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小説|ライカの啼く夜(未完)

 冬枯れの梢を掠め落ちた月明の照らす顔面には青みがかった白目と黒い瞳が目立つ。その少女のような少年が言うには、ここを静箕(しずみ)と呼ぶらしい。なら目的の集落に違いないが、俺の立つ場所からは人家の明かりがまるで見えない。
「死にに来たの? おじさん」
「お兄さん」
「殺されたいのかな、おじさん(・・・・)」と、あどけない声に薄く大人の男を滲ませた声色で笑われた。顔に似合わず、感じの悪い子供(がき)である。
 細くうねる山中の道だ。ぐぅと根本の曲がった樹々の向こうから、水音が冴え冴えと聞こえてくる。足元を覗き込むと切り立った斜面のはるか下、月明かりの反射がきらきらと帯をなして流れていた。
 あと一歩でも踏み出していれば、川岸に転げ落ちていたかもしれない。そう思うと、尻の内側までひやりと冷えた。実際に、寒くもある。夜気を含んだ両肩を擦りながら、口から上った白い蒸気を見る。さすがに凍死することはあるまいが、凍死は比較的楽な死に方だと聞くから、熊に襲われて死ぬよりはましかもしれない。
 気配がないので消えたかと思い振り向くと、少年はまだ車の脇に立っていた。ボンネットに右手を置き、ヘッドライトやフロントグリル上部の山型エンブレムをしげしげと眺め、「変な顔」と呟く。
「車、どうしたの」
「泥濘にはまって動けない」
「今日はよく降ったから。どうしてこんな道に?」
「それが俺にも、さっぱり」
 ナビの教え通りに走っていたはずだった。なのに車はいつの間にか国道を逸れ県道を逸れ村道すら外れ、地図に表示されない場所に迷い込んだ。雑草の侵食した土の道で、ニホンジカ程度なら二匹横並びで歩ける。二鹿線走行の獣道だ。そこで車が動かなくなった。泥の上で前輪が空転した。焦った俺がアクセルを強く踏み込むと、三度吹き上がった後、沈黙した。エンストだ。
 先日、叔父から「車検を通したばかりでまだ動く、フランスから来た外車だぞ」と譲り受けたばかりのボロ車だった。ローンを組めない俺にとって、叔父の申し出はなかなか魅力的に思えた。加えて、車検を終えたばかりならまだしばらくは乗れそうだという甘い推量と、「外車」なる甘美な響きについ心動かされ、走行距離十五万キロ超えのポンコツを引き取ってしまった。勿体ない病を拗らせ節約依存症を発症した叔父のことだから、車検屋には袖の下でも渡したのかもしれない。
 ハンドルを握ったまま途方に暮れ、貧乏性な割りに粗忽な楽観主義者が揃う母方の血筋を呪う。呪ったところで自分に不幸が返るばかりだし、車が動くはずもない。
 到着予定時刻はとうに過ぎ、日もとっぷり暮れた中での遭難だった。バッテリーまで上がると事態はさらに深刻化する。ヘッドライトを消し、怖怖と車を降りて闇の中、どこかに窓の明かりでも見えないかと探していると、「まいごだ」とすぐ傍で子供の声がした。ひっ、と悲鳴を上げた。ショック性心停止で死ぬかと思った。
 声の主は今、俺の車のボンネットを指先で撫でている。その身体に、今更ながら肌の露出が多いのに気づく。上下揃いの暗い色の服で襟元はざっくりとV字に切り込みが入り、大きく開いた袖口から左腕が長く伸びている。関節の目につく華奢な腕だった。「随分と薄着だな、寒くないか」と震え声で尋ねるが答えはなく「どうするの、車」と平坦な声で問い返される。
「ロードサービスを呼ぼうにも電波がないんだ。人が住んでる場所は、ここから近い?」
