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小説・幻想|花

 先生、お久しぶりです。最後に先生にお会いしてから長い月日が経ちましたね。お変わりなくお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。私はあれから随分と年をとりました。
 突然、手紙が届き驚かせてしまったかもしれません。実はどうしても先生にお尋ねしたい事があり、慣れない手紙を書くことにしたのです。昔、先生が大切に育てていた花の事です。
 その前に、少しだけ私の身の上話をさせてください。楽しい内容ではないので申し訳ないのですが、あの花に関わる重要な話なのです。
 先生もご存知の通り、私には四十年以上連れ添った夫がおります。夫は――お恥ずかしい話ですが――私のことを「役立たず」と罵り、時々暴力を振るうことがあります。先週も口論になり、右の前頭部、ちょうどこめかみの辺りを拳で殴られました。夫は左利きです。とは言っても病院に行くほどではありませんから、騒ぎ立てるつもりはありません。
 肩叩きの憂き目にあい五十代で早期退職した夫はもう十年近く働いておりません。減っていくばかりの貯金を見ては暗い気持ちになるようで、不安を私にぶつけているのでしょう。僅かな年金も二人で暮らすには充分とは言えません。将来的には年金すら減っていくという話を耳にすると、私も心細さで息苦しくなるほどです。怖いもの知らずの若い時分には、貧しさがむしろ誇りのように感じていた時もあったというのに、老いるとこうも惨めで不安な気持ちになるものかと愕然としております。
 どこから来てどこへ行くのか分からぬ長い長い吊り梯子があったとして、上っているのと下っているのでは、きっと下っている時の方が恐ろしく感じるものなのでしょうね。
 その晩も、私達は言い争いをしておりました。きっかけはお伝えする程でもない取るに足らない事でしたが、激昂した夫は私を平手で打ちました。今度は頬です。打たれた瞬間、痛みよりも熱さを感じました。掌の中心がちょうど頬骨に当り、指輪のついた薬指が耳を叩きました。穴を塞がれたように外の音が聴こえなくなりました。聴覚を失ってしまったのではないかと、不安でまた胸が苦しくなりました。
 夫のいるリビングを飛び出し、しばらくの間、暗い廊下に佇んでおりました。しばらく時間が経つと、耳殻にすぽっと嵌められていた円い蓋が、くる、くると外れていくように、少しずつ音が戻り始めました。
 その時になって、始めて気づいたのです。
 びーん、ぶぶぅーん、とーん――
 家の外に続く扉の向こうから、奇妙な音がします。打たれた右の耳にだけ聴こえているようでした。
 とぅーん、りゃーん、びーん――
 それは楽器の音に似ていました。低い音が一つだけすぅっと鳴り、かと思うと今度は高い音が重なり、さらに低い音が重なり、不規則にじゃらんと鳴ります。竹風鈴の柔らかな音にも似ていましたが、もっとずっと綺羅びやかな響きがあるように思えました。
 ぶぶぅーん、とぅーん――
 音の正体が気になり、モルタルの三和土に転がっていた汚れの目立つ白いサンダルに足を滑らせました。夫に気づかれないよう、そっとノブに付いたつまみを横に倒し、扉を押し開けました。

