(未完稿)最果ての島の道具屋~世界が終わる前に天上の塔を攻略す【後】

⑫強き意思

 Ghoooooon!

 地鳴りが響いて、崖の上にすら揺れが伝わった。

 丘陵の里では非常用の狼煙が焚かれて、周辺の里への警戒が示されていた。

 森の若木が薙ぎ倒される。

 猛威が津波となって丘陵の里への路を爆進する。

 木々の切れ目からバドックが目した獣の群れは小さいが、どの個体も大きい。

「成獣体五頭。三角(トライホルン)が四。あとは五角(ペンタホルン)、、、長(おさ)だ」

 崖の中腹から見下ろしてレフたち三人は生唾を飲み込んだ。

 握った拳は緊張と恐怖で大きく震えている。

 手汗が収まらない。

 力を入れようとしても、体は弛緩していく。

 自然と呼吸が荒くなっていく。

「レフたちは援護に徹してくれればいい。足止めはオレがやる」

「あたしたち、でしょ?」

「ああ」

 元冒険者の女性は動じた様子はない。

 道具屋の青年に至っては平時のままだ。

 違いがあるとすれば得物の有無。

「先に行くよ」

 バドックが躊躇わずに崖を飛び出した。

 硬皮のブーツ底が斜面を掴み、青年を地面へと導いた。

 手斧を叩きつけてバランスを取り、何事もなかったように降り立った。

「全くさ。道具屋の店主って普通はあんなことしないよね?」

 ノーナは笑いながら、同様に崖を滑り降りた。

「ディラは守りを、セサリーは妨害を頼む!」

 レフは蒼銀弓剣(ブレード・シュート)に弦(つる)を通して調子を見た。

 木の根を解して依り編んだ弦は高い強度と柔軟性を持つ。

 力一杯に引いてみるが、それだけで顔が真っ赤に成るほどに重い。

「僕じゃあこの弓は引けない、、、」

 仮に、つがえた矢を放つことができても誤射しては意味がない。

 ディラパンは神聖なる存在に祈りを捧げる。

 セサリーは精霊のワンドに魔力(マナ)を注ぎ始めた。

 できる事。やらなきゃならない事。やるべき事。

 これまでの三人での冒険では、一番に先陣を切っていた。

 それが少年のリーダーとしての役割だと気負っていた。

 同郷の幼なじみ二人を巻き込んでまで足を踏み入れた冒険者の世界。

 せめて最前線で体を張り続けなければ、優秀な二人の友人に対して顔向けができないのだと。

「、、、できることはある」

 手にした弓と剣の複式武器。用途はあくまで身を守るための道具なのだ。
 
 咄嗟に崖沿いの小路を下った。

 先達二人に倣って駆け降りる技量も胆力もない。そんな必要はない。

「今は、今大事なのは敵から里の皆を守ること。全員で生き残ることだ!」

 手段や自尊心に拘って目的を見失うなど本末転倒。

 レフは空回りそうな思考を冷たく押さえつけて、道具屋の青年が口にした台詞をなぞった。

「僕の役割は援護だ。僕が一番得意なことで手伝えればいい!」

 気負いは皆無にはならないが、頼れる二人の存在に高揚感は増す。

 自分が覆い隠してきた弱さや惨めさが染み渡る。自覚できたことで荷が下りたように軽くなる。

 短剣で木根の弦を引いた。

 硬い感触後、弾け解ける弦は少年が引くに丁度よい、彼が引き慣れた張りへと調整される。

 急制動。改めて矢をつがえて、バドックとノーナのさらに先へと狙いをつける。

 Ghoooooo!

 暴威が木々をへし折りながら突出した。

 大人数人分もの体格の五本角。それに率いられた三本角が四頭。

「ああああああああっ!」

 弦の解れが加速する。

 放たれた必中の一矢。

 冒険者として剣を振るってきた期間を遥かに上回る年月。

 慣れ親しんで生活の一部と化した得意の武器。

 まばたき程の刹那で、矢は三角猪(トライホルン・ボア)一頭の右目に吸い込まれた。

 Gyuuuuuu!?

