魔法人形は、異世界で少女の夢を視る。/十三

【妖精蝶とむぎわら帽子】

 深緑の木々が天蓋として張られた森の奥。木漏れ日が差し込むことで地面は宝石を散りばめたように陽光を映していた。
 冷たい空気。静謐な場所は総ての微かな音さえも咎めるような厳かさに満たされていた。
 人々はこの場所を畏れてか立ち入った気配はないので、あるのは獣道。
 木々が意図的に生えたように覆い隠していた。
 最奥には岩場があって、その脇からちょろちょろと零れるような水が湧き出ている。
 魔女の水瓶。
 近隣の村人の間ではそう呼ばれているのだと、屋敷の侍女との道程で耳にしていた。
 確かに。この場所は生き物を拒絶するような雰囲気を過分に含んでいるように見受けられた。
 人々の伝える風聞の中にある、魔女のイメージが森全体に含まれている。イオにはそんな風に思えた。

 指環の魔力(マナ)を噴かせて、湧水の落下点に手桶を置いた。
 閉め忘れた蛇口から滴る水道水の如く。手桶に水が溜まるには数時間を要する。

 魔女に言いつけられて何度目かの水汲み。
 魔女が暗に、自由時間をくれたということだった。

 家にいると掃除やら片付けやらをしてしまう魔法人形を休ませるために、魔女が気を使った形になる。

(魔女に気を使わせたとか、マリーが知ったら驚くんだろうな)

『じゃあ。少しはテストしてやるか。この指環(ゆびわ)の……』

 指環を軽く噴かせて、自身を浮き上がらせた。
 イオには大気中の魔力(マナ)を取り込み原動力に換える機能が備わっている。
 魔女の住処や下界(地上)で魔力(マナ)の吸気量は異なるが、森の中は清麗な魔力(マナ)が常に溢れていた。
 魔女がイオに自由時間を言い渡す場所がいつも森。それは、魔力(マナ)が切れて眠りに陥る心配が要らないからだった。

 思考のアクセルをベタ踏む。急加速かつ急上昇!
 植え込まれた長い髪は邪魔にならないように後頭部で束ねてあり、向かい風で盛大になびいた。
 ポニーテールどころではなく、ドアゴンテールな勢いだ。

(止まれ!) 

 ブレーキはない。思考アクセルのベタ踏みを止めただけなので急停止はしない。残った慣性を重力が上回る数秒を惰性で上昇し、自由落下(フリーフォール)。

『ひぃぃぃぃぃぃーーーっ!!?』

 苦手な絶叫系すら生ぬるい。
 再度アクセルを踏み込んで魔力(マナ)噴出を促す。
 体内と眼球を巡る高圧力痛に視界が一瞬霞むが、持ち直す。
 地面すれすれで急上昇をする体に、生身であれば完全に酔い潰れていただろう想像を過らせ、人形の身に感謝した。

 イオに理解できたのは、前<飛行の指環>よりも出力が高くなっていること。
 自身がどの方向を向いていても、必ず地面の方向に魔力(マナ)が噴出されることだ。 

 コツを掴んでからの彼女は思う存分に森を跳び回っていた。

 魔力(マナ)の体内循環による心地よい疲労感。
 幾度か枝葉を経由して、樹木の高みへ。
 その枝に腰掛けて遠くの丘の上に目を向けた。
 麦の畑と簡素な柵の向こうに人間の村が見える。
 馬車が通ることができる大きな路道。
 その先に大きな門がある。広がる手入れされた庭園があって、領主の古い石造りの屋敷が鎮座している。
 屋敷の二階。角部屋には窓が二つあって、ベッドと大きな書架。部屋の中央にはティーテーブルのセット。
 飾り棚には可愛らしい人形たちが荘厳な部屋に彩りを添えている。

 机は部屋の主が人知れずに作業する場所。引き出しの奥には、秘密の記録帳が眠っている。
 部屋の主がこよなく信じる友人たちの名前や衣装が描かれた、大事な記録帳。
 残念ながら、森の木の上からであっても屋敷は見えなかった。

