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小説|視える

 瀧(たき)が、わたしの目の前で心臓と呼吸を止めてしまった後のことだ。のこのこやって来た医者が、瀧の右目を太い指で押し開けた。瞳をペンライトで照らし、芝居がかった口調で「お亡くなりです」と告げた。真夜中に近い病院の個室は蛍光灯が光っているのに薄暗く、瀧の眼を刺す光線がわたしの眼にも染みるほどだった。
 死亡を伝えた後も、医者は三十秒くらい瀧の瞳を探っていたから息を詰めてその様子を見守った。本当はまだ、死んでないのかもしれない。
 小さな祈りはペンライトの光と共に消えた。瀧の瞳孔は開ききったままだった。わたしはわたしの運命の終わりを覚り、大きく息を吸いこんだ。肺が膨らんだ。そのまま止まった。
 視えた。
 大仰な仕草でペンライトを胸ポケットに仕舞う医者の気取った横顔の後ろに。白い間仕切りカーテンの前、ぼうと立つ瀧の姿を。おかげで涙も叫びも吐き出されることなく、わたしの中に留まった。

「幽霊って本当にいるのね」
 あの日から幾度となく呟いた言葉をまた口にする。わたしは火葬場の一角につくられた喫茶スペースにいた。一人だけ私服の瀧を視ながら、コーヒーを飲んでいる。
 真っ白なテッポウユリに埋もれた瀧の身体は、二時間前に火葬炉へと消えた。肉体と一緒に燃えだすんじゃないかと心配したが、わたしの目の前には今も瀧がいる。薄手のニットにジーンズ姿は生前と変わりない。
 幽霊になってしまった瀧とは喋ることができなかった。呼びかけに応えることもないから、音は聴こえていないのかもしれない。ただ生きている時と同じ優しい笑顔で、わたしを視てくれている。
 配偶者が死ぬとすぐに、残った方は多くの煩雑な手続きに追われる。死亡届と火葬許可証を役所に提出し、心ある葬儀社を見つけ葬式を手配する。妻として挨拶の言葉を考える必要もある。そうした作業にまるで慣れていないわたしに、父母や親切な人たちは「手伝うよ」と言ってくれた。けど瀧のことなら、すべて自分の手でやってあげたかったから、できる限り一人で処理した。涙ひとつ見せず、出力したチェックリストを淡々と埋め続けていくわたしを、皆がひどく心配した。悲しみを抱え込み、不感症になったように見えたみたいだ。心配はいらない。わたしの傍にはずっと瀧がいて、見守ってくれているのだから。
「ちゃんと休めてますか」
 やって来た町澤さんが瀧の横に並び立った。あと少しで瀧の骨が出てくる時刻だった。
「えぇまぁ」、頷くと町澤さんは頬骨の下に影をつくり笑った。瀧の学生時代からの親友だ。黒いスーツに黒いネクタイをして、いつも以上に顎のラインが尖って見えた。
「座っても?」、訊かれたので頷く。
 向かいの席に座った町澤さんの後ろには、瀧が立っていた。その背後に広がる窓からは、青々とした芝と赤い花をつけたヤブツバキの低木が見える。火葬場は天井も床も壁も白く艶めいているくせに、陽の注ぐ庭と比べると薄暗い。町澤さんの顔の影も濃かった。
「ごめんなさい」
 膝の高さにある白いテーブルの上で、両手を組んだ町澤さんが頭を下げた。わたしは、彼になにか謝られるようなことをされたのだろうか、と目を見開く。
「瀧が、貴女を残して、先に逝ってしまって」
 声が震えはじめ肩が大きく揺れる。唇から溢れる息と、テーブルの上の小さな水溜りが増えていく。男の人がこんな風に泣くのを見たのは初めてで、驚いた。黒く豊かな髪の分け目が一直線で綺麗だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 町澤さんは嗚咽しながら何度も繰り返した。気の毒だった。
 わたしは今も瀧が傍にいることを教えてあげたくなり、顔を上げた。けれど町澤さんの背後に立つ瀧は動かなかった。口角を緩やかに上げ微笑みを浮かべたまま、ぴくりとも、動かない。