 件の獣は咆哮しバランスを崩した。

「くっ!」

 予備動作なしの瞬時狙撃が肩と手首に激痛を生じさせたが、

「でも、甲斐はあったかな」

 矢筒から抜き出した矢を二本同時につがえる。

 全身の関節と弦が悲鳴を上げるが、少年は笑った。

「父さんに比べればまだまだだ。でも僕は冒険者なんだ!」

 二射。次いで必中の精密狙撃。狙撃、射撃、連射!

 矢が射尽くされるより先に弦は断ち切れた。

 膝をついた。弓剣を杖代わりに身を支える。

 腕は痛みで上がらないが、戦意は些かも衰えていない。

「一頭も仕留められなかった。でも、まだ戦える」

 少年は崖下の先達二人を注視した。

 赤毛の小妖精が僅かに頷いてレフを労う。

 道具屋の青年は手斧を抜いたまま、迫る四頭の猛威を眼前に瞳を閉じたまま気を研ぎ澄ましていた。

 大地への祈りと、命への感謝。

 怒りや憎しみはない。

 恐怖も諦めもない。

 無限に繰り返されてきた命の連鎖と、積み重ね。

 それらは未来永劫に続いていく生命の自然な営みでもある。

 青年は目を開く。

 感情の映らない乾いた瞳には、確かに意思が宿っていた。

⑬暗闇と真紅

 精霊のワンドを強く握って、魔術師のセサリーはカダンジュの大地に呼び掛けた。

 すでに失われた樫木の杖で練り上げた時より、魔力の収束率が高い。

 熱を宿す少女の小柄な体。

 ぼんやりと拡張される意識と術技のイメージを明確に絞り込む。

 距離と範囲と規模と強度と密度。

 どれかひとつでも誤れば、魔力は膨張し暴走する。

 崖から見下ろす光景には恩人二人が先んじて、獣の群れに向き合っていた。

 傍らでは仲間の二人が矢を放ち、聖なる奇跡を行使していた。

 魔術師の少女の、冒険者としての力量は五人の中でも一番下。

 強い目的も覚悟も足りないことは自覚していたが、彼女は魔術師の道を歩むことを決意していた。

「大地よ応えて。暴威を塞き止めるために、ひとときだけ姿を転じて!」

 不可視の魔力が、輝粒子(パーティクル)を撒いて拓けた大地を変貌させる。

「泥沼(クレイ・トラップ)」

   ◇      ◇      ◇      ◇      ◇

 何十、何百年を獣が踏み固めて、木の根が補強した固い大地が波紋を広げた。

 僅かと言うには大きな揺らぎにバドックとノーナは数歩だけ飛び退いた。

 岩と遜色なく硬化した地面が綻んで、徐々に液化を始める。

 生臭くて泥臭い。土の匂いを伴って決戦の舞台がぬかるみに飲み込まれた。

「やっぱり魔術師はすごいな」

「セサリーが凄いのよ、バド。精霊のワンドをちゃんと使いこなせている」

 初行使で丘陵の里を雑草で多い尽くしていた少女が、熟練魔術師と同じ表情を浮かべていた。

 稀少な魔道具。威力も効果もが段違いに大きいが制御難易度も消費魔力量もがAランク相当だ。

 獣の群れは一瞬たじろいで、猛威の間隙を大きくする。

 そこを正確な矢の連撃が狙い打つ。飛来する少年の狙いは危なげなく、一頭の眼球を貫いた。

「レフもディラパンも負けていないしね」

「オレは初めて受けるけど、これが守護の奇跡」

「そうよ。守護(シェル)と防護(プロテクト)と盾(シールド)の奇跡の重ね掛け。大した子よ。目立たないけどディラパンが三人の要ね」

「オレたちも負けていられないな」

 バドックは鉤付きの捕獲器(ボーラ)を頭上で振り回して、速度を落とした先陣の一頭へ。

 次いで矢に眼球を抉られた個体へ続けざまに投擲した。

 片や左側の脚の前後を。片や両前脚を捕らわれて、三角猪(トライホルン・ボア)は動きを封じられる。

 返しのある鉤は決して外れないし、木の根を依ったロープが切れることもない。