 秋でした。
 戸建てが軒を連ねる住宅街では、庭や空き地の叢に潜む雄虫達が、番を求め体を震わせています。りりー、りーと高い鈴虫の声。るるるる、るる、と転がる蟋蟀の声。そしていずれとも異なる、
 とぅーん、りゃーん、びーん――
 という音が、車道を挟んで建ち並ぶ向かいの家々の背後から聴こえてくるのです。その方向を見上げると不思議なことに、ぼぅと白い光が空の下半分を染めていました。
 ぶぶぅーん、とぅーん――
 細くて長い、何本もの小さな腕が束になり、向こう側からすぅっと手を伸ばし耳孔に入り込んでくる。そんな音でした。
 もう虫の声は聴こえていなかったように思います。ただ不思議な音色に吸い寄せられ、車道を渡り、明かりの灯る戸建てに沿って進み、曲がり、古い病院と大きなパチンコ店の間を抜けました。
 そこには、国道があるはずでした。
 最初に気づいたのは、頭が痛くなるほど重く、濃く、甘い芳香です。薔薇の香りを何倍も濃くし、さらに蜜と、木と土のつくる森の香りを足して押し縮めたような匂いです。
 次に光が飛び込んできました。細めた目、霞む視界に現れたのは、両足の乗る歩道の縁石から先、国道があるはずだった場所に広がった一面の花畑です。
 右にも、左にも、正面にも、ちょうど縁石と同じ高さに揃った花が、びっしりと生えています。道路の向こう側に並んでいたはずの家屋や商店、学校は見当たらず、見渡す限りの花でした。遠く遠く、目線の先には花と空の境界が青白く滲んでいます。
 花弁は白、真っ白です。花を支える萼片や茎、葉は、不思議なことに濃い青と紫の中間のような色でした。表面はまるでガラスのように艶々としており、私の側に並ぶ街灯の明かりを反射し、頭上の白い花をぼうと光らせ、その光が空と花の境界を曖昧にしているのです。
 まるで世界が二つに分けられているようでした。私のいる世界と、花の世界です。
 少し冷たい秋の風が吹き抜ける度、芳香が、光が立ち上ぼり、そしてあの不思議な音がします。
 とぅーん、ぶぶぅーん――
 風に揺すぶられた花の声でした。葉と葉が、花弁と花弁が、ぶつかり響き合う音だったのです。
 りゃーん、びーん――
 私は金縛りにあったように動けなくなっていました。目を大きく開き、眼前の光景に見入っていました。美しすぎて、恐ろしすぎて、何故か悲しくて。どうすれば良いのか分からなくなっていたのです。
 やがて立ち止まっていた私の足に、するすると近づいて来るものがありました。花です。花畑に咲くうちの一輪が茎を伸ばし、縁石を越え、重そうな白い頭を近づけてきます。
 あっと驚き息を呑んでいると、その花は身を捩らせながら茎をぐぅと伸ばし、茎から小さな芽を次々に出し、紡錘形の葉を茂らせ、大きく成長しながらわさわさと数を増やし、私の両足を覆い隠してしまいました。
 肌の上を滑る茎や葉は意外なほど柔らかく、サンダルの隙間から足に触れるとくすぐったいように感じました。思わず「やめてよ」と声を上げ、くすくすと笑い出しました。
 やがて花の動きが止まりました。
 驚いたことに花は私のサンダルにびっしりと絡みつき、青白い光を放つ靴になっていました。右の方にだけ、爪先に白い花がぽんと咲いています。
 私は美しい靴の光る足をそっと持ち上げてみました。驚くほどに軽く、右、左と交互に地面から離すと、まるで下から見えない力にぐっと持ち上げられているようです。試しに軽くぴょんっと跳ねますと、驚くほど高く飛ぶことができました。腰のあった位置まで両足が上がったように記憶しています。
 私は何だか嬉しくなって、走り出しました。その速さといったら!
 まるで陸上選手、いえ、原動機付自転車、いえいえ、ジェット機並みのスピードで私の身体は風となり、大きなパチンコ店と古い病院の間を抜け、曲がり、明かりの灯る戸建てに沿って進み、車道を渡り、あっという間に我が家の前に到着したのです。
 玄関の前には夫がおりました。突然、現れた私に一瞬、目を丸くしていましたが、すぐにいつもの不機嫌顔に戻り「どこ行ってたんだ」と恫喝めいた低い声を上げました。見下ろし、顔をぬぅと近づけてきます。
 私は花の咲く右足で、その股間を思いっきり蹴り上げました。
「うぐぅ」と呻いた夫が股間に両手を当て身を屈めました。道路に膝をつきました。
 夫を見下ろした私はなんとも痛快な気分になり、「ばいばい」と言い捨てまた走り出しました。
 車道を駆け、珈琲店を右に曲がり、ガソリンスタンドの脇を抜け、線路を見下ろしながら跨線橋を上がり、商店街の坂を上がり、国道を横切り、さらに坂を上がり。空を目指して駆け上がります。
 気がつくと、山の天辺におりました。周辺に人の気配は無く、厚く重なった樹々の隙間から街を見下ろせる場所でした。
 そこではじめて、服を着ていない事に気がつきました。全裸でした。走っているうちに脱げてしまったのか、それとも尖った枝葉に剥ぎ取られたのか。ただ足に、あの美しい靴だけがありました。
 かつて綺麗だと褒められた肉体も今は衰え、老いた醜い身体と靴があるだけです。風も冷たかった。けれども、ちっとも寒さは感じませんでした。
 眼下に広がる景色が、美しすぎたせいです。
 右半分は街の明かりです。白や橙、赤の光が無数に灯り蠢いています。
 左半分は花の明かりです。広く、白く、輝く花畑が、風に吹かれて揺れています。花の一つが私の右足でも輝いています。
 びーん、ぶぶぅーん、とーん、りゃーん、りゃーん、りゃーん――
 遠くからあの音が聴こえます。
 私は半分になった世界を、長い間、見続けました。

 気がつくと、朝でした。
 私は自宅の玄関で眠っていました。
 目を開いてからすぐに足元を確認すると、あの靴はありませんでした。代わりに、三和土の上に放り出された薄汚れたサンダルと干枯らびた花。それに黒く小さな種が一粒、落ちていました。
 種を手に取った私は、これを育ててみようと思いつきました。その時に、その花が先生の育てていた花と同じだという事に気づいたのです。

 先生、あの花の名は何だったでしょう。
 覚えてらっしゃいますか?


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