 イオは 屋敷で見聞きした記憶をひとつひとつ呼び出しては愛でるようになぞる。

 病弱な少女の感情の発露。嘆き。悲哀。そして人形への親愛。

 他人とは思えない親近感を抱き、少女の親友を直すために尽力した。
 少女の笑顔が振り切れない。
 亜麻色の髪の少女の、蒼玉(サファイア)の双瞳が覗き込む記憶の映像が再生されるとイオは胸のあたりがモヤモヤとした。

『マリー。元気にしてる? ユリーシャちゃんも、メイさんも。私は、元気だよ』

 
 人形の声が届くことはない。
 
 

 もしも。この森が屋敷まで続いていたなら。
 想像してみると気持ちがざわついた。
 時々、森を駆ける悪戯な風があたかも背中を押しているように錯覚する。

 屋敷を出る直前に、魔女は「残るなら構わない」と口走る。
 イオは、魔女の元に帰ることを選んだ。
 決して後悔ではない。
  
 彼女が生きている世界で、彼女を認識している者は限られている。
 魔女。
 ときおり訪れる商人や顧客数名。
 そして屋敷での件で知り合った貴族令嬢のマルガリーテス。侍女のメイ。

 マルガリーテス。
 特にマリーという少女とは最後の夜に話しただけ。関わりとしても、ほんの数日間だ。

 人形の振りをして、少女の苦悩を目の当たりにして―――、

(私は、マリーに私を重ねている。私ができなかったことを代理させようとしているの?)

 イオの内面で生前の記憶と、今世の記録が混ざり合っていた。
 同じ名前の人形を愛でる少女に感情移入をしている。
 
(私はもうユリーシャちゃんには会えない。だからマリーには同じ思いはしてほしくなかった……)

 魔女は。
 魔女ならば、イオの生前の記憶からユリーシャと全く同じものを作り出すことはできるのだ。

 彼女には、意地を張らずに新しい人形を作ってもらう選択肢も確かに存在していた。

(でも、そんなの絶対に選べない!)

 物体として、そこに存在してしまうことで、彼女の内面にあるユリーシャへの想いを冒涜することになる。
 イオは―――ミシキスミレの哲学だった。

 マルガリーテスは、奇しくも同じ思想を持つ少女で、
 だからイオには、少女が特別親しい存在だと認識していたのかもしれない。

 そこから先の詳細を魔法人形は覚えてはいなかった。

 試してみたかったのだ。
 自分の限界を―――。

 ※

 例えば、十年ぶりに訪れた母校の校庭で陸上部の練習を見かけた。
 触発されて一気に百メートル走に挑み、序盤からの全力ダッシュの挙句、中ほどで完全に力尽き、這う這うの体でゴールの白線を越えたが、仰向けに倒れこむ。
 
 そんな状態。

 魔法人形は木々の隙間から真っ青な空を仰いで、『反作用、半端なさすぎ』と体を擦(さす)っていた。
 経緯は至極単純だ。
 森の中での魔力(マナ)損失は起こることはない。事実上、眠りは有り得ない。
 が無尽蔵に無限大に連続飛行が可能なわけではなかった。

『体が痛い、、、』魔女が施した幻痛(ファントムペイン)が魔法人形の関節部分を苛んでいた。
 何もしていなくとも疼痛が。動かすだけでも刺すような痛みが生じる。
 明らかに<飛行の指環・改>の副作用。
 またはイオが使い過ぎた所為なのか。
 

『行けるかも、、、なんて。私やっぱり馬鹿だな』

 森を行く。道程は人の足でも数十分で越えられるほどだ。
 いかに飛行を行使できようとも、魔力(マナ)が溢れようとも、人形の身でできることに限りがあるのは同様だった。

 ひんやりとした地面。名も知らない雑草がベッド代わりにイオの体を受け止めて、高まり過ぎた熱を少しずつ奪ってくれていた。

 イオは意識の蓋を閉じて、自ら記録の世界に視点を切り替えた。
 映画のDVDを再生するように。操作はもう手慣れたものだ。
 早送りを繰り返して、いつもであれば生前の人形たちの場面を食い入るように眺めるのだが、