 二頭は浅い泥沼へと足をとられて身動きを止める。

 後続の一頭がは進路を塞いだ巨体に激突して体勢を崩す。

「フィーレ・エンチャネイディッド・スレイシュ・サラーム」

 小妖精が紡ぐ古代魔法語の詠唱句。

 彼女が抜いた小剣の、刀身に刻まれた同語が緋に燃える如く呼応した。

「目を覚まして、魔法剣フレイバーン。久しぶりの大仕事よ!」

 バネ仕掛けの人形か、野生の鹿が跳ねるようにノーナは疾駆する。

 赤い髪は間違うことなく〈火〉に属する妖精の血脈を現しているが、

 まるで彼女は風の加護を受けたように軽やかで、速い。

「------っ!」

 目尻が吊り上がり、跳躍する。

 盗賊業の本性。幼い頃より叩き込まれた必殺の暗技は、一撃で獣の後脚の腱を断裂せしめる。

 勢いを殺さずに軽業と曲芸を混ぜたアクロバティックでトリッキーな身のこなし。

 バドックでさえ目を凝らさなければ見逃してしまう。

 加えて〈火〉を織り上げたとされる魔法剣にかかれば、

「低位竜(レッサー・ドラゴン)の鱗くらいだったら切り裂けるのよ!」

 Ghoooooo!

 かまいたち。若しくはつむじ風。

 鮮血を飛び散らせて三角猪(トライホルン・ボア)は地に伏した。

 命までは奪われていなくとも、動くことは叶わない。

「ふぅ」

 一息だけついてノーナは第二陣の突撃を回避するために跳躍する。

 魔術師の少女が生みだした泥沼(クレイ・トラップ)に落ちぬように、巨獣を足場とするが、

 Ghoooooo!

「ちっ!?」

 横たわったはずの獣が振るわせた強靭な背筋がノーナの踏み出しを僅かに鈍らせた。

 泥沼に叩き込まれて健脚を奪われる。

 身動ぎできぬ二頭などお構いなしに、地を鳴らす三頭目の超獣。

 身を起こすのがやっとだが、彼女は命運たる魔法剣を手放してはいない。

 利き手ではない左に構えて突進に備える。

 赤毛の小妖精が有する知識と技能と経験の中には、まだ手立てはあった。

 スゥっと瞳からあらゆる感情が消失し、力が抜け落ちた。

 嘆きも悲しみもなく。死への恐怖もない。

 暗技の中で幾つか存在する、身を捨てることを前提に敵を葬る為の絶技。

 必中にして必殺。

 意識は、ただ暗く暗く沈んで行く。

 望みは---ない。

 カチャリ。得物の留め具が何事かを呟いた。

 我に帰ると、地鳴りと目前の巨体。

 ノーナは一瞬だけ感情を取り戻した。

 ---バド---!

「簡単に諦めるな!」

 見慣れた皮エプロンの結び目と、垂れ下がる紐が揺れた。

 低く腰を落とした青年は、一歩を踏み出して手斧を振るった。

 !!!!!!??????

 深紅の噴水。赤黒い雨。

 断末魔の悲鳴すら置き去りにして、迫り来る驚異は側方に吹き飛ばされた。

 噴出する血雨とは裏腹に、巨躯は浅い痙攣を繰り返し、動かなくなった。

⑭祈り

 緋色の豪雨にさらされて、道具屋の青年は立ち尽くしていた。

 立ち居振舞いに躊躇いも後悔もなく、あるがままを捉え続けている。

 足首までを泥沼に浸かりながら、動けない巨躯をかき分ける。

 足取りは酷く緩やかだった。

 右手を軽く降るって得物の血糊を払う。

 瞳に感情は映ってはいない。

 今の彼は、誰もが知っているバドックではなかった。

 四頭目の三角猪(トライホルン・ボア)は身を固くしたまま獣脚をもつれさせる。

 転倒まではしなかったが、道具屋の青年を避けるように大きく回り遠巻きで様子を伺うにとどまった。

 完全に気圧されたのだ。

 バドックは一瞥しただけで、視線はすぐに標的に戻した。

 GHOOOOON!!