 瀧が死んでから半年の間に、わたしの生活はすっかり変わった。一番大きな変化は働き始めたことだ。
 働き口は、義父が取引先の会社を紹介してくれた。受付の仕事だ。ロビーで微笑む制服の女性達を想像し、あれならわたしにもできそうだ、と思った。これまで労働に馴染みのなかったわたしを心配して、父と母は「家に帰っておいで」と言ってくれたが、瀧と暮らした家を離れるのが嫌だった。
 実際に働いてみると、来訪者や電話の応対、会議室の手配などやることは多い。なのに働き始めてからいつまで経っても、同僚たちはわたしに仕事のやり方を教えてくれなかった。見様見真似で対応するしかなく、そうすると当然、失敗が多くなる。半年の間に、何度も総務課の上司に呼び出されることがあった。理不尽な理由で叱られるのは屈辱だったけれど、頭を下げて耐えた。
 今日は懇親会があり、無理やり飲んだビールのせいでこめかみがずきずき痛む。胃が重くて中身をみんな吐き出してしまいたかった。お酒は苦手なのに、男性の上司がつきっきりで勧めてきたので飲むしかなかった。三時間も続いた会の間中、わたしはその上司としか話さなかった。愚痴と自慢話が繰り返される中、胸や太腿に手を押し当てられた。最初は偶然のふりをしていたけど、酔いがまわるとそれすら面倒になったのか、触り方がどんどん露骨になっていった。助けを求めてまわりの人達を見ても、見ないふりをされた。
 自宅に戻り、リビングの照明をつける。瀧が部屋の隅に立っていた。ベランダに繋がる大きな窓の端で束ねたカーテンの横、ちょうどエアコンの真下にいる。右半身が壁沿いに置かれたテレビに隠れていた。いつもの癖で「ただいま」と呼びかけるが、相変わらず反応はない。
 どうしてか瀧は職場には現れず、家にばかりいた。リビングや寝室、お風呂場にも、ふっと気まぐれに現れ、声が出るほど驚くことがある。はじめのうちは「瀧、やめてよ」と笑うこともあったが、今ではその顔を黙って視返すだけだ。
 もう立っていられそうになくソファに横になる。白に近いアイボリーの三人掛けソファだ。わたしに似合うからと言って、瀧の選んだ色だった。
 両脚を揃えて座面に乗せ、柔らかな肘掛けに凭れて頬を乗せる。スカートの裾が乱れ、ストッキング越しの空気が腿に触れた。
「ねぇ、瀧」
 目だけを動かし、瀧を視る。
「どうして、なにも言ってくれないの」
 瀧はいつもの微笑みを浮かべ、黙ったままだ。
 しばらく瀧を視ていると、気づくものがあった。唇の右下に歪んだ楕円状に影が落ちている。
 奇妙に感じ、立ち上がって近づくと、それが影ではなく痣だとわかった。唇の下、五百円玉ほどの大きさで、押し潰した白桃の表皮のように黒ずんでいる。
 ゆっくりと瀧の顔に手を伸ばす。触れられない唇と重なるわたしの指先が、わずかに震えていた。