 大きな目が探るように見上げる。ボンネットに置かれていた右手が上がり、クラーク博士よろしく背後を指したので、今度はそちらに目をやる。
 緩い上り坂を、樹々がトンネルのように囲んでいた。ブナだろうか。どの樹の幹も地上に近い根本の部分だけがぐにゃりと曲がり、そこから上は真っ直ぐ空へ伸びている。広がる枝は先に行くほど細くうねり、そのシルエットは魔女の森か、はたまた山姥の住まいか。いずれにせよ酷く不気味だ。
「もう少し坂を登った先、左側に樹を切って人用の階段が作ってある。そこを上れば着くよ」
 言われて目を凝らすが、道の途中からは黒いカーテンが引かれているように、先が見通せなかった。
「階段なんか見えないぞ」
「大丈夫、あるよ。転ばないように気をつけて。それに熊にも」
「やっぱり熊が出るのかっ!?」
 振り返ると、少年は消えていた。冷えた車しかない。
 月を頼りに、地面から突き出た石や泥濘みを避けながら、できる限り早足で山道を登った。かさりと葉擦れの音が聞こえる度、息を止めた口から心臓が飛び出るかと思った。
 決死の進行を続ける中、そういえばあの少年には足があっただろうか――と馬鹿げた疑問が脳裏を過ぎる。すぐに、そんなわけあるか、と振り払う。こんな山奥で出会うなら、幽霊なんかより生きてる熊の方がよほど怖い。

「こんな場所で、こんな時間に、そんなお姿でご取材ですか」
 U字ロックのかかった扉の隙間から、頭髪の乏しい中年男が眼鏡顔を覗かせている。あからさまに嫌そうな顔つきだがやむを得まい。俺が彼でも、きっと似たような顔をする。
 躓いて土に手をつくこと三回、膝を打ち付けること二回、ついに顔面から倒れ込むこと一回。暗がりの中、急斜面に丸太を埋めて作られた長い長い階段を上りきると、現れたのは驚くほど豪奢な家だった。コンクリート壁を橙色のスポットライトがいくつも照らしたモダンな外観に「手作りパンで人気の隠れ家レストランだろうか、こんな山奥に?」と首を傾げた。斜面と反対側に出ると、エントランスに「桐谷 Kiriya」と書かれた表札とインターフォンがあり、ようやく民家とわかった。
「途中で車がスタックしまして。さっきレッカーを呼んだんですが、到着までに二日ほどかかると。そんな訳で泊まれる場所を探してるんですが、民宿などは……」
「あるわけないでしょ、そんなの」
「ありませんか、やっぱり」
 鼻息とともに、渋面で頷かれる。
「困ったな。こんな寒い中、エンジンのかからない車で寝泊まりするわけにもいかないし。山道を引き返して熊にでも遭遇したら――」精一杯悲壮な表情を作り、立派な家構えと眼鏡顔を交互に見る。脂っぽい鼻の上に皺ができ、ますます顔が歪んだ。
「怪奇探訪舎(かいきたんぽうしゃ)って出版社? 聞いたことないなぁ」、手渡した名刺に目を落として言う。
「古風な社名ですが、ウェブ屋です」と、にこやかに俺。
「ただの山鳴りごときで、ご苦労なことで」、訝しげな表情で名刺をくるくると裏返したり、なぜか電気に透かして見ている。すると、
「お父さん、ロックをかけたままなんてお客様に失礼ですよ」
 声と共に陰が落ちて、扉の隙間からもう一つ顔が現れた。すぐにU字ロックが外され扉が大きく内側に開かれると、俺と同じ年頃の男が立っている。息子のようだ。
「だけど、こんな夜中だぞ」、口籠る父親を一瞥し「父の無礼をお許しください。お泊りの場所をお探しと聞こえたのですが」、にっこりと笑顔を浮かべる。黒いスラックスにグレーのシャツ、部屋着にしては随分と隙のない格好だ。翻って俺は膝小僧も手も、おそらく顔も泥まみれである。切ない。
「どこか、ありますかね」
「生憎我が家には今、お泊めできる部屋がないのですが――」