「こんばんは魔法のお人形さん。初めまして、、、も変かな……」
 
 上質な寝間着を纏った少女の髪が月明かりで黄金と化す。

「わたしはマルガリーテス・エリュシオン。この子の、、、ユリーシャの親友です」

 イオとマリーが初めて話をした最初で最後の夜の記録。

「お人形さんはわたしが嫌いなの?」
「人間とはお話できない決まりがあるの?」
「やっとお話してくれたのに、どうしてそんなことを言うの?」

 森の空気のように澄んだ声音。蒼玉(サファイア)の瞳が好奇と不思議の狭間でコロコロと色を変える。
 人形として見ていた少女。
 侍女には弱音を吐いて、感情をあらわにした少女。

 マリーは、イオの前ではとても無垢で純で、生まれたばかりの天使のようだった。

「でも素敵よ。あなた女性なのに紳士だわ」
「そうなの? 可愛らしいお顔なのに。王都の社交界に招かれればきっと誰よりも綺麗なのではないかしら」
「むぅ。可愛らしくて綺麗で紳士なのに、意地悪なのね」
「わたしは可愛いと思ってくれるの?」
「お人形さんに褒められたのは初めてね。光栄よ。嬉しいわ」

 少女の言葉と笑顔が、息遣いまでが目の前の出来事のように再現されていた。

(3Dも4Kも目じゃない)

 体感的で、触れられた温もり。触れた時の柔らかさ。
 あの夜の口づけも。
 名前を付けてもらったことも。

 ―――そうだ。あなたの名前。ヴァイオラがいいわ。髪の色と同じ、ヴァイオラ花草(かそう)ヴァイオラ! ね、どうかしら?―――

『ヴァイオラ!? 格好はいいけど、なんだか男の子みたいね』

 ―――いや、かな? お人形さんは紳士だから、お堅いくらいがいいと思うのだけれど―――

『オジサンっぽいって聞こえる。それ。せめて、リー繋がりとかは? マリー、ユリーみたく……』

 ―――っ! では、イオはどうかしら!? ヴァイオラの間をとってみたの! うん、素敵よ。イオ。イオがいいわ! ねぇ、イオはどう思う?―――

『ん。それ、、、がいいかな』

 ―――でしょう! わたし、名づけには自信があるの! 棚にいるあの子たちも皆、違う名前があるのよ。イオにも紹介するわ―――

 マリーが、少女があまりに嬉しそうに笑うから彼女はなにも言えなくなっていた。
 イオ。ヴァイオラのイオ。
 少女がそれでいいのなら、彼女にも異論はなかった。

『イオ。イオ。ヴァイオラのイオ。どんな異名よ』

 西部劇のライバル的な。はたまた厨二系アニメの暗黒騎士的な。
 生前も無礼な後輩女子から「おじさんみた~い」とディスられたことはある。
 男勝りだなどとも言われ慣れていた。

(こんなに可愛らしい人形に転生してまでとは。死んでも性格は治らないと証明できてしまったな)

 意識の蓋を外した。
 体の痛みは治まっている。

 人形の表情は決して緩むことはない。いつもの通り微笑のままで微かにも動かない。
 言葉は喉を震わせず。
 瞬きは叶わず、涙が流れることもない。

 それは感情がないことには、繋がらない。

(あの子たちにはもう会えないけど―――)

『マリーと、こっちのユリーシャちゃん。また会いに行くから! 絶対に会いに行くからね!』

 魔女は違う。侍女のメイも厳密に同じではなかった。
 この世界で、イオの気持ちに最も近しく、感情を理解できるのは、
 少なくともマリーしかいないと、イオは知っていた。

 身を起こす。白いワンピースは緩みや解れが目立つが、イオは再度魔力(マナ)を噴出させた。
 森は未だに広大に広がっていた。
 
 屋敷までは幾日、何週間を要するのかも不明瞭。
 もし、森を抜けたとしても魔力(マナ)が屋敷まで保つ道理もない。

(跳べなくたっていい! ヒッチハイクしてでも、歩いてでも行ける。道は繋がっているんだから!)