 瀧が死んでから一年経った頃、町澤さんがわたしを食事に誘ってくれた。ビルの六階にある鉄板焼のお店で、昼には和牛のステーキやハンバーグのランチが食べられる。一周忌の法要で再会したときに「一緒に瀧の思い出話でも」と誘ってくれた。
 カウンターだけの狭くて洒落た店で、わたし達は横並びに座った。店内は日中なのに穴蔵のように暗かったけど、右隣に座る町澤さんの向こうの壁に、縦に長い明り取り窓がついていて、そこから青空が細く覗いていた。
 注文の時に「ワインを頼んでも良いですか」と訊いた。町澤さんは少し意外そうに目を開いてから「もちろんです」と笑って、自分はビールを頼んだ。
「一周忌、ご苦労さまでした」
「ありがとうございます」
 町澤さんとグラスを重ねる。手元の白い角皿にサラダと一緒に盛られているのは、鹿肉と和牛、二つの小ぶりな俵型ハンバーグだ。それぞれに、チーズとデミグラスソースがかかっている。
「準備、大変だったでしょう」
 赤身肉のステーキにナイフを入れながら、町澤さんが尋ねてきた。
「いえ。今回は仕事があったので、お義父さんに任せっきりでした」
 鹿肉のハンバーグを一口サイズに切り分けて口に入れる。ハーブの香りで誤魔化されていたが、少し血の味がした。けれど、美味しい。
「お仕事はいかがです」
「働き始めてからもう一年近く経ってるのに、なかなか慣れなくて」
 グラスを持ち上げ、赤ワインを一口飲む。果実の香りが鼻から抜け、舌にまとわりついた肉の脂が洗い流される。最近は、ワインなら美味しく感じられるようになった。
「一人で生きていくって、大変ですね」
 わたしの呟きに、町澤さんが食事の手を止めこちらを見た。頬に視線を感じながら、ゆっくりと、もう一口、ワインを口に含む。
「……失敗したな」
 町澤さんの呟きに、今度はわたしが首を横に向けた。目が合う。
「知り合いに紹介してもらった店なんですけど、カウンター席は少し話しづらいですね。首が痛くなってしまう」
 にっこりと微笑んだ町澤さんに、わたしも笑い返そうと思った。
 びくり、と肩が動いた。
 頬の力が抜け、口がぽかんと開いた。
 町澤さんの後ろ、縦に伸びる明り取り窓を背に立つ瀧を視たせいだ。わたしは、ここが街中の鉄板焼屋であることを忘れて瀧に視入った。黒ずんだ瀧の顔の右半分から乾いた表皮が剥がれ落ち、きらきらと陽を反射しながら粉雪のように散っている。
 唇の横からはじまった瀧の腐敗は、もう首の辺りにまで広がっていた。特に向かって右側の状態は酷く、皮膚はかさつき鱗状にささくれ立ち、内出血を示す緑色が目の周りから円状に顔の半分を覆っている。最初に痣となって視えた部分は爛れ、もうすぐ唇の形を保てなくなりそうだ。左側の口角だけが緩やかに上がり、歪な笑みを作っている。
 いつもの瀧と変わりない。ただ、生きる人間のたくさんいる場所で視ると、その存在がひどく醜悪に思えた。腐りゆく顔面の中、わたしを視る二つの眼を、はじめて怖いと思った。
「どうかしましたか」
 静止したまま瀧を視続けるわたしに町澤さんが声をかけてくれた。わたしの視線の先を辿り自らも頭を動かすが、町澤さんが瀧を視ることはない。

 その後は食事も会話もうまく続けられなかった。「体調が悪くなってしまいました」と謝り、ハンバーグもワインも半分以上残した。心配そうな顔をした町澤さんが「無理しないでくださいね」と、タクシーを呼びマンションまで送ってくれた。
 自宅の玄関ドアを開けるとすぐに瀧が待ち構えていた。リビングへと続く廊下の真ん中に突っ立っている。わたしは顔を歪めて、瀧を視た。
「どうしてっ――」
 葬儀の後、瀧が出先に現れたことなんてなかったのに。わたしは思わず瀧を睨みつけた。今日は瀧の無言の薄笑いが、無性に腹立たしかった。
 陽が入らず薄暗い廊下に上がり、瀧の顔をじっと視上げる。今朝よりもずっと腐敗が進んでいるのに気がついた。どころか、今も目の前で腐り続けている。
 比較的綺麗な左半分に、鼻の天辺を越えて内出血の緑色がゆっくりと侵食していた。粘菌類が餌を探しアメーバ状に動くように、顔面の神経に沿いながらじわじわと線状の痣が伸びる。先に行くほど色は薄くなり、濃い緑から黄色へのグラデーションだ。右側の口の端は花弁が萎れるように見る間に張りを失い、かさついた黄土色の皮膚がはらはらと崩れ落ちる。腐った赤黒い肉がほろほろと零れる。もうすぐ歯や歯茎まで視えそうだ。なのに眼だけは爛々と、奇妙なほど生気を宿しこちらを視ている。ぞっとした。