 大地を踏み鳴らす巨大な獣の長が強く咆哮を上げた。

 頭部に角を持ち、牙が長く進化した三角猪(トライホルン・ボア)の中にあって、

 さらに角を二本獲得することができた亜種にして唯一種。

 五角猪(ペンタホルン・ボア)。

 全高だけで直立した大人二人に、重量は大人が十人以上にもなる。

 最高速での突進は三頭だての馬車を裕に凌ぎ、小高い岩山など一撃で粉砕できる破壊力の持ち主。

 全身には無数の戦いの痕が刻まれており、眼光は微かにも揺るがない。

 眼前に歩み出でる矮小な人間を強敵と認識して、自身を鼓舞するように唸り声を上げる。

「ああ。わかっている。共存は馴れ合いじゃない。お前にもオレにも守って維持したいものがある」

 五角猪(ペンタホルン・ボア)は前肢で何度も地面を踏み叩いて、角の切っ先を小さな強敵へと向ける。

 そして強大な脚力が初手から最高速での突進を生み出した。

 地鳴りと微震。

 土石流か山津波に匹敵する爆進で迫る必死の危機。

 バドックは深く腰を落としたままで迎撃の型をとる。

「ダメだバドックさん! 自分の奇跡を重ねてもアレは止めきれない!」

「バドックさん!?」

「バドっ!」

 守りの奇跡を施したディラパンが叫ぶ。

 危機を察した少年少女が悲鳴を上げた。

 最も身近で青年の後ろ姿を目の当たりにしていたノーナでさえ、

 青年の行動が先刻までの自身の捨て身攻撃に重なってしまう。

「大丈夫だよノーナ」

 五つの先端が目前に現れた。

 瞬きを差し挟む猶予も皆無。

 暗転した瞬間と瞬間の間隙にあって、時の流れは移り変わってなだらかに転じる。

「オレはまだ死ぬわけにはいかないから」

 三角猪(トライホルン・ボア)を一撃で屠った際の構えから一歩を踏み出して、

 バドックは全身の筋肉をフル回転させた。

 竜巻のように自転しながら〈敵〉の五つの凶器を確実に切削し、その全てを叩き折ったのだ。

 突進の膨大なエネルギーは回転により最低限で受け流す。

 同時に腰部の中心を五箇所断裂。

 痛みによる絶叫が木霊して、獣の長は泥沼に身を沈み込ませた。

「、、、誇り高き森の長よ。荒ぶる牙と深き慈悲を持つ勇猛なる者よ。安らかに眠れ。

 お前の命と心魂はオレが継承することを聖竜フラウバルクリムに誓約する。

 竜の民が守護者、セドの息子バドックが生涯を以てお前の心魂を永遠の眠りへ導こう」

 決して言葉は通じない。

 交わされるのは視線と感情。

 ---Ghooooo---

 五本角を有した森の長は低く唸ってから、静かに瞼を閉じた。

「感謝する。誇り高き獣の長よ」

 青年は手斧を掲げて、音もなく薙いだ。

⑮挑戦者たち

 五角猪(ペンタホルン・ボア)率いる小さな群れの襲撃から数日後の昼過ぎに、冒険者の少年少女らはバドックの前に畏まって立ち尽くしていた。

