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もし”ザ・ボス”が男だったなら、メタルギア・ソリッド3は、ふつうのゲームだったかも知れない

ゲームはプレイするのもいいけど、観るのも楽しい。「まるで映画のようだ」と評判のゲームは、特にそう。

だいぶ昔のゲームですが、最近はこのゲームを観て、猛烈にハマってしまいました。

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メタルギア・ソリッド3 スネークイーター

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画像:Let's PLAY GAME!


大変よかった。ポロッと泣いてしまった。心揺さぶられた。


😀え、今さら?笑 プレイしたわけじゃないんだよね?

そう、YouTubeで観ただけ。


😀で、何がよかったの?

えーっと、主人公との師弟愛が良かった!(月並み)

😀ww

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2020年5月、わたしは初めてMGS作品、メタルギア・ソリッドV ファントムペインをプレイ。先月、無事クリアしました。

(余談ですが、TPPの衝撃的なラストに消化不良をおこしました。noteで他のひとの感想を調べていて、「恨みにも近い複雑な感情」と表現されている方をみつけたとき、スキを30回くらい押したくなりました)

これをきっかけに過去のMGS作品を観に行くことに。YouTubeの「観るメタルギア」を1から順番に見ていったところ、

メタルギアソリッド3のラストに、心奪われてしまいました。

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調べてみたところ、メタルギア・ソリッド3(以下MGS3)の発売は2004年。16年も前の作品なのか…!「時代が変われば価値観は変わる」とはよく言ったもので、当時は北朝鮮の件も核兵器の脅威は身近にありましたが、今や昔の話。しかし2020年にわたしが初めてMGSという物語に触れたとき、時代を超えた何かがわたしの心を動かしました。


真面目な話、わたしの心を動かしたものは、一体何だったのか?


とりあえず、メモ帳を開いて自分の心に残ったポイントに書き出してみることにしました。心に残った名言、前作との違い、もしこのキャラがいなかったら?など、とにかく思いつくままに。その中で1つ、ある疑問がわたしの頭に浮かびました。それは…

「ザ・ボスは女性である必要があったのか」

ザ・ボスがもし男だったなら。物語はけっこう変わる。というか、ぜんぜん違うものになる気がする。

この疑問への答えを、自分なりに探してみることにしました。

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👉ここから話すのは、MGS3の感動の根っこを探しに行く話。文字数はだいたい5,000文字くらい。「ザ・ボスが男だったら、この物語はどう変わっていたのか?」という問いに、なるべく真摯に、なるべく事実にもとづき、なるべく論理的に向き合ったnoteです。(でもやはり振り返ると妄想度たかめ)

結論として、ザ・ボスが女性であったからこそ「スネークイーター」という副題が成立していることがわかりました。また女性であったからこそ、「自己犠牲」の象徴となりえたし、物語が深くなっています。

ここからが、その理由を解説していく本文です。どうぞよろしくおねがいします。


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ザ・ボスに子どもがいた、という設定

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まずは性別を変えることで、作品として大きく変更を迫られる点を考えてみます。いろいろ変わることは間違いありませんが、一番はコレでしょう。

考察するため、YouTubeを見返して、もう少し周辺事実を整理してみることにしました。

・1944年、戦場で子どもを産み、賢者たちに取り上げられる。
・1951年、ネヴァダで被爆する。
・1960年、宇宙に飛ばされる。被爆者であることを理由に。
・1961年、キューバで部隊が壊滅。国の支援を受けられず。
・1962年、最愛のザ・ソローを、やむなく殺害する。

こうやって並べてみると、

ザ・ボスの人生、かなりしんどいですね…。

子どもを取り上げられた。自身も被爆した。余命も少ない。子どもも残せない。宇宙に飛ばされて「世界は1つになるべきだ」と確信した、わずか2年後。最後に残った大切な愛する人を、自分の手で殺さなくてはいけなくなった。これ以上の無念はあるのか。なんて理不尽な人生なのか。アメリカへの怒りと憎しみで闇落ちしそうなレベルです。

