「愛知の聖火リレーで男性限定区間」という報道について。

2021/4/7初稿。

権利とか平等の問題が、「くだらない」とか「いい加減あきれた」という言葉で片付けられてしまわないように、上で挙げた記事で取り上げられている問題が実際には男女差別と根っこの部分でしっかりと繋がっている問題であることについて検討(というか、もはや検討するまでもないくらい明らかな事実についての確認)をしようと思います。


早速、上で挙げた記事から一部抜粋。


「女人禁制に詳しい鈴木正崇・慶応大名誉教授(文化人類学)は『祭りに使う舟は神様を迎え祭るためのもので、女性を乗せることは禁忌とされてきた』として伝統が維持されてきたことを指摘。その上で『そもそも神事舟をなぜ聖火リレーで使うのか疑問。祭りとイベントを分けて考えるべきだ』と、聖火リレーにそぐわないとの考えを示した。」


「スポーツとジェンダーの問題に詳しい來田享子・中京大教授は『誰も疑問に感じずに決められてしまったこと自体にジェンダーの視点が入っていないという問題がある』と話している。」


ここで引用した鈴木氏と來田氏の指摘は至極妥当なもので、簡単にポイントになりそうなところをまとめるならば、伝統的に女性を乗せることが禁忌とされてきた舟を用いらざるを得ない祭り、つまりその実施過程で女性を構造的に排除せざるを得ない祭りが、憲章における基本理念の一つとして性別に基づくいかなる差別も容認しないとすることを掲げるオリンピックの一環である聖火リレーの実施舞台の一つとして承認されてしまったこと、そして実際に聖火リレーの一環としての祭りにおいて舟に乗る人が男性限定にされてしまったこと、さらにはその承認が「誰も疑問に感じずに決められてしまったこと」が大きな問題であり、ジェンダーに関する重大な認識の欠如の現れであるということです。


要点を整理すると、

(1) 性別に基づくいかなる差別も認めない祭典(イベント)の舞台の一環としてであるにも拘らず、構造的に女性を排除する祭りが選択されてしまったこと、すなわち第一に個人の性によらない機会の形式的な平等が蔑ろにされてしまったこと。

(2) そのイベントの実施を決める過程において、何の疑問も持たれないまま男性のみが参加する(できる)ことが承認されてしまったこと、すなわち、(1)の状況に重ねられる形で性別に基づくいかなる差別も認めないイベントの舞台の一環であるにもかかわらず個人の性によらない機会の実質的な平等さえも蔑ろにされてしまったこと。

という、大きく分けて二点が上で挙げた記事では重大な問題であると指摘されているのであり、当該記事をしっかり読めば、まさにこの問題が今後具体的に検討・追求されるべきポイントとして提示されていることがはっきりと読み取れます。


したがって注意したいのは、当該記事では検討しなければならない具体的論点としてまさに上で確認した太字部分及び要点(1)(2)についてしか言及されておらず、「時代に合わない伝統文化は廃するべきだ」とか「ちんとろ祭りは女性差別だ」といったことについては、(明示的にも暗示的にも)何も言われていないということです。


つまりそのような(他にも似たような読解の仕方があるかもしれませんがそれも含め)当該記事の読み取り方及びそれに基づいて問いを立てることはあまり適切であるとは言えず、したがってTwitter等でよく見受けられる少し議論の方向がねじれた意見として「ちんとろ祭りが女性差別なら女性専用車両やレディースデーは男性差別だ」とか、「ギリシャでは男子禁制の祭事があるけど男性差別じゃないの?責めるならギリシャもだよね」とかいう論点を掲げているものについては(これらが単に平等や差別に関する認識の過誤に基づく不当な議論であることは一旦置いておいて)、当該記事からは全く読み取ることのできない視点であるとしか言えないのではないでしょうか。


さて、ここまでを踏まえた上で我々が立てうる問いの一つとして、「女人禁制の祭りは女性差別にあたるか」ということについては挙げられると考えられます。ということで、この問題について検討しつつ、少し敷衍して、「ちんとろ祭りが女性差別なら女性専用車両やレディースデーは男性差別だ」とか「ギリシャでは男子禁制の祭事があるけど男性差別じゃないの?責めるならギリシャもだよね」といった言葉に見られる平等や差別という概念に関する誤謬についても触れたいと思いましたが、一旦ここまでで投稿します。そのうち続きは書くつもりです。

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