 俺はもう一度、ちらと桐谷の立派な住居に目をやった。嘘つけ、こんな広いくせに。
「あちらさんのお宅なら泊めてくれますよ。話をつけておきますから、どうぞそちらへ」と言うので「どちらさんです?」と訊き返す。すると今度は父親の方が鼻の皺を深め「苗字だよ。阿修羅の真ん中の字が知識の知で、阿知羅(あちら)」
「地図を描きましょう。少しお待ち下さい」

 桐谷家を追い出され、手描きの地図と借りた懐中電灯を手に阿知羅家を目指す。しかしこの道のりが、また遠い。
 足元しか照らさないLEDと点在する民家の灯り、空に浮かぶ猫の眼状の月だけが頼りだ。再び足を踏み出しながら寒さに震え、そもそもの原因である叔父のことを考える。さすがに溜息が出た。
 怪奇探訪舎とは、俺に車を押し付けた叔父の運営する会社である。怪しげな名前とは裏腹にウェブ広告を手掛けるIT企業だ。二十名程の従業員が働いており通常は「KTS」というそれっぽい略称を使っているが、俺に渡された名刺には正式名称が印刷されている。というのも俺が「怪奇探訪眞聞(かいきたんぽうしんぶん)」の記者として働いているからだ。
 この「怪奇探訪眞聞」は、叔父が会社を起ち上げる前から運営していたウェブサイトのことで「古今東西・貴賤上下、遍ク集メタ怪奇譚・面白記事ガ満載」とは、サイトのトップに書かれた紹介文だ。巷間に噂される都市伝説や怪談の類を集めた暇つぶし用テキストメディアである。元々は趣味で始めたそうだが意外なことにコアなファンを獲得し、数年経つと広告媒体として運用できるまでに成長したそうだ。この「怪奇探訪眞聞」ありきで設立されたのが「怪奇探訪舎」なのだが、叔父はその後、ウェブ広告の企画立案や運用代行にまで手を広げ、そちらの方が売上を伸ばした。意外にも商才に長けていた叔父の手腕により会社が広告代理店として業務を拡大する一方、「怪奇探訪眞聞」は小さな収入源として地味な存在となり、妙な社名だけが悪目立ちする羽目となった。
 思い返せば子供時代、幽霊や妖怪、怪奇現象なんかを嘘っぱちと決めつけ、まるで興味を持たなかった現実主義者の俺に、叔父はよく「情操教育の一環だ」などと言い怪談を聞かせた。叔父が喜々として語る物語はどれも妙に生々しく、嫉妬深い女妖怪や人食い鼠など、少年だった俺を震え上がらせた。おかげですっかり、その手の話が嫌になり、殊更「全部嘘だ」と目を背けるようになった。
 死んだ両親の遺した持ち家で、大学を卒業してからも定職に就かずごろごろしながら数年経った頃「そういえばお前、本が好きだったな。国語の成績も良かったろ。ライターのバイトやってみないか」と声をかけてきたのが叔父だ。国語の成績が良く見えたのは他教科が揮わず相対的に評価が上がっていただけで、好きだったのは本は本でも漫画だが、その頃、他に収入の当てのなかった俺は、仕事内容もろくに聞かず叔父の話に食いついた。この一年間で他のバイトと掛け持ちしながら、十本ほど記事を書いた。取材したところで本当の怪異など目にしたことはないから、ほぼでっち上げだ。それでも定期的に依頼があるので、それなりにアクセスを稼げているのか、それとも哀れな甥に仕方なく仕事を回しているのか。よくは分からないがともかく続いている。
 ギャラはそこそこだったが、取材と称して経費で方方に出向き、地方の温泉に入れるのが良い。爺むさいことに、俺は大の温泉好きなのだ。家ではろくすっぽ風呂に入らず一週間近くいても平気なくせに、温泉と見かけると入らずにはいられない。自分でも不思議なほどだ。きっと前世はカピバラか温泉卵だろう。