回想シーンではザ・ソローが、「任務なんだろう?なら、撃たねばならない」「戦士の魂は常に君と共にある」「また会える」と、彼女に銃を撃たせます。当然、「いやだ」「殺したくない」と悲鳴をあげる。劇中でのザ・ボスは、感情をいっさい出しません。だからこそ、このシーン。国家や時代に大切なものを奪われる、引き裂かれるようなザ・ボスの悲鳴に、わたしたちは感情移入してしまう。


…話をもとに戻しましょう。ザ・ボスが女性であるからこそ、

・1944年、戦場で子どもを産み、賢者たちに取り上げられる。

戦場で子どもを産んだ、というエピソードが活きてきます。仮に男だったら、ザ・ボスの身体に胸まで残る、蛇の形をした傷がなくなってしまう。

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「見るがいい、私が母親となった証拠だ」
「体も、子どもも、国に捧げた」
「もう私の中には何も残っていない」

このシーンでわたしたちはようやく「ザ・ボスも”スネーク”だったのだ」と気づきます。

ココ、物語のNo1ポイントです(わたし調べ)。大変うまく、そして皮肉を感じます。つまり…

"蛇”は「捕食される」ことのシンボルである

ということです。

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ストーリーの序盤で、「スネークイーター作戦」の由来は、コブラ隊の討伐だと告げられます。ただこのときは、主人公の名前と同じだし、何か意味があるんだろうなぁくらいの、軽い印象しか受けません。

でも、ストーリーを堪能した今ふりかえると

蛇(スネーク)が蛇(ザ・ボス&コブラ隊)を捕食する
蛇とは、時代に捕食されるシンボルである

という、2つの意味が「スネークイーター」という副題に込められていたことがわかります。

そう考えると、主人公スネークは捕食する側であり、同時に捕食される側でもあったでもあったんですね。


なるほど…そういうことだったのか。
巧すぎるよ、小島監督!


まとめると、こういうことです。
・蛇を「捕食されるシンボル」として描きたかった
・「ザ・ボス=蛇」にするには、女性である必要があった


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でもわたしのなかでは、まだモヤモヤが解消されません。

ここまで自分で書いていてアレですが、

蛇型の傷なんて、仮に男だったとしても適当につけることは可能だとおもうんですよね。ザ・ソローと戦ったときにできた傷だとか、そういう話にすればいい。

よく考えると、どんなに壮絶な出産でも、さすがに傷が胸まで到達することはないよね?みたいな細かいツッコミはいくらでも入れられるし。


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そのためここからは、蛇の傷からはなれ、別の角度で考えてみたいと思います。

MGS3のテーマは「時代」。時代に蹂躙された人物を描く必要があり、その役割をザ・ボスに担わせました。

以上を考えた時、こういう展開もあり得たかなと思うんです。

・怒りと憎しみで闇落ちした師匠を、スネークが倒しにいく物語

たとえばこういう話です

ソ連に核をうったのは、ヴォルギン大佐ではなく、ザ・ボス(男)本人という設定。親も恋人も部下も奪われ、子どもも余命も奪われた。怒りと復讐心を原動力に、「世界は1つであるべき」というビジョンを実現しようとする。そのための賢者の遺産をアメリカにもソ連にも渡すまいとする。そんなザ・ボス(男)を、かつての弟子スネークが討ちに行く。

なんとわかりやすい勧善懲悪の物語か。(そして、なんとなくスターウォーズやGガンダムに似たものを感じます)


こういう別のシナリオもあり得たことを考えると、

「ヴォルギン」という人物の効果って、思った以上に大きい

んだなと思うんです。

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「ヴォルギン」は、MGS3の登場人物の中でも、わかりやすいくらい悪いヤツ。ガタい、好色、電気。純粋な肉体能力だけだと、MGSシリーズ随一なのでは?

