月の海で溺れてる、わたしの傍には女神さまがいて・・・。/後編
「わたし」
ことあるごとに、おばあちゃん家(ち)に出入りしていた。わたしが行くと、おばあちゃんは一回は必ず、あの世の話しをしてくれていた印象があった。
おばあちゃんは弥世川(みよがわ)があの世に通じていることを信じていたけど、死後に旅立つ、天国とか地獄のことは信じていなかった。
おばあちゃんの影響なのか、わたしもあまり死後の世界を信じていない。
人間は、
命は、いつか失(な)くなるものだから、
わたしも、何十年か先には知ることになる。
そう、まだまだ、
ずっと先のことだと思っていたのに。
だけど、
もしかしたら、
いま、わたしがいるところが、
死後の世界に、いて、
ううん、死んでいないんだとしても、
たとえば、ここから、
この月の海から、
もう二度と、帰れない、
帰れないのだとしたら、、、
急に、背筋を寒気が突き抜けた。
「ち、がう、の。違うよ」
確かに願っていた。
思い通りにならない現実、嫌なことしか起こらない毎日。
言いたいこと、ひとつを口にできない自分(わたし)。
怒られてばかりでも、バカにされても、
わたしさえ我慢していればいいとか考えてて。
そうしたら、胸がいっぱいになってて、
苦しくて苦しくて、
何も考えられなくて。
お酒を飲むことで逃げようとして、
お酒に溺れようとして、毎日毎日、飲み続けて。
ふらふらで家に帰って、
いつも、ママとケンカになっちゃって。
『わたし、もう大人なんだからっ! いちいち口出ししないでよ!』
ママが、いつもわたしのこと心配で、怒ってたんだ。
わたしが、いつまでもコドモだから、叱ってくれて、
ちゃんと気付かせようとしてくれてた。
それなのに、わたしは・・・・・・っ!
※ ※ ※ ※ ※ ※
「ごめんなさい、ごめんなさい、、、ごめんなさい」
高ぶった感情と、あふれ出た嗚咽を抑えることはできない。
動物みたいに伏せって、顔を腕に押しつけるけど、そこまでだ。
ほとんど、しゃっくりのように横隔膜が上下していて、その刺激が涙をこぼすための呼び水になっていた。
帰りたい、、、家(うち)に、帰りたい!
頭の中には、ママとパパと、おばあちゃんがいて。
散らかったわたしの部屋と、きれいな台所。
ママが好きな洋画のDVDをみんなで見てて、
パパが、通ってる英会話スクールの教科書とにらめっこしながらヘンな発音して、
おばあちゃんがくれた手作り編みのコースターには熱いコーヒーが乗っている。
わたしは、シュガースティックとフレッシュを二つずつ入れて、
ママには「入れ過ぎ」だって注意されて、
パパは熱いカップをフーフーして冷まして、
おばあちゃんは「二つくらい良いだろ?」わたしを擁護してくれるから、ママが渋々と折れる。
知らないことなのに、昔の思い出みたく、記憶が再生する映像。
わたしの想像、妄想でもいい。
こんな景色が見たい!
こんな場面に立ち会いたい!
怒られてもいい。わたしが、わたしとして、家族と、居たい!