 三人に怪我らしい怪我はない。

 高い剛性の弓を引いたせいでレフは左肩を痛めていた。

 慣れない魔道具を長時間用いたセサリーの気力も平時に比べると疲弊している。

 補助術式の多重行使に挑んだディラパンの消耗も少ないとは言い難い。

 一様に旅支度を終えた若者たち。

 巨躯の獣を屠った手斧での薪割りを中断したバドックは額の汗を手の甲で拭い、彼らの第一句を待った。

「バドックさん、お願いがあります。僕たちを塔まで連れていって下さい!」

 決死の覚悟とばかりにレフは大きく腰を折って、二人の仲間もリーダーに続いた。

「自分からもお願いします!」

「バドックさん、どうかお願いします!」

 沈黙を守っていた道具屋の青年は手斧を腰帯に挟む。

 言うべきことは沢山あった。

 伝えるべき事実や現実。

 カダンジュ島にすむ、竜の民として。

 前守護者の息子として。

 幾年もの歳月を先に生きてきた者として。

 僅かにでも寝食を共にした仮初めの同朋として。

 力を会わせて丘陵の里を守り抜いた仲間として。

 これまでも訪れた数多の冒険者たちに言い放ってきた感情なき言葉を投げ掛けることは簡単だが、

 青年は思い止まってから、森の奥にそびえ立った天上への塔を振り返った。

「丘陵の里を出て二日ほど踏破すると谷がある。道もない断崖だ。海のような河が横たわって、

その先にある聖なる領域を守っているんだ。カダンジュ島への対竜岬の流れと同じくらい激しい大河だ」

 旅のことと思い出したのか、セサリーは顔を青くした。

「渡河しても待つものは深くて広い大森林地帯。住まう獣は三角猪(トライホルン・ボア)程度じゃあ済まないほどに獰猛で凶悪だ。虫も植物も意思と自我を持って許可なき侵入者を引き裂きにかかる」

 その後の台詞を想像するのは容易だった。

「わかっています。今の僕たちじゃあ挑戦する力も資格もないってことは、、、。だから行けるところまででいい」

 少年の目には決意が宿っていた。

 以前とは異なる。

 自暴自棄でもなく、焦燥に刈られた衝動でもない。

 越えるべき壁に挑もうとする、ひとりの探求者の顔だ。

 不可能を前に足をすくませながらも一歩を踏み出そうとする、冒険者の姿が青年を見上げていた。

 少年の力と技術は青年には遥かに及ばない。

 しかし決意と覚悟だけならば、バドックよりも未来を視ていた。

「やっぱりレフはオレなんかよりもずっと凄いよ」

 バドックは三人をすり抜け、工房の裏に薪を積み重ねた。

「明日の早朝出発する。それまでは好きに過ごすといいよ。君たちが行ける場所までは責任をもって案内するよ。だから君たちも決めてくれ。自分の意思で行くか、行かないかを」

 ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

 翌日。

 日が上るより数時間前から準備は済んでいた。

 覚めることなき興奮と眠気の入り交じった三人を伴って、バドックは里を降りた。

 繕い直された背負い袋はリーダーの少年が担ぐ。

 道具屋の青年は皮のエプロンのまま、腰帯に得物を挟んだいつもの格好で先頭を歩んでいた。

⑯分水嶺

 切り立った崖を周回するように下る。

 絶え間なく表情を変化させる大河の激流は小舟程度を簡単に飲み込んでしまう。

 精霊のワンドを介した水上歩行(ウォーター・ウォーキング)の術技は対岸までを自力で踏破を可能にした。

 先の戦いのようにセサリーが魔力(マナ)欠乏に苛まれることもない。

 僅かな休息を挟んで、一行は深い大森林へと歩みを進めた。

 シンと静まり返る緑の天蓋の下。

 音もなく殺気もなく、驚異は襲い来る。

 茂みの掠れはそよ風が成したものでなく、拳大の肉食羽虫の群れだ。

 硬直するレフとディラパン。悲鳴を押し殺すセサリー。

 バドックは手斧も抜かずに、両の手刀で肉食羽虫を払いのけた。

 仰向けに転がった半球状の肉食羽虫は手足をバタつかせた後に蠢きを止めた。

 転がった数は数十に及ぶ。

「じっとして、なるべく動かないようにするんだ。露払いはオレがやる」

 カタカタと節足を使って三人へ近づく個体も、放られた手斧が両断する。

 すると今度は積み上がった死骸を囲むように肉食羽虫が殺到した。

「こいつらは雑食で悪食だ。今のうちに先へ進むよ」

 甘い空気が満たされていることに気づいたのは三人の中ではレフだけだった。

 粘着質で纏わりつく湿気。

 ふと我に返った時には大きなテントの中に入る寸前だった。

「ダメだ、二人とも止まれ!」

 ディラパンとセサリーを押し止めて、少年はその正体を観察した。

 茶色化した深い緑の柱。まさに足を踏み入れようとした箇所は赤色から桃色、白色へと変化する果肉じみた虚。

「そいつは食虫植物の亜種だよ。匂いで引き付けて虫でも獣でも丸呑みにする。良く気がついたね」

 バドックが肉食羽虫の一匹を虚に投げ込むと、食虫植物は急いで口を閉じた。

 青年は手斧を握ったまま、先を見据えた。

「もう引き返す?」

「まだです! まだ僕たちは何もできてないから!」

「そうか。わかった。でもここからは覚悟しておいた方がいい」

 バドックの指差す先には見上げるような大岩が壁のように立ち並んでいた。

「あの岩を越えたらそこは別世界だ。五角猪(ペンタホルン・ボア)以上の怪物がうろうろしている」

 若き冒険者たちの返答を待つ必要はないと、岩場に足を運ぶ。

 岩同士の狭間や凹凸に手を掛けながら器用に、あっという間に登坂した。

 ---GYAOOOOOON!!---

 幾多の彷徨が、幾重に重なる。

 ただの獣の声音が大気を震わせ、木の葉を舞わせる。

 バドックは無感情のまま、そよ風を見送ったが。

 魔術師の少女は耳を塞いで蹲る。

 神官戦士の少年は尻餅をついた。

 レフでさえ一歩を後退り、膝を笑わせていた。

「君たちの咄嗟の反応は正しいよ。オレもこの岩壁を越えた瞬間に死ぬかもしれない」

 ガリガリと分厚い岩が削られる。

 なにかがガンガンと壁を殴り付ける。

 今にも、中から見たこともない怪物が飛び出してくるような錯覚。

 それらはひどく獰猛で、少年少女では一息に噛み砕かれるか引き裂かれるだろう。

 ミシリ。巨木がへし折られた。

「っ!!」

 冒険者の小柄なリーダーは悔しさの余りに地面を何度も殴り付けた。

「恐くないって、命なんか要らないって決めたのに! なんで僕は、、、」

 岩壁を越えるどころか登って、青年と同じ景色を見ることも叶わない。

「それは君が、まだやりたいことがあるからじゃないかな」

「やりたいこと、、、」

「カダンジュの聖竜の塔は天上の国へ通じていると言われている。冒険者にとっては大きな目標であることも知っている」

 手斧で制動をかけてバドックは少年と同じ地に靴底を着けた。

「レフたちの力と才覚は見せてもらったよ。オレなんかじゃ手の届かないところまで行けるだけの可能性を持っている」

 悔し涙を浮かべた少年は顔を上げる。

 自身の慢心が打ち砕かれた不甲斐なさ、二人の仲間への申し訳なさが滲み出ていた。

「生き急がなくてもいい。君たちなりの研鑽を積み上げればいい。次にカダンジュに来たときにはこの中まで案内しよう」

「、、、幼い時に、僕の集落を冒険者一行が逗留していました。なんの娯楽もなかった小さい僕は、僕たちは冒険者になりたいって思いました」

「カダンジュにも冒険者はたくさん訪れたよ。オレが小さい頃から今に至るまで。でもこのカダンジュを生きて帰れる者は少ない。皆は一様に命を懸けて名声や財宝を得るために塔へ挑む。運良く生きて出られた人もいる。運良くオレが救えた人もいる。オレの親父くらいの冒険者もいた」

