月の海で溺れてる、わたしの傍には女神さまがいて・・・。/中編
「女神さまとの暮らし」
いつの間にか月が小さく離れていた。濃紺の海は少しずつ存在を隠していき、まっさらな砂浜が顔を出した。初めて見た干潮だ。岩場から飛び降り、幼い女神さまを抱きかかえた。
軽い。昔、従姉の子を抱かせてもらったのよりも軽い。米十キロよりも、軽かった。
元の、わたしが打ち上げられた浜で脱ぎ捨てたスーツを着込む。きめ細かく速乾性に富んだ砂のおかげで湿気はなかった。露出狂スタイルからはさよならだけど、着替えの間中、女神さまの視線は変わらない。スーツの上着を引っぱられたので、羽織らせて上げる。
予想通りに、スーツの袖口と背布を引きずっているが、そこが可愛い。
陸地を歩き回るが何もない。
いつの間にか近づいて大きくなった月のせいで、辺りは水で覆われて、再度孤島に閉じ込められてしまっていた。
歩けども歩けども、白い岩場ときめ細かい砂が続く。
いい加減に疲れたし、なんだかお腹も空いてきた。
甘いものが食べたいな。
流木堂の抹茶ミルクレープが食べたい。
歩きっぱなしだから足も疲れた。マッサージして欲しい。
「疲れたね」
ときおり話しかけるけど、女神さまは興味深そうに聞き入り、目を丸くし、口の動きを真似て見せるけど、女神さまが声を出すことはなかった。「あ~い~う~え~お~」発生のレクチャーもしてみたけれど、教え方が悪いせいでうまくはいかない。
代わりに小さく白い手を握った。女神さまも弱々しく握り返してくれる。
それが嬉しくて笑顔を向けてみる。女神さまは不器用な笑顔を作ってくれた。
ささいなことにも精一杯応えてくれる、健気で愛らしい女神さま。頭をよしよしと、撫でる。
おそらく初めてのことに戸惑っている表情だろう。わたしの手の動きと、頭の感触を確かめているようだ。
真似するには背丈が足りないので膝立ちになる、が、女神さまはわたしの頭を撫でようとはしなかった。
パターンと違うことにわたしが手を止めてしまう。
女神さまは、わたしの手を握り、頭を撫でる動きを継続させようとしたのだ。
はじめての、おねだり、なんだね。
ずっととはいかないけど、もう少しだけ撫でてあげるくらいは大丈夫そうだ。
「あたま、撫でてもらってないな」
※ ※ ※ ※ ※ ※
女神さまの長い髪は、砂まみれでも上品な白金(プラチナ)色を失わない。
手櫛で砂を払い、整える。額にかかる前髪の下にも傷痕は存在していた。
頬にも、目元にも。
首筋から両腕、掌手のひら。
デコルテと肩甲骨周辺。
太もも、ふくらはぎの全周。手足は指の先々まで。
大小さまざまな傷痕に覆われている。
すでに薄くなっているもの、治り始めのもの。
波に流されたときに岩場にでもぶつけたんだろうか?
女神さまには、およそ自己防衛という概念が感じられない。
こんな寂しい世界に、たったひとり。
最初から、他人(だれか)のことを知らなければ、無垢でいられるのだろうか?
痛いことも、苦しいことも、イヤなことも感じずにいられるのだろうか?
頭を撫でられるだけで、満ち足りた表情を浮かべる、小さな女神さま。
わたしは、ポケットの中の携帯電話(ケータイ)の感触を確かめて、音声メモリーの件数を思い出していた。
「わたしの、現実世界」
ずうっとキレイな青い空の下。
蒼く澄んだ水面に、浮き輪に守られて浮かんでいる。
それが、わたしだった。
晴れた空だけを見ていれば良かった。
厚い雲が支配する寒い季節も知らず、雪風がすさぶ凍える大地も知らないでいても良かったんだ。
海での、水遊びだけをしていれば良かった。
荒れた海面に、とどろく雷鳴。前後不覚な大嵐の、海の厳しさなんて知るよしもないし、実際に知りたくもなかった。
わたしは、こどもだったんだ。
いいや、大人じゃなかったんだ。
短大を卒業後に就職した。
べつに、やりたいことがあったわけじゃない。
甘いものが大好きだったから、パティシエになりたい、とか。
絵画の賞をもらえたから、イラストレーターになれるんだ、とか。
道ばたで召されていた小さなスズメを、庭に弔ってあげようとしたから、獣医に向いているんだ、とか。
根も葉もない、夢の中の、お話し。
高校受験のときには、もう気づいていた。
わたしが生きていかなきゃいけないのは、現実世界(このばしょ)なんだって。
それからは、わたしの世界から彩(いろ)は失われて、灰色だけが広がっていた。
同級生たちは、色鮮やかな高校生活を楽しんでいるように見えた。
バイト。ゲーム。カラオケ。部活。勉強。彼氏。
大人はみんな、頑張っているんだなと思えた。
イヤなことも、難しいことも、大変なことも、文句も言わずにやっている。
文句を言いながらの人もいたけど、それでも、こなしていた。
わたしは、なにも、してこなかった。
見ていただけだ。
周りを、周りのみんなのことを、ただ見ていた。
うまく溶け込めるように、目立たないように。
表面だけでも、馴染もうとばかりしていた。
中身がなかったから、見透かされて。
次第に、「誰か」の顔色しか見なくなっていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※
瑠璃玉(ラピスラズリ)の粉をふるいにかけて、レジン液に溶かし込んだ、アオ色に近いムラサキ色。そのグラデーションがカーテンのように揺らめいて、濃淡を調整していた。
うごめいている、という言い回しがピッタリとはまるけど、怖い印象はない。むしろ、見ていて癒されるし、落ちつくことができた。
青紫のカーテンは星たちを、内に抱き留めている。散りばめられた、大小さまざまな黄玉(トパーズ)だ。控えめな煌めきで、カーテンを飾る。満月を引き立てるために。
「月って、こんなにキレイだったんだ」
浮遊する白金(プラチナ)のボールは優しいくらいに、冷えたわたしの姿を照らしてくれていた。
白光は、ダイヤモンドにも負けていない。
最後に見た月は、弥世川(みよがわ)の橋の上だった。
お酒を無理して飲んで、そしてお酒に呑まれて、酔いつぶれたままベッドに倒れ込む。
社会人に二年目の夏頃から始まった、わたしの日常生活(ルーティン)。
美味しいとも感じたことはないし、アルコールへの耐性が付いたわけでもない。
仕事帰りに、コンビニでお酒を買うことへの躊躇がなくなっただけだ。
アルコールの焼ける苦みと辛みで、毎日を誤魔化すので精一杯で、
その挙げ句に、
わたしは月の海に来ることになったんだ。
たぶん、わたしはもう、死んじゃったんだ。
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