「わたし、の気持ち」
小さな手が髪に触れて、ぎこちなく左右へと動いていた。
女神さまだ。
慣れない手つきは、ただわたしの髪をくしゃくしゃにしただけ。撫でるというよりは、触っている。
うずくまって、砂を握り、大声で泣きわめいている。
過呼吸のような嗚咽がもれるばかりで、言葉がでない。
そんなわたしを女神さまには慰めてくれていた。
わたしは、幼稚(こども)だ。
ママはそれを知っていて、わたしが隠している(気付いていない)心配してくれてて、
わたしが道を踏み外さないように、見守って、方向修正の手綱を握ってくれていた。
「あのときね、わたし諦めたんだ。完全に諦めてたの。
毎日がつらくて、苦しくて、嫌で嫌でたまらなかった。
でも、逃げるのが、、、逃げ方が見つからなくて、飲めないお酒なんか飲んで紛らわしてた。
酔っ払って帰って、玄関に倒れ込んだらママは心配してくれて、
・・・・・・わたしさ、たぶんずっと心配してて欲しかったんだ。
ママにも、ずっと頭撫でてて欲しかった。
二十歳(はたち)超えたらそんなこと言えないし。
ママは、早くわたしに自立して欲しかったと思うの。
わたしが甘ったれ過ぎたから。
独り暮らしとか、彼氏つくって結婚とか、
そういうのを経験して、大人の大変さを知りなさいってことだと思う。
でも、わたしはいつまでもママの子供でいたかったの。
よくやったね。よく頑張ったね・・・・・・って、褒めてほしい、認めてほしかった。
ほんとに、子供、みたい」
顔を上げて、女神さまを抱きしめた。
そして丁寧に、羽織らせていたスーツの上着を取り返して袖を通した。
「ありがとう、女神さま。助かった。本当にありがとう、ございます」
スーツの袖で顔を拭う。就職祝いに買ってもらった黒いフォーマル。
涙を拭くのは、実は初めてじゃない。
入社してから、何度も何度もわたしのまぶたを覆い、涙を吸ってくれていた。
いい加減に新しいのを買いなさい。当のママに言われて仕方なく替えを買った。
無意識的なジンクスだけど、お守りだったんだ。
身につける頻度も多いから、大分にくたびれている。
「わたし、帰るね。帰るから」
立ち上がって、瑠璃空に浮かぶ月を見上げて、
紫水晶の海面に描かれた、もうひとつの満月へと踏み出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※
わたしに確信なんてない。
ただ家が、家族が恋しくて、帰りたくて、足を動かしていた。
水が足首まで絡みつく。砂浜を進んで、わたしは、あの月へと向かっていた。
足が、体が浮き始めたら手で海面を掻いて進む。
きっと溺れることはない。
わたしが溺れていないことが証明だから。
泳げている。クロール同様に、ひさしぶりの平泳ぎもなんとか形になっていた。
服を着たままで遠泳とかバカな話しで、バカな試みだ。
現実世界(むこう)なら試そうとも思わない。
でもスーツは置いていきたくない。
それに、もしも、このまま海に映る月まで泳いでいけたなら、
わたしは、ナニカを成し遂げたことになるかもしれない。
いいや。こんな考えしかできないからママには幼稚(こども)だと思われるんだ。
小学校の頃、スイミングスクールも辞めた。
中学の途中でピアノ教室も、お終いにした。
どっちも卒業とは言えない、途中下車。
ママに手を引いてもらって、自分が決めたくせに一歩後ろに下がって、
苦痛からの解放感に他人事みたいな顔で、安心してた。
自分で決めたことは、たくさんあった。
やり遂げたことは一度もなかった。
「だから、これくらいは」やり遂げ・・・・・・たかった、な。
でも、やっぱり、無理だったみたい。
手も足も重い。腕は肘から先、脚は膝から下がわたしの体じゃないみたいだ。
はじめてプールで溺れたときと同じ。
だから知っているんだ。
沈んでいく感覚も、最初は苦しいけど、現在(いま)はもう大丈夫。
月の海はプールよりも温かいし優しい。
それに誰かが握ってくれている手が言っているみたい。
目を開くのも面倒くさい。
疲れたし、もう、いいよね。
「月の海で溺れてる、わたしの傍には女神さまがいて・・・・・・」
消毒液の匂い。
最初は純白だったはずの天井はくたびれた色味を、蛍光灯によってさらけ出されていた。
次いで柔らかい感触に気付いた。ベッドだ。温かいし落ち着く。自分の部屋の羽毛布団よりは固く重いけど、これで充分に気持ちがいい。
ピッ、ピッ、ピッ。電子音が刻む一定のリズムが耳に心地よくて、せっかく開いたまぶたが閉じてしまいそうになる。体はうまく動かない。視界も右側だけが風景を捉えているが、左は布みたいなものが覆っていて闇のまま。
ああ、そうか。ここは病院なんだと考え至る。少し頭を働かせればすぐにわかることだった。