 少年たちは静かに聞き入った。

「今はどうなったかは知らない。でも道具屋の倉庫にある武器防具とそれ以外の道具のほとんどは島に来た冒険者のものなんだ。不幸にも命を落とした人のものもある。でもほとんどは二度目に島を訪れた冒険者たちが置いていってくれたものなんだ。過去の自分や救えなかった仲間を助けるために」

 レフの背負った蒼銀弓剣(ブレード・シュート)。

 ディラパンが持つ六剛輪(リクゴウリン)、セサリーが抱えた精霊のワンド。

「その人たちはどうなったんですか? また塔に挑んだんですか?」

「オレが知る限りは島を出ているよ。無事でいるなら嬉しいけど」

「バドックさんは、そんなに強いのに塔を目指そうとは思わないんですか!?」

 レフの問いかけは悲痛な叫びのようで、詰問にも似ていた。

「オレはカダンジュ島に生まれた竜の民。聖竜フラウバルクリムに選ばれた守護者の息子。それに、、、」

 最後の一言を青年は飲み込んで、いつもの無表情のままで返した。

「オレは冒険者じゃなくて、ただの道具屋だ」

 一行は森を引き返して再び激流と見(まみ)える。

 魔力(マナ)欠乏で疲労困憊のセサリーが魔道具を手にするのを制して、道具屋の青年は首から下げた牙の飾りを大河に掲げた。

 澄んだ水底が翳り、徐々に大きく濃くなると、飛沫を上げて大きな面が陽光の下に現れた。

 島亀(アイランド・タートル)の幼生はつぶらな瞳で、守護者の青年を見上げていた。

 頭を撫でられて、革袋の干し肉を咀嚼するとおねだりをするように頬を擦り寄せる。

「じゃあ戻ろうか」

 幼い島亀(アイランド・タートル)に乗って大河を越える。

 三人の冒険者は目に焼き付けるように、遠ざかる大森林と塔に視線を向けていた。

⑰ゆるし

 カンと、手斧が薪木を両断する小気味良い音が途切れた。

 使い込んだ木の根を依ったロープで割った薪木をまとめて縛り、荷車に積む。

 あとは丘陵の里の家々に配り置くだけで午前中の主だった作業は一段落を迎える。

 バドックの脳裏には細々とした作業が浮かんでは折り重なっていたが、物見の丘の平石に腰を下ろした。

 照りつける陽射しは強いが、急造した屋根が生む日影は小休止にはちょうど良かった。

 屋根の下には丸太の腰掛けが三つ。

 主たちの温もりを思い出せずにいた。

 青年は視線を大海原に伸ばす。

 強い風は物見の丘にまで潮の香りを運んでくれる。

 島の海岸線と岬の船着き場。

 約二ヶ月に一度の定期船はすでに停泊を終えていた。

 カダンジュに付き従う名もない小島群から成る自然の難所〈対竜岬〉を抜けて、定期船は悠々と進む。

 銀に照り返る海面を滑るように、相対距離を大きく開いてその姿は見えなくなっていく。

「あの三人は幸運なのかもしれないな」

 青年の呟きに、彼女はいつもの調子で返す。

「誰と比べてよ?」

「誰かと比べてじゃなくて、単純にさ。ノーナ」

「なら、いいけどさ」

 強い風に白のドレスのスカートがはためいた。

 日避け屋根を支える柱に手を掛けながら赤毛の小妖精は道具屋の青年に並び立ち、海原に目を向けた。

 革鎧やバンダナ、護身の短剣すら身に付けてはいない。

 燃えるような髪は櫛で解かれて、香油が塗られている。

 いつも明るくて頼り甲斐のある同居人の横顔は、どこか憂いを帯びたようなか弱さを秘めていた。

「あたし個人は、、、運が良かったのかな?」

 吹き荒ぶような風は小柄なノーナを容赦なく押し飛ばそうと画策する。

 山砦の里の雑貨屋が持ちかけた代価として、ドレスのモデルを要求された。

 カダンジュの植物だけで誂えた純白のドレスは仕立ても着心地もデザインもが一級品。

 王都の一流店にも負けていない逸品。

