国家戦略の重要性
国家戦略ができた時期はいつなのか?
国家戦略というのは外交・安全保障・経済など様々な分野に大きな影響を与え、戦略に基づいて各中央省庁が具体的な政策を実効していく。
アメリカでは大統領選挙に伴い4年に一度国家戦略の改定が行われ、2017年12月トランプ共和党政権が国家戦略を改定によって、対中政策の見直しが急激に進んでいった。
まさに国家戦略というのは「自国がどう生き抜いていくか」というのを示す道であると言っても過言ではない。
それにもかかわらず戦後日本では国家戦略という概念は存在せず、それが打ち出されたのは2013年第2次安倍政権が「国家安全保障戦略」を発表した時だった。
この「国家戦略ができたのは僅か10年前の出来事であった」という事実を把握できている人はあまり見ない。
国家戦略がない以前の日本
日本は1945年8月の終戦により、日本陸海軍は解体されることとなった。GHQの指導の下解体は速やかに実施され、公職追放によって非武装化が徹底的にされることとなる。
しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発、日本駐留軍の戦力を半島に派遣する事態となり、警察予備隊が設立され敗戦からわずか5年で事実上の再軍備となった。
こうした戦後直後の日本周辺の情勢が切迫した状態であり、東西冷戦時代においても東アジア周辺の安全保障環境は厳しい状況であった。
そうした厳しい安全保障環境の中での日本の立場は「アメリカの戦略に基づいて同調する」というものであった。
これはアメリカの戦略に基づき日本は歩調を合わせて安全保障政策を実行していくそれが国家戦略なき以前の日本であったというのが実情であったということだ。
そうした中で東西冷戦の終結後、アメリカは中東政策に積極的に参加していき、東アジアでの中国の軍事的拡張を許してしまう。
中国軍の軍的的脅威が高まる中日本では第二次安倍政権が発足し、国家安全保障戦略が閣議決定され、戦後日本で「国家戦略」という概念が登場し、「アメリカの戦略に基づいて同調する」から「日本独自の戦略に基づきアメリカを説得する」という立場に変ったのだ。
自由で開かれたインド・太平洋構想(FOIP)はまさに日本独自の戦略に基づいた動きといえよう。
安保3文書を実現するために
岸田首相は昨年12月、国家安全保障戦略など「安保3文書」と43兆円の防衛関係費を閣議決定した。こうした戦略文書の改定によって、岸田政権はG7広島サミットや防衛費増額など安全保障政策の大転換を行っている。これも国家戦略基づいた流されであり、2013年の国家障戦略の誕生から少しづつ安全保障政策は改善されている。また、同時にこの内容を現実化するためには莫大な時間・人員・予算が必要となり、課題や問題は山積している。その問題を丁寧かつ迅速にしていくことが、国益に必ずつながることを忘れてはならない。
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