 何度もの練習飛行で掴んだ微速飛行からの加速。
 実際に足で地面を蹴って浮遊しながら前進する。
 低重力下の大ジャンプと同様の原理。

 這うように伸びた木の根、石や畝を越えるために跳躍した。
 思考でアクセルを踏み込む。

 偶然だった。
 突然の悪戯風が通った。
 次いで眼前を蝶が横切る。虹色の薄羽をもつ、この世界だけの妖精蝶が風に進路を妨げられたのだ。
 避けなければとイオは力が入る。

 急上昇に視界がぐらつき、真っ黒に染まる。
 意識のブラックアウトではなく、なにかがイオを覆い被さったのだ。

 制御が乱れて、アクセルをベタ踏む。
 同時にへばりつくナニカを引きはがして、よくよく見ると。

『むぎわら帽子、、、なんで? ぅあっ!』

 悪戯風がむぎわら帽子を捕まえて、軽い人形ごと晴天の空へのデートへと誘う。
 イオが懸命に誘いを蹴ったことに興味を失くしたのか、悪戯風は人形と帽子から手を離して、また空へと還って行った。

 掴んだむぎわら帽子と、ゆっくりと着地する。
 木々の切れ目。せせらぎが耳に優しい清流だ。
 透明な川。森で、この場所だけは陽光を臨める数少ない憩い場だ。
 虹羽をひらつかせた妖精蝶。イオの魔力(マナ)に引き寄せられたのか、傍を離れようとはしなかった。
 石の上に置いた麦わら帽子にとまり、羽を休める。

 イオが指で触角を刺激してやると、蝶は驚いて森の奥へと消えていく。

『住処に帰るの? それとも友達のところ?』

 七色の残像。幻影。きれいな虹だけが残される。
 彼女とむぎわら帽子だけが残された。

 せせらぎが、やけに大きく木霊する。
 まるで、世界にイオだけが取り残されている。

 意識の蓋は開いているはずなのに、彼女はどうしても孤独から抜け出すことができな……、……
 

「イオっ!」

 革靴が草むらを掛ける音。
 息せき切って、鼓動は激しく。

「イオっ!」

 名前を呼んでくれる。
 こんな風に人形を呼ぶ人物は、ただひとりしかいない。

 むぎわら帽子を失った亜麻色の髪は、悪戯風に解かれて、今も弄ばれていた。
 少女は構わないとばかりに、
 視線はただ、彼女だけを見ていた。

「マリーっ!」

 人形は跳んだ。
 魔力(マナ)の噴出に、むぎわら帽子は転がり落ちる。

 イオは跳んで、飛び込んだ。

 少女は両手を広げて、小さな魔法人形を抱きしめた。
 マルガリーテスは抱きしめた。
 胸の中にある小さな友人を。
 大事な友人との再会を喜んで、小さな友人にシンアイの口づけをした。
  

【森のヴァイオラとマルガリーテス】

「マリーお嬢様。その、、、少々度が過ぎています。はしたないですよ」
 むぎわら帽子を拾い、土を払いながら侍女のメイが冷静に少女を諭し聞かせた。
 屋敷の時と変わらない表情の読めないポーカーフェイス。
 どこか諦め、どこか呆れながら、小さな人形を押しつぶさんとしている少女の方をポンと叩く。

「わたしとしたことが。イオ、大丈夫? 怪我はない?」

 圧迫から解放されて、少女と地面の間から這い出したイオ。立ち上がろうとしたが、指環使用の反作用でへたり込む。
 すぐに声を出せないことを心配した少女は、再度イオを掌で掬い上げて、不安そうに見つめている。

「イオ。どこか怪我したちゃった?」
『ううん。へいき。ちょっと跳んだ反動で頭クラクラしてるだけだから』

 徐々に視界が戻る。ぼやけた新緑のなかに蒼玉(サファイア)が人形だけに向けられていた。
 マリーは、少女はイオの紫水晶(アメジスト)を見つめていたのだ。

『マリー……』継ぐことが浮かんでこない。

 こんにちは。
 久しぶり。
 お帰り。
 ただいま。

 どの言葉もしっくりこない。

『体は大丈夫なの?』

 屋敷での生活で、感情の高ぶる度に過呼吸のように苦しんでいた記録を思い起こした。

「……うん。いまは平気。魔女様のお薬のお蔭でもあるし、この森に入ってからはもっと楽になったみたい」
『そうなんだ』森に満ちる清廉な空気。無垢な魔力(マナ)。それらはイオの体内にて眠りを無効化して余りあるほどの質と量を内包する。
 少女の病にも、いい影響を与えているのだろうとイオは解釈した。

