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演劇のおもしろい 第9回 集団について

今日のテーマは「集団」。

実際は、このテーマを立てたレッスンはできなかった。
「集団」について、みんなで考えてみたいことは多いのだが、オンラインでの参加が多くなってくると、どうにもむずかしかった。

集団って、それこそネット上で名前も顔も知らない人たちが集まっても「集団」なのだろうけど、ここでは実際に集い「時と場を共有する人たち」としておく。実際にその時その場に人がいることによって働く力があって、なにをするにしても人が集まると互いに影響し合うよねっていう、ものすごく当たり前のことなんだけど、その当たり前を一度丁寧に確認し合う…そんなプログラムができたらなと思っていたのだが、それにはやはり実際に集まれないとね…。

ただ、このクラスもレッスンのために特定の人間が決められた場所と時間に集まり活動をしているのだから、一つの集団であるわけだ(これも当たり前だが)。
なので、これまでのレッスンをあらためて「集団」という視点から振り返ってもみてもらえると、このあとの話が見えやすかもしれない。

さて、

まずは、こんな運動会の質問をしてみる。

子どもたちと「集団」について考えるときに、よくこの話をするなのだが。
では、質問です。

運動会の季節となりました。
あなたは出場する種目を選ばなくてはならなりません。種目は「徒競走」と「チーム対抗リレー」の二つがあり、そのどちらかをあなたは選ぶことができます。
どちらも走る距離は同じ100メートル、「より速く走る」ことが求めらる競技です。
せっかくの運動会、あなたの「より速く走る」というパフォーマンスがより発揮できる種目を選びたいですね。

さて、あなたはどちらを選ぶ?

徒競走は、個人競技。
横一線に並んで、位置について、よーい、どん! で走り出す。条件はみな同じ。直線100メートル先のゴールをより速く通過した者から順位がつき、一番速かった者が優勝。おめでとう。

チーム対抗リレーは、団体戦。
ひとりが走る距離は徒競走と同じだが、100メートル先にはゴールではなく仲間が待っている。手を伸ばし、バトンを渡すとともに仲間に勝負をあづける。それがまた次の走者へとつながっていく。

どちらがいいとか悪いとかではない。種目に優劣はない。

自分のパフォーマンスがよくなるは、どっちだろうと想像してみてほしい。

本番に向けて、ストイックに練習を積み重ねられるタイプの人がいる。そういった人は徒競走が向いているかもしれない。
自分のこれまでのタイム、身体的な有利と不利、それによる練習方法など、分析や理解ができているのであれば、効率的に準備を進められる。
また、責任感を感じやすい人は、個人戦の方が落着いて練習に励めるかもしれない。走ることに自信のない人は特にそうかもしれない。「自分のせいで負けた」となるのは誰だって嫌なものだ。

ただ、どうだろう…走ることに自信のない人は、最後まで全力で走りきることができるだろうか。
走ることに自信がある人、先頭争いに加われる人、勝てる人はそれこそコンマ何秒の差を競いながらゴールテープを切るまで全力のパフォーマンスを見せるだろう。しかし、先頭争いに加われない人、最後尾の走者、あるいは途中で転んでしまった者は、どこまで全力のパフォーマンスができるだろうか…。

それに比べて、チーム対抗リレーでは、足が速かろうが遅かろうが、全力で最後まで走ることができる。いや走らなければならない。
自信がなくても、その手にバトンが強く渡された瞬間、なにかのスイッチが入る。仲間も応援してくれる。途中で転んでも、膝をすりむいても中継地点で待つ仲間に僅かでも速くバトンを渡そうとする。その人の脚力やモチベーションと関係なく、誰もが「走らなければ」モードに入る…そんな気がしない?

