僚達、友人達、知り合い、、そのすべて。
現状のマジョリティである"異性愛者"に合わせるために、ストレートに見えるようにする…。
でもずっと嘘をつき続けるのは苦しいことだ。誰かしらいつか限界のタイミングが来る。

この世間に嘘をつくのを辞める時が"カミングアウト"するということだと思う。

異性愛者に向けて知らせたいわけではない。
マジョリティー達に反応してもらいたいわけでもない。
"私は私である"という誰にも止めることはできない主張をしているだけなのだ。










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