 静箕と呼ばれるこの集落には「異様な山鳴りのする夜がある」とサイトへのタレコミがあり、取材に来た。匿名で送られてきたそのメールによると「数ヶ月に一度、山間を流れる川の付近から轟音が響き山全体を震わす」そうだ。こうした大袈裟なタレコミは過去に何度もあった。ところが実際に取材してみると「神社に巣喰う巨大大蛇」が「屋根の棟に引っ掛かった荒縄」だったり、「夜な夜な現れる小刀を手にした傴僂男」が「糞取り用シャベルを持つ腰の曲がった犬連れお婆さん」だったり。現実とは得てして詰まらないものである。なので俺としては件の山鳴りについても「またまた、そんな」と鼻白んでいたわけだが、叔父は「大怪異に違いない」と狂喜し、俺を取材に向かわせた。
 叔父の依頼でやって来た山道で、交通費を節約させるために叔父が押し付けてきたボロ車が故障したのである。俺は当然、静箕に着いてスマホの電波が届くと「経費でロードサービスを呼ぶが構わないか」と叔父に尋ねた。軽く見積もっても十数万円ほどかかるらしいと伝えると、「近所に住む知り合いに牽引させるから二日ほど待ってろ」と言う。まだ少しでも出費を抑えようとしている。重篤な病に罹患しているせいだ。世間ではそれを、けちと呼ぶ。

 阿知羅の家は桐谷の家とは打って変わり、夜目にも酷く粗末な建物だった。
 古びた木枠の引き戸をガラガラと音を立て開き、裸電球の明かりを背に出てきたのは女だ。縮れた白髪を緩く後ろで一纏めにしている。顔立ちこそはっきりしているが化粧っ気はなく、落ち窪んだ目や頬に窶れた印象を受けた。桐谷の父親よりも年寄りに見えるが、着ている赤いセーターが妙に若々しく、実際のところはわからない。
「子供がおりますので、母屋にはお泊めできないんです」
 桐谷が話をつけておいてくれたようで、女はそう断りを入れてから、敷地内に置かれたプレハブ小屋へと案内した。
 中は俺の家のリビングより広かった。奥の壁沿いに銀色の流し台があり、その横には小山のような影が二つ。他には何もなく、寒々しいがらんどうだ。「電気は」、と右に左に頭を動かしスイッチを探す。
「生憎と、切れております」
 見上げると天井からぶら下がるペンダントライトには、肝心の電球がなかった。
 窓から差し込む月光を頼りに目を凝らすと、床には畳が置かれ、さらにその上に黒っぽい絨毯が敷いてある。中央には大きな円い染みのようなものも見える。とっさに「殺人現場」という四文字が連想された。打ち消すつもりで頭を振ると、追い打ちをかけるように、脂じみた臭気が鼻をつく。匂いを確かめるため何度か吸い込むと、埃っぽさに、くしゃみが三度出た。
「……こちらが、俺の寝床ですか」
「はい、布団はそこにあります。どうぞご自由に」、陰気に言い捨て女は出て行き、一人残された。少なくともここで二晩は過ごさなくてはいけないと思うと、泣けてくる。車さえ動けば山鳴りなんて放り出して、今すぐ帰りたかった。
 三和土と思われる場所にスニーカーを脱ぎ捨て畳に上がると、足裏にじわりと湿り気を感じた。踏み出すたびに、みしりとイ草の潰れる音がする。布団があると示された奥に進むほど、どんどん臭気は強く濃くなっていく。何ヶ月も洗っていない頭皮のような、掃除の行き届いてない公衆便所のような。ともかく不快な匂いに俺は顔を歪めた。
 しゅぅ、と音がした。
 壁の隙間を風が抜ける音だろうか。いや違う、音は目の前、壁を背に置かれた四角い物体から発せられていた――しゅぅ。擦り切れた汚らしい毛布を被せたその箱から、湿った音が断続的に漏れてくる。それ自体が息を吐き出しているような音で、室内に充満する匂いも、そこから広がっているように思えた――しゅぅ。