なんだか、リレーの方がよく見えるように書いてしまっているな…。
実際は、子どもたちに手を上げてもらうと、だいたい半々くらいになる。
繰り返すけど、種目に優劣はない。そしてこの問いに、

どっちが正解ってことはない。ただその違いに目配りしてみたい。

なんだかんだリレーに肩入れするように書いてしまっているのは、子どもの頃のニシワキ少年はまったくチーム対抗リレー派だったからではある。足は速くも遅くもなかったけど、どうにも「競走すること」が苦手だった。一等賞をとれるかどうかとなると、必ずといっていいほど競り負ける。プレッシャーに弱いし、ネバリとか、最後のひと踏ん張りとかも効かない。
でも、リレーは大好きだった。とにかく燃えるし、楽しい。

だからなんだ?って話になってきた。
「集団」について、考えていたのだった。

言ってしまうと、このクラスもそうなのだが、ニシワキはチーム対抗リレー方式でレッスンにのぞんでいる。初心者も経験者も達人も、演技のパフォーマンスが上がるために全力を尽くせるからだ。コケても、間違っても、大した問題じゃない。とはいっても、本人は気にするだろうけど。

しかしだ、チーム内では間違いや失敗は、あまり気にしてもしかたがない。うまくいかないことに責任を感じ「借りを返さなきゃ…」みたいなのはなるべくなら避けたい。それを気にし出すと、損得を勘定しなくてはならなくなる。自分の失敗を挽回するためには、なにをどのくらい取りもどさなければ(それを損得感情という、ウソ)…と自分のパフォーマンスを秤にかけて、数値化して…となってその目盛りが目的となっていく。
そこからはあまり驚きは生まれない。ドラマは生まれない。

運動会のチーム対抗リレーにしたって、勝ったチームの最終ランナーがゴールして、じゃチーム全員で何分何秒で走りきったか、なんてことはどうでもいいことで。そこまでバトンを繋ぎながら、抜かれたり、足が引っかかったり、追いつき追い越し、譲らなかったり、転んだりとドラマがあって、だれも思いもしないパフォーマンスがそこに現れたりする。それは自分でいくら計算しても出てこないものではないかな。

とは言いつつもだ、実際の演劇活動を考えてみるとチーム戦ばかりではない。キャスティングやオーディションといった場合は、やはり個人戦となる。
自分と誰かが比べられ、いつもの仲間と競い合わなければならないこともある。緊張やプレッシャーを誰かと分け合うことは難しい。選ばれる者は限られ、勝ちたいと強く願うほど、結果が残酷になることもある。

公演が決まった、キャストが決まった、さあ稽古だ、リハーサルだとなると、その創造の現場は集団の作業がメインとなる。チーム戦だ。
もちろんセリフを憶えたり、作品の資料を読み込んだり、俳優は俳優の個人作業ってものがある。前の回であつかった「サブテキスト」について想像力を膨らませ、台本を深読みするなんてのは俳優個人の頑張りどころで、実はそういう地味な個人作業がその俳優の魅力や個性といったものに結びつく(気がする)。そこはやはり個人戦だ。
けれど、それぞれの作業で全てが完了することはなく、作品が生まれるのはやはり集団による現場からだったりする。

なんだか話は「個人」と「集団」の間を行ったり来たりしていて、ちっとも前に進んでいないが。
なにが言いたいかというと、

つまりは「集団って、大事だよ」ってことなんだけど。

そもそも演技ってひとりじゃなかなか成立しない。
ひとり芝居ってのもあるけど、それにしたって演出家がいたりスタッフがいたりして、「いや、それも全部ひとりでやります!」という三刀流なのか四刀流なのか「ひとりでなんでもできるぜ!」っていうもの凄いスーパーマンみたいな俳優がいたとしても、本番は観客がやってきてそこに集団がつくられるわけだ。演劇をやっていると「集団」を考えずにはいられない。

「集団」と「演技」についてもう少し具体的に考えてみよう。

これもよく子どもたちにする喩えだが、ある芝居で「王さま」の役があたったとする。王さまは誰よりも偉い存在だ。
そこであなたがいくら偉そうな言い回しや態度をしたところで、その演技だけでは「王さま」は現われてこない。