 しばらくの間、職場へは実家から通うことにした。荷物を持たず実家に戻ったわたしを両親は不思議がったが「ゴキブリが出て怖かったの」と説明すると、笑って迎え入れてくれた。
 実家と職場を往復する生活の間中、わたしは瀧のことを考えないよう努めた。あの家で瀧が朽ち果て形をなくしてしまうのを、ただ待った。
 家を出てから三ヵ月が経った。その間、荷物を持ってくるため、母が二度、マンションに行った。「なにか変わったことは」と尋ねたが、「とくになにもなかった」そうだ。「このままマンションを引き払っちゃえばいいのに」と両親は言う。それも良いかもしれない。
 町澤さんからまた連絡があった。今度は夜の食事の誘いだった。けどまた瀧が現れるような気がしたので「町澤さんの家に行っても良いですか」と尋ねた。しばらく時間を置いてから、スマホの向こうの町澤さんが「構いませんよ」と答えてくれた。
 駅前のコンビニで待ち合わせて飲み物やお菓子を買った後、町澤さんの部屋に向かった。単身者向けマンションにある二階の角部屋だった。
 ドアを開け部屋に入るとすぐに、町澤さんが唇を重ねてきた。シューズボックスを背に、わたしはスーツ姿の町澤さんの背中に手をまわした。隙間から忍び込んできた舌を、唇を窄めて吸った。顔を離した町澤さんが「いいんですか」と尋ねてきたから、黙って頷いた。
 寝室に連れて行かれた。照明の消えた部屋では街灯の明かりがカーテンに青白く滲み、窓際のベッドを照らしている。その上に押し倒された。洗いたての寝具の臭いがした。
 覆い被さってきた町澤さんは、せっかちにわたしの中心に手を伸ばした。スカートの裾から手を入れ、下着越しに股間の合わせ目をなぞる。
 町澤さんを喜ばせたくて、大きく息を吐き腰を浮かせた。忙しく動く指に泥濘みはじめた肉芽を押し付ける。スラックスの上から膨らみを擦ってあげると、町澤さんは小さな喘ぎを漏らした。
 その時、また視えた。
 揺れる町澤さんの肩越し、木目調の扉と白い壁の前に立つ瀧だ。辛うじて形を保つ左の唇が、弓形に上がっている。しかしそれはもう微笑みというより、筋肉の強張りによる歪みにしか視えない。
 スカートを腰まで捲り上げられ、下着が下ろされ、町澤さんが慌ただしくズボンの前立てを引き下ろす。その間中、わたしは町澤さんに気づかれないよう、眼だけを動かし瀧を視ていた。
 瀧の姿は、三ヵ月前に家を出た時からまるで変わっていないように思えた。ただよく視ると、ウェストの辺りが奇妙に膨らみ、ニットが瓢箪状に歪んでいる。
 瀧に目を奪われている間に、町澤さんがわたしの入口に充てがっていたものを一気に突き入れた。熱の塊が内蔵を突き上げた瞬間、ひっと小さく声が漏れる。
 わたしの内側で、町澤さんが行ったり来たりを繰り返す。その動きに呼応するように、瀧の腹部が、でん、でん、でんと膨れ上がっていった。
 伸びきって腹周りを覆いきれなくなったニットは鳩尾まで捲れ、お腹の皮膚が露わになった。青白い表皮に緑の血管が蜘蛛の巣状に浮いている。妊婦のような生き生きとした張りはなく、ジーンズのウェストの上にだらしなく弛んだ肉が、空気の抜けた浮き輪の形でぐにゃりと乗っている。
 きっと誰かが、瀧の中に腐った液体を注ぎ込んでいるに違いない。でん、でん、と大きくなる腹は内側から押され、時折、ぼこりと握り拳大の瘤ができる。
 町澤さんがわたしの肉芽を指先で弄りながら、膣壁を強く擦り上げた。
 でん、でん、でん、でん、と身体の奥を揺さぶられるたび、瀧のお腹が大きくなる。腐った肉の内側に、腐った水が満ちていく。
 でん、でん、でんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでん――
 思考と身体の内側で熱の塊が爆ぜた。
 下半身が痙攣した。
 二度目の痙攣と同じタイミングで、瀧の腹が割れ中から液体が噴き出した。