でも、キャラクターの深堀りが少ない。悪くいうと薄い。たとえばリキッドと比べてみると、リキッドの企ての背景には、悪いヤツなりのビジョン・論理・正当性があります。でもヴォルギンには、それがない。単に「狂ったやつ」。彼が序盤に核をうつ理由も最後まで明らかにされず、「そういえば、なんでお前、あの時ボタンおしちゃったの?」と疑問は拭えません。

確かなのは、ヴォルギン大佐がいなければ核は放たれておらず、この物語はスタートしなかったということ。さらに、良いやつばかりのMGS3の登場人物のなかで、わかりやすい悪役を演じ、物語に厚みをもたらしたことです。


そしてもう1つ、わたしが評価しているのは、
ヴォルギンがいてくれたから、ザ・ボスの怒りや憎しみを描かずにすんでいる、ということです

もしヴォルギンがおらず、ザ・ボスしかいなかったら…
「スネーク、てめぇは甘いんだよ」「なぜ甘いか教えてやろうか」みたいなシーンがくりかえされたはず。そんな世界線のザ・ボスは、厳しく、狂気に満ちていて、破壊的な印象だったかもしれません。

実際にはヴォルギンが狂人の役回りを引き受け、主人公に立ちはだかるからこそ、「いかにヴォルギンを出し抜き、彼を倒すか」に物語を集中させることができます。

つまり、ザ・ボスを闇落ちさせない役割を、ヴォルギンは果たしている。

同時に、ザ・ボスが自身の言葉で語るシーンをなるべく減らしていることも、見逃せない点です。

身の上を語れば語るほど、国家や時代への負の感情を増幅させてしまうポジションですから、ザ・ボスに多くを語らせなかったというのは、1つの発明なのだと思います。

まとめると…

ヴォルギンが「暴力・粗野・狂気」なキャラだからこそ、ザ・ボスを「強さ・愛・自己犠牲」の象徴としてえがくことができた。女性という性別を与えたほうが、象徴としても収まりがいいし、物語全体のバランスもよくなった、ということなのではないでしょうか?


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最後に語るのは、本作品のクライマックスについて

ラストに感動したのは、いうまでもない。

ザ・ボスの墓に花を献げ、敬礼する。そのとき、スネークの頬には一筋の涙が流れる。

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企画当初から、この絵で泣かせに行くつもりだったのでしょう。うん、見事にしてやられたよ、すばらしい!

エヴァの声優、渡辺美佐さんの演技力もすばらしかった。ザ・ボスの口から語られない想いを、エヴァが代弁するときの、震える声。この表現力に、わたしの涙をもっていかれた。

MGSはビッグ・ボスの物語。なぜビッグ・ボスが生まれたのか、どんな想いがあったのか、これ以上ない完成度で締めくくり、次の作品にバトンを渡せたとおもいます。

最後に、大変ヤボではあるが、役者の演技・物語の流れ以外の、演出部分でわたしが評価しているトコロを、語らせてください。

それは、
余韻を残さずエンディングに突入させたこと」です。

ふつうの映画では、クライマックスを迎えたあと、3~5分くらい余韻を引きずるシーンがあります。なんでもいい、みなさんが過去に「泣けた映画」を思い出してください。涙を流したシーンからエンディングまでは、数分の距離があるはずです。

でもMGS3は、そのセオリーを通りにやらなかった。感動の絵を一番最後にもってきて、そのままエンディングに突入した。

エンディング直前のシーンは記憶に残りやすい。気持ちの高まりと、エンディングとの間の距離を、ほぼゼロにして、良い読後感をもたらせたことも、この作品の素晴らしいポイントだったと思います。

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最後に

一切プレイしたことないゲームの感想を書く、というのは、憚られる気持ちがありました。ゲームとはプレイしてなんぼ。プレイして初めて、作品への思い入れがつくられます。本来はストーリーと分離するべきではないのかなとは思ってはいますが、

一方、ゲームには映画以上にしっかり作られている作品が多いのも事実。最近だと、ジャッジアイズや、デトロイトビカムヒューマンは、プレイしなくても作品単体としてもよくできており、大変おもしろい。

こう考えた時、純粋に「観たゲーム」の感想を書くというのも、アリなのかなと思うわけです。

わたしは今PCやSwitchでゲームをプレイしていますが、それでもYouTubeでゲームを観ることは多いですし、観るほうが楽しい、というのはよくあります。

そのなかで、1つ感動したゲームに出会えたのは良かったなーと思っています。

(正直、感想を書けば書くほど、「これ、他のnoteと比べてしょうもないなー」とか思う気持ちもありましたが、思い切って出してみました。)

お読みいただき、ありがとうございました。


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