「それで、イオに会えたらもっと元気になれたわ。ありがとうイオ。わたしのところに来てくれて」

 マリーは侍女の持つむぎわら帽子を指さした。

「イオが届けてくれたのでしょう?」

 花の咲くような笑顔。陽光の下、亜麻色の髪は蜂蜜を垂らしたようなハニーゴールドに輝いている。

(違う。違わないけど、違っていた!)

 イオが心の中で悔やみ、拳を握る。
 彼女が最初に掛けるべき言葉は、すでに決まっていたのだ。知っていた。

『マリー。ずっと、会いたかったよ』
「イオ。わたしもよ。あなたに会いたかったわ」

 悪戯風が二人の間をすり抜けた。
 構ってくれと髪を弄ぶが、やがて妖精蝶を追うように森の奥へと気配を消した。

『私に会うために、こんな遠くまで』
「途中まではゴードンの馬車で送ってもらったの。それでねイオ。お願いがあるの」

 人間のような人形を、人形のような人間が見つめている。

「わたしを魔女様に会わせてほしいの!」

【岐路】
  

「魔女様。守護者様。エリュシオン家が一子。マルガリーテス=エリュシオンにございます」
「おーおー。領主の、人形の、あのメイドの、我儘娘か。ん。ご苦労。帰っていいぞ。あたしは忙しいんだ」
『あんたは学習しないのか、この最低最悪ハレンチ魔女! はやくマントを羽織れ! マリーごめん、こんな魔女で! 泣かないでね! あと見ないで!』

 身に着けている唯一の下着。上下の柄はちぐはぐ。
 他には薄手の眼鏡。
 魔女の、元ミシキスミレの生白い肢体がむき出しになり、訪ねてきた少女や侍女に惜しみなく曝されていた。

 人形は懸命に、ベッドに放られたままのマントを引き摺ろうと力を尽くす。
 魔女は気にせずに、家族の前で裸になる女子高生のような気軽さだ。指の間に挟んだキセルで、マリーを犬猫のように追い払う仕草で、なんらかの作業を続けていた。

「お目にかかれて光栄です。意外と、、、想像と違っていたので驚きました」
「ほぉ。娘。お前の想像では、あたしはどんな姿だったんだ? 長衣の老婆か、男装の麗人か? それともロリか?」
『私の知識を悪用するな!』人形を摘み上げて、魔女はマリーに放り投げた。

「いいえ。お姿というよりは格好と言いますか……」
「なかなかの躯だろう? お前が男であったなら相手をしてやっても構わなかったのにな」

 顔を赤く染めたマリーの胸元で、人形の抗議は続いた。

「からかうのはこれで勘弁してやろう。そいつも煩いしな。まあ水汲みもロクにできないようなダメ人形の説教などに塵ひとつ分の価値はないわけだが」

 キセルで薬草を燻したものを肺に取り込み、そして吐き出す。紫煙は立たないが乾燥薬草独特の臭気が小さな家屋に充満した。

 侍女はずっと黙り込んでいた。沈黙のままで主の背を見守っている。

「それでどうした。話があるのだろう? わざわざ下界から身を押して来たんだ、さっさと要件を済ましたらどうだ」

 マリーは侍女と顔を見合わせて頷き、魔女に向き直った。
 人形を抱きかかえる手にも力が入ったので、イオも僅かに身構えた。

「この地を離れることになりました。王都にほど近いガーデン領のご頭首様に嫁ぐことが決まりました。二十日後にはエリュシオン領を発たねばならなくなりました。
魔女様とお会いするのは初めてですが、お話は存じておりました。魔女様のお薬のおかげで体も随分と元気になりました。改めてお礼を申し上げに。ありがとうございました」
「紅玉(ルビー)を袋にいっぱい。人間にとっては安くない対価はもらっている。あれは取引だ。とっくに済んだことに礼を言われてもな」
「では、イオの事にお礼を言わせて下さいませんか。イオが我家に来てくれたから、わたしは大事なものを失わずに済みました。イオがユリーシャを救ってくれました。わたしのことを救ってくれたんです」

