捕鯨問題について考える。

こんにちは~『水族館マイスター』の海です🐟

これまでは、水族館を中心に記事を書いてきましたが、政治的な話題にも足を踏み入れたいと思います。今回は捕鯨問題。直近では、日本がIWCを脱退して話題になりましたね。この記事は捕鯨問題賛成派の立場で記事を書いています。

反捕鯨国家vs捕鯨国家という構図で火種が燻っているこの問題ですが、何がこの問題の論点なのか非常にわかりにくいテーマであります。

『鯨は高等な哺乳類だから、人間に近い=感情を持つから捕獲してはいけない。』という理屈は頭では理解できますが、動物愛護団体が多額の費用を使い対外的に調査捕鯨を妨害したり実力行使をするまで国際的に干渉しようとしているのは甚だ疑問です。なぜ、この問題に関して、これほど熱を入れて彼らは活動しているのでしょうか。

今日は少しここら辺に関する疑問を考えるとともに、捕鯨賛成派の立場から論じていきたいと思います。

論点①:クジラは絶滅危惧種である。

クジラは回遊性の生き物です。こういった資源が国を超えて移動する場合は、国際的に強調して資源を保全する必要があります。マグロやウナギなども同じですね。では、実際のところクジラ資源はどのような状況なのでしょうか??

クジラと一口に言えども、世界には80種類ほどのクジラが存在します。もちろんシロナガスクジラなど絶滅に瀕しているクジラもおりますが、日本が捕獲対象としているミンククジラ等は非常に頭数の多いクジラ。むしろこれらのクジラ資源が増えすぎて生態系に悪影響を与えているという見解も一部で存在するほどです。クジラが絶滅の危機に瀕しているという指摘は言葉自体は間違いではないですが、日本が捕獲しているクジラには当てはまらないということです。

論点②:クジラは日本の食文化として根付いている。

海洋国家である日本には、昔から全国各地で捕鯨の文化が根付いています。一つ付け加えるならば、確かに南極海での捕鯨は歴史あるものではないかもしれません。しかし、高度経済成長期以降、日本の人口が拡大されたことを考えれば需要に応じて供給先の選択肢が増えるのは当然の話でしょう。文化の延長と捉えれば捕獲してきた場所の歴史の有無は問題ではありません。

論点③:クジラは高等な知能を持つ生物であるため、殺すのは残忍。

これは、水産庁の捕鯨に関するQ&Aを見て、非常に納得したのですが、人間は様々な民族や国民が様々な生き物に特別の地位を与えていて、例えばインドでは牛は神聖な生物とされ、食べることは許されません。しかし、インドは他国に牛を食べるなと強制しているかと言われればそうではありません。ヒンドゥー教徒は他国に言ったとしても、牛肉を食べないように自制することでグローバル社会でも信仰を維持しているのです。

クジラに関しても、動物愛護団体のスター的な生物になっていて彼らにとっては信仰の対象であるかもしれませんが、それを他者に強制するのは勝手が違います。自身の信仰を基に他者の自由を侵害することは日本国憲法にも世界の潮流にも反する結果となるでしょう。


まとめ

この問題、深入りすればするほど欧米的な価値観の他地域への押し付けであるとしか思えません。彼らにとっての保護すべきマイノリティは『クジラ等の高等哺乳類』なのでしょうが、その前に我々クジラを食文化としている人間がマイノリティにされて廃絶されようとしている側面にも注目しなければなりません。
適切な資源保護が行われている限り、自国の捕獲枠内での捕鯨は認められるべきです。
その捕獲枠を使うも使わないもその国の自由です。

クジラの消費量など僅かで需要も少ないのだから、そこまでこの問題に労力を割く必要もないのではとの主張もあるかと思います。しかし、需要が少ない=食卓のメニューの選択肢から完全に消しても構わないというのは訳が違います。じゃあ、例えばゴーヤの消費量が他の野菜より少ないから、食事の選択肢から外しても構わないのかと言われたらそうではないでしょう。他国からの外圧により、我々日本人の食や文化の自由、選択肢が奪われることがあってはなりません。

外交面で日本がイニシアチブをとり、他の捕鯨国家を巻き込み、持続的な商業捕鯨の枠組みを形成していかねばなりません。今後も外圧に耐えながら粘り強く捕鯨賛成の立場を維持していく必要があります。

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