 町澤さんを包みこんだまま収縮を繰り返すわたしは、荒く息を吐いた。その間も、ずっと瀧を視ていた。
 ぐずぐずに腐り中身を保てなくなった瀧の腹部からは、溶けた内蔵が垂れ落ちている。ニットもデニムも足元の床までびしょびしょだ。汁の噴出の勢いに引っ張られた全身の皮という皮、肉という肉、頭髪が、重力に負けずるりと垂れ下がり、服の裾から流れ出ている。なぜか鎖骨には黄色い脂肪だけが首輪のように留まっている。
 顔面は、赤黒い血肉をこびり付かせた頭骨が剥き出しになっていた。なのに眼窩に埋もれた眼球だけは、生き生きと瑞々しさを保ったまま、わたしを視ている。

 長い時間が経った。
 ようやく満足した町澤さんが、わたしを腕に抱きながら頬に口づける。
「喉が乾いた」と掠れ声を絞り出すと、「少し待ってて」と笑い町澤さんは出ていった。
 部屋にはわたしと瀧だけが残された。わたしは重い身体を起こし、ベッドの上で全裸のまま横座りになった。扉の前に立つ瀧の眼をじっと視返した。

 天井を見上げ、両手を持ち上げる。
 そのまま両目を手で覆う。指と指のわずかな隙間から、瀧の眼がまだ視えていた。
「あぁぁぁぁぁぁ」
 誰に聞かせるわけでもなく、曖昧に声を上げた。寝室を満たすその声を聴きながら、何度か繰り返し声を上げた。声は虚しく壁や布団に吸収され消える。その間もずっと、瀧がわたしを視ている。
 目を覆っていた両手の親指を動かし、下瞼と眼玉の隙間に爪先をぐっと差し込んだ。白目がぐぅと押し込まれる。痛みはなく圧を感じるだけだ。さらに眼球と前頭骨の間から中指と人差し指を挿し入れる。三本の指に力を込め、指の腹で眼球を押す。脳髄目掛けずぶずぶと指を進める。ずぶずぶと眼玉の終わりを探る。
 痛くはない、気持ちよくもない。
 まるであなたとのセックスみたいね。
 指先に、神経の束らしき太い紐を見つけた。中指と人差し指に力を込めて挟み込む。一気に、両腕を下ろす。
 頭の中でぶつ、と切断される感じがあり、瞬間、視界がぱっと白くなった。すぐに白から血の滲んだ薄紅色へと変化する。左右の掌には、柔らかく暖かい眼球が握られている。わたしは、わたしから眼を取り除くことに成功した。
 これでもう、視なくてすむ。
 そう思った。

 空になった眼孔から、ゆっくりと脳に送り込まれてくるものがあった。全裸の女、ベッドの上で横座りし、握った両手を真っ赤に染めている。わたしだ。
 眼孔の周辺と両手を血で汚し、口を開き、天井を見上げている。わたしがわたしを視下ろしている。
 寝室の扉が開いた。裸の町澤さんが入ってきた。わたしを見て手にしていたグラスを床に落とす。ガラスが割れ飛沫が床に掛かる音と同時に「なにをしてるんですっ」と悲鳴に近い声が聞こえた。町澤さんがわたしに駆け寄る。わたしはその様子を、瀧の眼を通して視ていた。
 わたしは覚った。
 この先わたしがこの眼で視続けるのは、腐りゆく、わたしの姿だ。

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