 マリーは魔女への礼の言葉とともに時間をかけて腰を折って頭を下げた。侍女のメイも主に倣う。

 魔女の居心地が悪そうな顔に本来ならばからくような一言を送るところだが、

『マリー。嫁ぐって、、、結婚するの?』
「ええ。そうよ」
『なんで? だってマリーはまだ、、、それに体だって!?』
「イオ。わたしはもう十五歳よ。確かに魔女様ほど女らしくはないけれど、お相手の方はそれでも良いとおっしゃってくれたの」

 お相手―――。
 イオは意識の蓋が勝手に閉じそうになったのを、無理に押しとどめた。
 結婚。こんな幼い娘が。

「政略婚。別に珍しいことでもあるまい。貴族は国家や領民のための管理・統治機構の一端だ。元より自由などないよ」
「はい。我儘をできるのは成人するまでの間だけ。十五歳はもう大人として見られますから」

 そこにあるのはイオの知るマルガリーテスという少女とはどこか異なる女性。
 外見ではなく内面が著しく成長した女性。義務を全うする覚悟を決めた貴族令嬢の勇敢で凛々しくも慈愛にあふれた女神のような微笑だった。

『マリー』
「イオ。そんな顔をしないで。縁談としてはこれ以上ないほどの家柄のお相手よ。ね、メイ?」
「セドリック=ガーデン氏。現役の軍属将校でありながら、王都の学院の論文課題で最優秀戦略参謀賞を受賞するほどのお方です。お父君の後をついでガーデン領の頭首となられました。
御年は三十三歳とのことですが真面目で硬派なお人柄です」

 三十三歳。生前のイオと同じ年齢。
 ミシキスミレが、中学生の男子と結婚するようなものだ。

「王都の大病院で体を診てもらったときに一度お会いしたことを覚えておいでになったらしいの。背が高くて、軍人さんだけど怖い印象はなかったわ」
『そうなんだ―――』

 内心を襲う嵐のような感情。怒りでも悲しみでもない、黒くて重いものがイオの心に粘りつく。

(―――知ってる。この感じ。私、嫉妬してるんだ。見たこともない男の人に。マリーの婚約者に嫉妬してる)

 抱いてくれている少女の服の袖をギュッと掴んでいた。
 離れたくない。
 離したくない。
 恐怖が人形の手を震わせる。
 

「それはなによりだ。相手が童女趣味ならその躰も悦ばれるだろう。家同士の繋がり、領同士の繋がりも強化される。あたしとしては言うことはないな。ああ一言だけ。政略結婚おめでとう」
「魔女様。お言葉ありがとうございます」

 皮肉も嫌味も、真っ直ぐに返されては魔女には手も足も出ない。
 仏頂面でぶっきら棒に振る舞う魔女の様子に、少女は僅かに頬を緩めた。

 ―――マリー。本当に受け入れるのか? 政略結婚とわかって、そんな倍ほども年の離れた男の元に行ってしまうのか!?―――

 解答のわかりきった問いだけが脳裏をループする。
 聞くことに意味はない。
 強くて、賢くて、芯のある少女が意思を口にしている。
 行かないで……などと口にできるはずもない。
 たかが動けるだけの人形のイオにできることなど、彼女にも思いつかなかった。

 ようやく絞り出した声で、少女の名を呼ぶに留まった。

 マリーの笑顔。
 無邪気であどけない天使はもういないのだ。

 表情は動かない。瞬きすらできないことも重々承知していた。

(これは私だけのエゴだ。押し付けてはいけない。だってマリーは人形ではなく、意思のあるひとりの人間なんだから!)

