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『自分』とは


自分とは??みなさんはこの考えに、この壁に、ぶつかったことがあるだろうか?

私はまさに今その壁が高くどう乗り越えようものか、考えている。

というのも、私の今までは何かしら目標を持って生きてきた。

ただいつからか、『こうしたい』が少なくなってきてしまった。

よく言えば、欲が少ない従順な人間だ。日本人特有な感じ、なのかなとも思う。

悪く言えば芯がない、自分がない人間。ロボットのよう。

(きっと日本人の大半はこちらだ。そうでなければ大企業で従順に、毎回いうことの変わるよくわからない上司の言うことを聞き毎日憂鬱だと言いながらも通い続けられないだろうとも思う。)


個人事業もやっている身としては、さまざまな選択が日々目の前にやってくる中で、この欲がないというのはすごく悩ましいことである。

例えば、「これが食べたい」があれば毎日その欲に従って、もしくはたまに従うことによって幸福感を得ることもできるだろう。

ない場合は??答えは簡単、必要以上に悩む。
食べたいもの、、、特にないな、どうしよう?
あれもいいしこれもいいな、でもここに行くにはこれくらい時間がかかる、だとすればこっちにしようかな。

、、、、結局いつもの場所に行く、もしくは家にあるものを食べる、とルーティーン的にもなりがちだ。食べたいものを食べ幸福感を得るというよりは、生きるために食べている義務のような。



人間に決断するというのはすごく負担がかかるというのは聞いたことがある。
かの有名なスティーブ・ジョブズが同じ服を着ているのも決定するということの負担を知っているから、同じ服しか持たない。(数年前に聞いた話なので違ったらそこは読み手のあなたの頭の中で割愛してください。)

スティーブ・ジョブズは他に決定することが山ほどあるから、少しでも他の決断を減らし、精度を上げていたのだろう。。

そのために減らすというのは理解できるが、私の場合はそうではない。

その取捨選択をするための何か必要な芯がないのだ。


どうしたものか。

と他人事に考えてみて思う。

今まではわがまま娘と言われるくらい、あれやりたいこれやりたい、そしてこれはやりたくない絶対嫌だ、そんな人間だったのに。

いつの日からかそんなものはなくなっていった。

これが大人になるということなのだとしたらなんて残酷なんだろう。


このパティシエ人生において、この芯がないというのはなかなか致命傷だ。

だって、選択のしようがない。
ロボットのように毎日同じ職場に行き、仕事を進め、これはどうしたらいいだろうと多少考えることはあっても、とにかく毎日を生きているだけだ。

私たちの仲間にならないか?と声をかけてくれる人たちにも、返事のしようがない。今この瞬間も2件ほど答えを出さずに保留している。
なんでこんな私に声をかけてくれたのかと聞いてみると、『君ほど独立願望はないのに人のために尽くせる人はいない』と。


それは間違いない、必要以上にその人の意図を汲み取ろうとして疲れるくらいだ。

ただその人に尽くすかどうかは私の中でも基準がある。
私が『心から尊敬できるかどうか』が基準である。

言い換えれば、『私とは真逆のものを持っている人』であるか。

もっとわかりやすく言えば『芯や信念がそこにあるかどうか』である。

2件ほど保留している人たちにおいても、私の尊敬できる人たちである。
私に声がかかるのは烏滸がましいくらいの。


では、タイトルに戻ろう。
『自分』とは。

私は今、芯がない状態。こうしよう、こうしたいで決断するのではなく、条件や今の現状的にできるのかを総合的に判断してしまっている。

現実を見すぎたのか?リアリストすぎるなと笑える。

今はこのリアリスト状態であるというのが自分だ。

じゃあこの後からどうしたらいいかなんてわからないから、ここでこの記事の結論は出ている。


この記事を書こうなんて思ったのも私の状態を俯瞰してみるためだ。

じゃあ、こうしたい、こうしようなどの欲がある人たちと私とでは、何が違うのだろうか。

どうしたらこのリアリスト状態を抜け出せるのであろうか。

誰か優しい方、なんか悩んでんなぁ!と喝を入れてくれる方、コメントでもしてくださったら嬉しいです。

また気が向いたらノートに現れます、では。

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