 ごくりと唾を飲み込む。ゆっくり手を伸ばし毛布の端を掴む。ボロ布をめくり上げると、中には――
「ライカだよ」
「うわああああっ」
 阿呆みたいな悲鳴が出た。
「ショック死させる気かっ!?」
「うるさいなぁ、夜中なんだから静かにしなよ」
「お前こそ、こんな夜中にどうしてこんな場所にいるっ!?」
「だってここ、僕の家だもん」
「え」
「あんたが来たのが見えたから、様子見に来た」
 誰もいないと思い込んでいた室内で、声をかけてきたのは先ほどの少年だった。尋ねると、阿知羅 嗣(あちら みつぐ)と名乗った。
「それ、ライカ。僕が名前つけた」
 嗣の視線の先をたどる。俺が引っ張ったおかげで毛布が剥ぎ取られたそれは、小さな檻だった。中には黒く艶めいた毛の塊があり、しゅぅと音を立てている。
「な、なんだこれは」
「犬だよ」
「いぬぅ?」
「ミニチュアシュナウザーっていうんだって」
 鼻を摘んで中を覗き込む。カールした黒い毛が伸び、埋もれた眼がどこにあるかもよくわからないが、たしかに犬のようだ。白いシートの上でうつ伏せになり、しゅぅと息を吐いている。胴の横にはごろりとした糞が三つ、シートに尿の染み痕もあった。
「お前んとこの飼い犬? 汚いなぁ」
「ライカはもうすぐ死ぬんだよ」
 嗣は俺の隣にしゃがみ込み、犬の前に手を差し出した。犬――ライカがゆっくり頭部を上げ、フェンスの隙間から差し込まれた指先をぺろりと舐める。嗣が鼻の上をくすぐるように撫でると、舌をだらりと伸ばし、しゅぅ、と息を吐いた。目脂がびっしりと付着した瞼は開かず、鼻の穴も膿んだ鼻汁で塞がりかけている。しゅう、という苦しそうな呼吸音が繰り返される。
「年寄りか」
「こう見えてまだ十歳。いろいろと無理したせいで、身体が駄目になっちゃった」
「ふぅん」と頷きもう一度匂いを嗅いでみる。生乾きの雑巾の匂いを集めて圧縮したような猛臭である。
「酷いなこりゃ……タオルない?」
「何に使うの」
「拭いてやる。この匂いの中で寝られる自信がない。少しでもましになってもらわないと」
 ケージの錠を外し、手を伸ばしてライカの身体をゆっくりと抱ち上げる。抵抗する力も残ってないのか、ライカはだらりと手脚を伸ばしたままだ。見た目よりもずっと軽く、手で支える肋骨が柔らかに沈む。昔、飼っていた犬が死ぬ前もこんな感じだった、と思い出す。それはもう随分と長い間、沈めたままで取り出すことのなかった記憶だ。
 流し場の蛇口からは、水が出た。
「冷たくて悪いな」
 嗣から手渡された布を水で濡らし、畳の上に寝かせたライカの目と鼻、それに身体全体を拭いていく。
「どっから持ってきたんだ、この手拭い」
「手拭いじゃないよ、あんたの枕カバー」
 言われて見ると、四角い袋状の布切れは白い枕カバーだった。部屋の隅に積まれている布団の山から引っ張り出してきたらしい。……まぁいい、枕カバーくらいなくても眠れる。
「カメラが好きなのか」尋ねると、隣にしゃがみ込み、じっとライカを見ていた嗣が「え」と声を上げた。
「犬の名前、カメラからとったんじゃないのか」
「違うよ、ライカ犬からとったの」
「スプートニクの?」
「うん」
「そんな昔の話、よく知ってるな」
「友達が教えてくれた。僕とよく似た犬だよって」
「どこが」尋ねると、嗣は黙ったまま首を傾げて見せた。
 一九五七年、旧ソビエト連邦が打ち上げた人工衛星「スプートニク2号」に搭乗し、人類が始めて宇宙空間に送り込んだ「生物」として知られた、あのライカ犬のことだ。元はモスクワの野良犬だったライカが、人類の宇宙開発競争に巻き込まれ、片道切符で宇宙へと放り出され死んだ。世界で最も有名で悲惨な犬の話だ。ちなみにライカというロシア語には「吠える」という意味があるそう。
