【備前片上駅→伊部駅を歩く】#3
今回の行程
全行程
普段は播磨国、但馬国ばかり歩いている私が今回は備前国を歩きました。
備前片上駅から歩き始め、主に旧西國街道沿いの寺社仏閣や信仰、遺跡に立ち寄りながら伊部駅を目指す行程です。直線距離で3.6kmほど、道の曲がり具合を考えると1里(約3.9km)は超えていそうです。
11時45分ごろに備前片上駅を出発し、伊部駅に到着したのは16時ちょうどごろでした。ほぼ4時間でそこまで長い旅路ではありませんでしたが、播磨や但馬地域とは違った信仰のかたちなどの文化の違いであったり特産品である備前焼についてなど得られるものはかなり多くありました。
それを7から8回ほどにわけて内容を考察と共に紹介していきます。
今回の行程
今回紹介するのは前回の荒神社の続き
藤原審爾旧宅跡
最上位稲荷神社
西國街道片上宿
を紹介します。
第一回
第二回
⑥藤原審爾旧宅跡
藤原審爾とは誰か
藤原審爾は1921年東京生まれの作家です。多くのジャンルの小説を書き、直木賞を受賞しました。映画化された作品も数多くあります。ここ備前市片上は彼が育った場所です。中学校は閑谷中学校へ通っていました。
旧宅跡
旧宅跡は現在は更地になっています。大庄屋だった藤原家の家で祖母により藤原審爾は育てられました。晩年はここで過ごす予定だったそうです。実際には彼はがんで入院し、1984年に63歳で没しました。墓は遺言通り祖母の墓のそばにあるそうです。
⑦最上位稲荷神社
旧宅跡の隣法鏡寺の中に最上位稲荷神社はありました。
この鳥居は古かったものを平成に入ってから再建したようです。正面に二つ社があってその右側に本社が小さいながらもありました。なぜか本社の写真が撮れていなかったので載せれません。
南無妙法蓮華経と石書経王塔とが書かれた碑が本社の横に建っていました。
石書経王塔とは一字一石塔と同じように、一つの石にお経の一文字を書いていってそれを埋めたものです。これを拝むとそのお経を唱えたことになるというマニ車的価値観も感じられます。
石灯籠も一つだけですがありました。正面に「常夜燈」左側に石工の名前、右側に年号がありましたが、なぜか写真が撮れていなかったので載せることができません。書かれていた年号は江戸時代のものでした。
⑧西國街道片上宿
西國街道
西国街道は京都から下関までを江戸時代の幹線道路です。江戸時代以前は同じ場所を旧山陽道が通っていました。微妙に位置が変わったりしています。
西国街道には一里塚や宿場がありました。一里塚は一里(約3.9km)ごとに塚を作り木を植えていました。
片上宿
片上宿は宿場の一つです。次回紹介する宇佐八幡宮の辺りがそうでした。北から来た津山往来との結節点にもなっています。
方上津というのは、地図を見ればわかると思いますが、片上はかなり入り組んだ湾になっています。湾で波が穏やかなため嵐からの避難や風待ちなどで優秀な港でした。
京都側の宿は二里半先(約10kn)の三石宿、下関側の宿は四里半先(約18km)の藤井宿です。
宿場町の特徴は、間口が狭くて奥行きの長い家が多いということです。宿場町に限ったことではありませんが、江戸時代は徳川家光の代に間口の広さで税を取るようになったことで、そのような家が増えたと言われています。
かわらクド
第一回で荒神社にて発見した祠はかわらクドというものでした。
神社だけでなく、屋敷神として個人の敷地内に祀られていることもあります。岡山ではいたるところで見ることができます。
クドは土やコンクリートなどで作られた竈の別の言い方で「火所」からきていると言います。このかわらクドも古い形は、石を組み合わせて小さな部屋を作ったものでした。クドというようにもとは竈神の信仰から派生したものかもしれません。実際にこの石クドの前で湯沸かしの神事をする例がわずかながらあったといいます。
もとは竈神のものだったのがいつの間にか祠としての「建物」という認識に変わっていったのかもしれません。
次回
#4では
宇佐八幡宮
片上宿の跡
を紹介しています!
ここまで読んでいただきありがとうございます!意見や指摘などあればご自由にお書きください!