わたしは、病院のベッドの上にいて、おそらく体をろくに動かせない状態にあるのだと。
手も足も動かない。まばたきと眼球を左右に振るくらいしか自由はなかった。
入院しているのか? 徐々に増える感覚が教えてくれるには、マスクをされて空気が送り込まれている。それに、透明の袋が帽子掛けのようなこのにひっかけられていて、伸びる管はどうやらわたしの手首に繋がれているから、点滴なのだろう。
なんだか医療ドラマの患者さんみたいだ。大きなケガをして、長期の入院。バイクにはねられてアスファルトに頭を打ち付けた。出血多量に神経の損傷、でも主人公のスーパードクターが凄い手術で元通りにしてくれる。ありきたりの設定だ。
「先生、先生、意識が戻りました!」
目を閉じる。そうすると、わたしは暗い海の底に横たわっていた。水の中なのに苦しくなくて、ゆらゆらと漂うのが気持ちいいくらいだ。ウォーターベッドなんて目じゃない。静寂(しずか)で温暖(あたたか)くて快適。ずぅっとここで、眠っていたくなる。
そっか。わたしは、月の海を泳いでた。満月が映る真下に行けば、きっと帰れるんだって信じて。確証はなく確信もないけど、妄想にはすがっていた。
沈む間際に小さな手が、わたしに触れて、
あれは、あの手は、まだわたしの手を離さずに掴んでくれている。
ゆっくりと目を開けると、よく知っている女の人がいて、泣いていた。
「・・・・・・マ、マ」
自分の声は聞こえなかったけど、ママが大きく頷いてくれたから、わたしは安心できた。
――――ママ、ただいま――――。
※ ※ ※ ※ ※ ※
あの夜のことを事後的に教えてもらうことが出来た。
わたしはお酒を一気に飲んだせいで足がもつれて弥世川(みよがわ)の橋から頭から転落して、川底に敷き詰められた石で頭を強く打ったらしい。打撲した箇所の内部に血が溜まり、取り除く手術をして無事に成功。
そのまま、二週間わたしは意識不明のままで集中治療室で治療されていた。
幸運にも落下のときに両手を先に着いたおかげで命は助かったのだとか。両手首は骨折と打撲、捻挫と全身傷だらけの状態だけど元には戻るようだ。頭と顔の半面に包帯、首には固定帯、両手首にギブスをはめられていて動けない理由にも納得がいった。
言葉を話すのはしばらく時間が要ると担当の医師(せんせい)が教えてくれた。
耳は聞こえていたから、医師(せんせい)や看護師さんの言うことにまばたきで返事を返す。
病院内を車イスで回れる許可をもらって、ママが押してくれた。
ママはお仕事を早退して、毎日わたしの様子を見に来てくれる。
わたしのリハビリの一環として色々話しかけてくれたり、好きなマンガを開いて見せてくれたり、指先やほっぺを刺激してくれたり、ひらがなの並んだボードで簡単な会話を試みたり。
ママの目の下にクマが目立ち始める。仕事と看病の二重生活が負担を掛けているのは明白だった。
『も・う・こ・な・い・で』ひらがなボードで、そう伝える。ママは怒りもせず、理由を聞こうともせずに、わたしの肩を抱いて、トントンと背中に優しいリズムをたてた。
しゃっくりのような嗚咽、そして涙をこぼしながら、わたしは術後初めての声を上げることができた。
※ ※ ※ ※ ※ ※
夜、消灯時間になって目を閉じると、わたしはいつも温かい海の底にいた。
網目のような海面を通して、瑠璃色(ラピスラズリ)の空があって、そこには小さな黄玉(トパーズ)が散りばめられていて、大きな満月があって、海と世界と、水底のわたしを包んでくれていた。
目を閉じているときにだけ、月の海を認知できた。妄想かもしれない世界を理解できた。
もしも自由に言葉を話すことができたら、ママや医師(せんせい)、看護師さんに話していたと思う。
脳機能の異常とかで、また検査検査になるから内緒にしておく。
――でもね、わたしちゃんと知ってるんだよ。弥世川(みよがわ)に落ちたときに助けてくれたこと。月の海で溺れたわたしを現実世界(こっち)に帰してくれたことも、ずぅっと手を握ってくれてたことも、全部、知ってるんだからね――。
――ありがと、ね――。
――本当に、ありがとうございます――。
――川、最期に汚してごめんなさい――。
――あ、、、違う。ウィスキーの瓶って、そっちに忘れたままだもんね。ゴメン――。
――でも大丈夫だから。ちゃんと拾いに行くしね。おばあちゃんの教え、弥世川(みよがわ)を汚すべからず。守り主さまに叱られるよ、ってさ――。
――じゃあ、ちょっとだけ待っててね――。
――あと、また一緒に遊ぼうね――。
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