『マリー。結婚、おめでとう』

 精一杯、笑おうと努めていた。

 震えが伝導する。
 イオの震えが少女に。
 マリーの震えが、腕の中の人形に伝わった。

「魔女様。厚かましいお願いを聞いて下さいますか?」

「あたしは魔女で、ここは魔女の住処。強い願いを持つものしかたどり着けず、強く思えば叶わぬ願いはない。覚悟と対価があるのなら如何なる蒙昧な願いであろうとな」 

 凛とした声音。少女は眉間に力を込める。
 魔女の氷点下の視線が迎え撃つ。

 深呼吸を重ねて、初めて目元の筋肉を意図的に吊り上げる。
 少女は、

「イオをわたしにお預け下さい。わたし個人が持ち得るものあれば、総てお支払いたします。お願いします」
「ふん。こんな小煩い人形のどこに、お前は惹かれるというのだ?」
「イオは輝いているからです。淡く、でも強く、美しく。わたしを暗くて狭い部屋から連れ出してくれたんです」
「暗くて狭い部屋。それはお前の内面(うちがわ)の喩えだな。部屋から出たのはお前の意思だ。人形はきっかけに過ぎない」
「魔女様。部屋の扉は施錠されていました。鍵がなければ扉は開きません」
「頓智か、小賢しい。既に扉は開いている。なら鍵は不要ではないのか?」
「魔女様。わたしは思うのです。鍵は手放さないのが常です。大事な部屋の扉をいつでも開けることができるように」
「ふん。よく言う。ならば答えろ、お前があたしに差し出す対価を」

 マリーは、侍女が用意していた革袋を制してから人形に微笑んだ。

「先ほど申し上げた通りです。わたしが持ち得るものの総てです。わたしの出来ること。自由になるもの」
「ほう。だったら代わりにお前のビスクドールを頂くとしようか。この人形があるなら、アレはもう要らないのだろう?」
『あ、あんた、何言ってんのよ!』
「黙っていろ人形。これはあたしと我儘娘との商談だ」

 この上ない邪悪な形相。生前の自身の顔とは思えない迫力にたじろぐが、少女は涼しい顔を浮かべたままで返す。

「魔女様。ユリーシャは確かにわたしの大事な親友でした。ですがあの子は一度壊れてしまい、修復をしてくれたのはイオとメイです。
殊更にイオは丹念にユリーシャを直してくれたのだとメイから聞きました。わたしはあの時ユリーシャに何もできずに、箱の中に閉じ込めたままで諦めておりました。
ならば、今のユリーシャの正当な所有者はイオではないかと思います」

『……え?』
「ほう」

「はい。イオであるならばユリーも納得してくれるはずです。イオ。ユリーを貰ってくれますか?」

 戸惑いながらもイオは首を縦に振る。
 魔女は以前ん邪悪な笑みで口元を歪めている。

「これで正式にゆりーはイオのものです。わたしの所有権が及ばないものについては、如何な魔女様にも差し上げり事はできません」
「この、、、なかなかに性悪の才を秘めているな。では、現在その人形の所有者であるあたしは、間接的にビスクドールの所有者でもあるわけだな」
「はい。もしもイオが魔女様に差し出すのであれば、そうなります」
「だろう?」
「でもイオはそんなこと絶対にしません。イオほど人形たちを愛する人をわたしは存じ上げません」

 そうでしょう?
 少女の言葉に、頷いて応じた。

「会って程ないお前に、この人形のなにがわかる?」
「イオが、わたしと同じ。それ以上に人形たちを愛していること。
想いに偽りも迷いもなく、まっすぐで、純粋で、綺麗な、宝石よりも夜空よりも美しい心を宿していること。
紳士で意地悪で、素敵な女性で尊敬できる命であること。あと先ほど気が付きました。イオと魔女様がとても信頼し合っているのだと」
「気のせいだ。妄想だ」
「かも知れません。でもイオと仲良く暮らしているのとか、ユリーを欲しがったりとか、魔女様もお人形が大好きなのですよね?」
「くっ、、、口の減らない」
「はい。魔女様。お腹は減っても口は減らない。古い言葉遊びです」