 仕上がったドレスは「礼」だと譲り受けていた、というよりは老人に押し付けられたもの。

 なにが交換取引の体裁を成してはいないが、人生で初の一張羅姿を披露するためにノーナは普段着をまとめて洗濯していたのだ。

 慣れないドレス姿に戸惑い風に煽られる。

 小妖精は思わず、青年の腕にしがみついた。

 鍛えられた腕。山仕事で負った擦り傷や、獣につけられた傷痕が刻まれている。

 大きな掌に、彼女は自身のそれを重ねてみた。

「この島に来てから、ずっとこの手に助けられてきた」

「助けられなかった人の方が多いよ。現にノーナの仲間を助けることはできなかった---」

「みんなのことをバドが背負うことはない。バドの忠告を聞かなかったあたしたちがバカだっただけ」

 小妖精の自嘲顔を横目で見ながら、青年は小さな手を強く握りしめた。

「オレは昔、冒険者に憧れていたんだ。いつかはこの島を出て世界中を見て回るんだって夢を見ていた」

 青年の指がノーナの掌に染み付いた傷痕をなぞる。魔法剣フレイバーンの侵食した痣のような痕跡。

「親父はこの島の、、、竜の民の守護者だった。親父が逝って、オレが跡を継ぐしかなくて、幼馴染みと冒険者になるって約束を破った」

「だからバドは冒険者を救っている。あたしを助けてくれた」

 ノーナも掌を握り返す。硬くなった木の根のような指に絡めた。

「ただの自己満足だ。ガキだったオレが色んなことに色んな言い訳をした。逃げた過去の罪を忘れないための、、、」

 澱のような感情を吐き出す。あたかも苦鳴を洩らす青年の姿をノーナは初めて目の当たりにする。

「違うな。オレが許されたいためにしている偽善だ。楽になりたいだけの罪滅ぼしをしている。そんな程度のことなんだよ」

「いいじゃない! それのどこが悪いのよ! バドはレフたちの命を救ったじゃないの! あたしが知らない人の命をたくさん救った。丘陵の里の皆を助けたじゃない。あたしのこともっ!」

「オレはいつも口だけだった。冒険者になると息巻いて、結局はなにもできずに友人を行かせてしまった。あの時のことを償いたい一心でやっている勝手なお節介。十年が経ってもなにも変わっていない」

 自分のことしか考えていない---バドックは眉根を寄せて苦い顔色を浮かべた。

 記憶の中ではいつも二人の幼友が船上からてを降っている。

「オレはあいつらの信頼を裏切ったまま、のうのうと生きている。そんなどうしようもない、、、」

「止めて! あたしの恩人をそれ以上貶めたら、バドでも許さないから!」

 魔法剣の後遺症で力の入らない手で強く握られた青年の掌。

 頭ひとつ分は違う彼女の横顔。瞳からこぼれるのは悲しみを表す涙。

「あたしはバドに救われているの。今もこうして助けられているんだから、、、」

 ノーナは涙を拭おうとはせずに、堪えるように海の彼方を向く。

「ごめん、ノーナ」

「ここで謝るとか、絶対ないから」

「そうか、、、」

 重なった手の力を抜こうとも、彼女は懸命に繋がりを維持している。

 バドックはもう一度彼女の名を口にしてから、「ありがとう」感謝の言葉を告げた。

 ぎゅ。

 彼女が強く握り返すことができた理由は、もう片方の手を添えた為。

 涙で充血した眼差しが今はバドックだけを捉えている。

 変わらずあふれ続ける涙の意味は、さっきまでと多分違うのだろう。

「うん。それなら許してあげる」

 何気ない響きが空の青に吸い込まれるように、道具屋の青年の内側に染み渡った。

 少しだけ救われた、と。

 彼の中の重石が外れゆく。

 十余年ぶりになるだろう。

 不思議とこぼれた笑み。

 それを知るのはカダンジュの空と、赤い髪の小妖精だけだ。

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