「打ち上げの時、ライカの心拍数を地上でモニタしてたんだって。すごくドキドキしてたらしいよ。ロケットの発射ってものすごい爆音だろ、揺れるし。パニックになって怖かったんだよね、きっと」
 嗣がライカを見ながら独り言のように続ける。
「写真も見せてもらったよ。打ち上げ前から、何日も狭いロケットに閉じ込められてた時の写真。手前にいたのは科学者で、ライカは上目遣いでそいつらの顔色を伺ってた。どうして、って顔して。その後は一人ぼっちで宇宙に行って蒸し焼きになったんだって。死んだ時、ライカはどんな顔してたかな。宇宙で少しご飯を食べたって記事もあったけど、本当かな。せめて食べられたのなら良いと思うけど、どんな顔して食べたんだろ。あの写真で見たような顔だったんじゃないかな。ねぇ、ライカはどんな気持ちでご飯食べたと思う?」
「……わからない、俺は犬じゃないから」
 嗣の問いかけにまともに答えることができず、俺も横たわるライカに視線を落とす。固まった鼻汁を剥がしてやったせいか少し呼吸が楽になったようで、すぅすぅと寝息を立てていた。
「人類のためにライカは殺されたんだって。それって、本当に仕方のないことだったのかな」
「仕方なくはないだろ。でも世の中には、そんなことが山程ある」
「そうだよね。うん、それもわかってる。だって本物のライカは、まだましな方だもん。皆が覚えていてくれるんだから」
 しばらくの間、嗣の視線を背中に感じながら、俺はライカの身体を黙って拭き続けた。
「……そういえばお前、この辺りで山鳴りを聞いたことがあるか」
 話題を変えようと訊いてみたが、いつまで経っても返事がない。振り返ると、またしても嗣の姿は消えていた。ぎょっとして、思わず手にしていた枕カバーを落とす。白い布がライカの胴体にはらりと落ちた。ライカはいる、嗣は消えた。
 その夜、なかなか暖まらない布団の中で縮こまり、カバーの無い枕に顔を押し付け、眠気がくるのを長い間、待った。この近くにあるかもしれない幻の露天温泉のことを夢想するも、虚しさと寒さが増すばかりだったので止めた。
 煙のように消えた嗣の正体が気になった。しかしそれにも増して、外から聞こえる、ぐぶっぐぶっという小さな音が気がかりだ。獣の唸り声のようにも思えるが、室内で寝ているライカのものではない。よもや獲物を狙う熊か、それともライカ犬の亡霊か……。怯えるのも考えるのも嫌になり、目を閉じようやく眠りに落ちたのは、窓の白む明け方のことだった。

 朝、というかもう昼近く。いつの間にかケージを脱走したライカに、生臭い舌で鼻の頭をベロベロ舐められる夢に魘され目覚めると、ライカが本当に俺の顔を舐めていた。昨夜より少し元気なようで、はっはっと息を吐きながら顔中を舐め回してくる。「わかったわかった」と戯れつくライカを押しのけ立ち上がる。洗い場で顔を洗い、ぐぅと腹を鳴らしながら外に出ると、すぐ傍に犬小屋を見つけた。
 犬小屋と言っても、俺の目下の寝所とそっくり同じ外観の、こちらもプレハブ小屋である。横壁にある窓から中を覗き込むと、暗い室内の床に合計二十の犬用ケージが置かれていた。ライカのものと同じだ。ゲージの中は全て空かと思ったが、よく見ると仔犬が何匹かいるようで、もそもそと動いている。その全てに、口輪が嵌められていた。昨夜の唸声はこいつらのものか――
「ライカの家族だよ」
「ぎゃあっ」