 マリー。
 貴族令嬢。
 領主の長女。
 病弱な深窓の娘。
 自分の気持ちを持て余して。振り回され苦しんでいた少女が、堂々と魔女と渡り合う。

 そして、終に言い負かして見せた。

「ご無礼を申し上げました。魔女様、どうかお許しください」

 何事もなかったように、深く頭を下げた。
 人形も侍女もが息を飲んだ。
 魔女は表情を殺したままだ。亜麻色の髪と、手の中で大事に抱えられた人形。

「お前は、そいつをどうする心算だ? どうしたい?」
「一緒に生きたいと考えています」
「人間と人形。存在する場所は同じでも、存在できる時間は大きな差がある」

 前を向くマリーは笑顔を浮かべる。
 天使のようなあどけなさ。女神のような慈愛でもない。
 ただひとりの少女として、精一杯の笑顔。

「魔女様はお優しいですね」

「対価は決まった。マルガリーテス=エリュシオン。お前の残りの人生で以て、それを支払ってもらう」

 魔女を中心に巻き起こる熱風。
 赤い稲妻が小さな家屋を迸る。
 人形は少女の手から吹き飛ばされるが、侍女が受け止めた。

 不可視の力場が形成される。
 波動が起こる。波紋が起こった。

 目も眩む雷光、轟音、旋風。
 撒き散らされる部屋の書類やガラクタ。

 魔女は手の中に生まれた、赤い球状の何か。 
 血のような、林檎のようなもの。

「これは異世界のお伽噺だ。とある姫は悪い魔女に毒林檎を食べさせられて、命を失う」
「はい―――」
「マルガリーテス=エリュシオン。幼いながらいい覚悟だ。契約の毒林檎を受け取るがいい。それで初めてイオはお前の物になる」

 差し出される赤い球。
 下賜されるように膝を吐く少女の笑顔に揺らぎはなかった。

「魔女様。イオは物ではありません。イオはわたしの大事な、、、大事な人です」

 マリーは受け取った毒林檎を押し抱くと、赤い塊は薄い胸に吸い込まれた。

「熱い。とても熱い。魔女様、これが……」

 魔力(マナ)の暴風。魔法人形のイオにも負荷は大きい。
 瞳が燃えるように猛る。有るはずがない脳から体全身に、無いはずの心臓が燃える。
 息苦しさが消えない。
 熱はさらに高まった。
 

 ―――イオっ!―――

 
 人形は少女の名を叫んだはずで、声は轟音にかき消された。

【鍵】

 暗くて狭い部屋。
 扉には鍵が掛かっていた。

 彼女は鍵を持っていた。

 差し込んで回す。かちゃりと小気味よい音。
 
 彼女はこの部屋を知っていた。

 唯一、帰りたい場所。
 二度と戻れない場所。
 
 中に入って、小さな明りを点けると彼女を迎えてくれる。

 
 彼女の友人。親友。家族。
 彼女の妹であり、娘であり、―――。

 飾らない彼女をどこまでも受け入れてくれる大切な存在たちだ。

 ユリーシャ。
 耳の長い、弓矢を下げた少女が手を引いた。
 彼女をどこかに案内している。

 暗くて狭い部屋から通じる無限に続く回廊。
 やがて握られていたユリーシャの手は消えていた。

 回廊は、洞窟に挿げ変わる。
 ゴツゴツした路を裸足で歩む。

 躓いて、転んで、倒れても立ち上がる。

 胸の熱が、彼女を突き動かしていた。

 あるはずのないナニカが叫ぶ。
 居るはずのないダレカが呼んでいる。

(私を呼んでいる?)

 声は告げる。
 はっきりと、名を刻む。

 ―――イオ―――。

 イオは彼女の本当の名前ではない。

 それは、ただの草花の名前だ。

 彼女の名前に似ている。

 神秘で高貴とされる色彩の花。

 スミレと、ヴァイオラ。

 

 ―――イオ!―――。

 呼ばれると心が熱さを増した。
 
 
 赤い、赤い球がある。
 リンゴのように赤いもの。
 マグマのように熱い塊。

 赤は輪郭を形成する。
 長い髪を束ねた、小柄な少女の面影を生み出した。
 淡く灯る。

 手を取った。
 温かい小さな手だ。
 人間の小さな手。

 それはとても大きかった。

 指を掴むくらいがちょうどいい。
 人形には、それくらいがちょうど良かった。

 名前を呼んでくれる。
 少女が好きな草花からとった名前。
 少女が大好きな色の花の名前。

 少女のことが大好きな、人形の名前。

 イオ。
 ヴァイオラ花草(かそう)のイオ。

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