 すぐ横で、陽の光を受けた嗣が俺と同じ様に室内を覗き込んでいた。濃紺の綾織作務衣を着ている。短い裾から伸びた足がちゃんと地面で爪先立ちしているのを確認し、俺は少しほっとした。
「どうしていつも、突然声をかけてくるんだっ」
「あんたが驚くのが面白くて」、くすりと笑う。完全にコケにされている。
「俺はもう驚かん。日の下で、正体見たり、ただのガキだ」
「幽霊が昼間に出ないって、誰が決めたの」
「え」と思わず声を上げると、嗣はまた愉快そうに笑った。
「あいつらは、ライカの子供とその子供。うちで仔犬を増やして売ってるんだ」
「養殖場?」
「そう、昔はもっといっぱいいたんだけどね。数が減ってきちゃったから、今度は別の犬を増やして売るって言ってた」
 ブリーディングというやつか。しかし犬を育てるのに適した場所には見えない。日はほとんど差さず、所狭しと並べられた小さなケージの中以外、犬の動けるスペースがない。小さなマズルに嵌められた口輪も痛々しかった。
 ふっと横を向き「可哀想だよね」、歩き出した嗣の後に続く。
 阿知羅家の敷地の前から伸びる、アスファルトの道に出た。阿知羅の家はこの集落で一番高い、行き止まりの場所にあった。母屋の背後にはコンテナを置いた開けた土地があり、その向こうは山だ。昨夜、歩いてきたアスファルトの道に立つと、静箕の町並みがよく見下ろせた。ゆるくカーブを描く道路を中心に、山間に狭い土地が左右に広がっている。道沿いには、雑草の伸び切った荒れた平地を挟み、戸建てがいくつも並んでいる。三十軒ほどもあるだろうか。桐谷の家ほどではないが、いずれも白やグレーで箱のような外観の、近代的な家ばかりだ。こうした集落には、阿知羅の家のような鄙びた建物の方が多いのではと思ってばかりいたので、意外な感じもした。
「ねぇ、いつまでここにいるの」
 隣を並んで歩く嗣が、前を向いたまま尋ねてきた。
「明日には帰る」と、願いも込めて答えておく。
「へぇ。なら今晩が最後のチャンスだね」
「何の」
「山鳴りの取材」
 足を止める。嗣も立ち止まった。
「俺、山鳴りを取材に来たって、お前に話したか」
 嗣は答えず、じっと俺を見上げた。その小さく白い顔は、頬こそふっくらしており幼さを残すが、黒々と大きな目は力強い。黙っているとやはり少女のようだ。珊瑚色の唇が緩く開かれ、俺は嗣の言葉を待つ。ところがその顔が突然、さっと横を向き、
「あ、ゆきと君」
 つられて見ると、道の先に人影がある。
「誰?」
「友達」
 手庇してその人物を見ると、こちらに向かってひょいと右手を上げた。それが昨夜会った桐谷の息子だとわかった頃、嗣の姿はまた消えていた。

「嗣に会ったのですね。少しばかりお喋りの過ぎる子ですが、放っておいても害はありませんよ」
 嗣のことを尋ねると、桐谷行人(きりや ゆきと)はそう答えた。嗣が自分にだけ見える存在ではないことを確認し、俺は「ほらみろ、幽霊なんかじゃない」とほっとしたわけだが、行人の突き放した物言いには引っかかった。
「嗣は貴方のことを友達だと言ってましたよ」
「僕を? 嗣が友達だと?」
 行人の右手が上がり口元が隠される。薄い銀縁眼鏡の下の両目が細まり「それはそれは」と、笑った。

<補足>
とある同人誌に寄稿しようと思って書いたのですが、参加を止めたことで宙ぶらりんになってしまいました。せっかく同人誌で自由に書けるということで、津原先生の「幽明志怪シリーズ」のオマージュでいこう、と張り切っていたのですが。そのうち続きを書くかもしれないけど、今のところは未完。次に進むためにひとまずアップ。

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