簡単なのは、その場にる家来から「王さま」と呼ばれることだ。もちろんそこには畏れや敬意がなければならない。「王さま」と直接呼ぶことが説明的ならば、言葉がなくてもかまわない。大臣や兵隊が、膝をついたり、頭を下げればいい。
大事なのは、まわりの者があなたのことを「王さま」として扱うこと。そして、あなたが家来たちを下の者として扱うこと。その関係性の中に「王さま」が現われる。

これは「王さま」に限らない。家族を描く物語ならば、父親は息子や娘をそのようにあつかい、その家族の関係性の中で「父」となる。物語の舞台が会社なら上司や部下の関係、学校ならば教師や生徒、友人といった関係の中でその人物が現われるということだ。

個人プレーだけでは、演技は成立しない。
いくら贅沢な衣裳を身にまとい熱演しても、関係性の中にその役を見つけなければ、あなたは「裸の王さま」にしかなれない。
そう考えると、演劇にとって「集団」って大事でしょ。

長くなってきたが、もう少しだけメモしておく。
ニシワキが、演劇活動の中で「集団」を強調するのは、

「私」をあまり肥大化させないためでもある。

演劇に限らずだけど、なにかを表現するとなると「私」というものをどうしても意識する。おそらく日常の生活の場より強く意識するはず。

学校で先生に言われたことないですか。図画の時間に「あなたの(私の)感じたまま描いていいのよ」とか、作文の時間に「あなたの(私の)思ったまま書いてみましょう」とか。
で、「そうか、なにかを感じているんだ、私は…」「今なにかを感じなきゃいけないんだ、私は…」ってなったことない? ニシワキはある。そしてものすごく絵を描くこと、作文が苦手だった(今も)。

そもそも「私」って、むずかしくない?
「私」って確かにあるんだけど、でも自分でも「私」ことがよくわからなかったり、うまく説明できなかったりしていないだろうか?

少し距離をとって、「私」を眺めてみることにする。

近代になって、わたしたちは「私がいる」、独立した「個人がある」という前提で社会を作っている。個人の意志や自由は尊重され、近代的自我を確立し、我々は近代市民社会を形成するにいたるわけだ。ほんとに実現できているのかは、あやしいけど、そういう建前でいる。

近代演劇もまた、「私がいる」「個人がある」ことを前提とした作品と考えてみる。近代演劇ってなんだ?って話にもなるけれど、とりあえず今わたしたちがジャンルを特定せず「演じる」といって思い浮かべるのが、近代演劇。時代劇とかコントとか前衛とか、なにか注を付けないと勘違いされるなと思うスタイルでなければ、近代演劇…うーん、乱暴すぎるか。

その作品の設定がどこだろうと、いつの時代だろうと、ひとまずそれは関係がない。古代ローマだろうが、未来の宇宙空間だろうが、「私」という存在がある、個人という価値観がある、その人間観の上にドラマが展開されていると、近代を生きる私たちはその物語の人物に共感しやすい。

浦島太郎が竜宮城から帰ったとき、村の風景がすっかり変わっていた。そこで玉手箱を開けてみると、煙が立ち上り太郎の姿はお爺さんに…という展開だけでは、わたしたちは浦島太郎に感情移入できない。
変わってしまった風景、顔の知らない村人たち…ここはどこ?「私」はだれ?とその存在を揺さぶられ、はい、そこでセリフ!

浦島太郎 「父さーん!母さーん!」

と叫べども、返ってくるのは波の音ばかり…。
なんて表現になるだけで少し太郎のことを理解できたりする。(ホントか?)

もちろんこの世界には様々な演劇があって、近代演劇だけが演劇ではない。それこそ前衛として近代のその先を行こうする表現は、その「私がいる」という前提を疑ったり否定したり…とどんどんややこしくなっていくのでここまでにするけど、それにしても疑ったり否定したりするのも、それが近代の前提であるからだったりする。

なんだか「私がいる」なんて当たり前過ぎて、逆にピンとこないかもしれないが。

でだ。
どうにもこうにも、わたしたちは「私」を必要としているらしくて、なにかを表現するときも「私」を頼りにしてしまうし、

表現って「私」からはじまる(と考えちゃう)。

私がどのように考えたか、私がなにを感じたか、私がいかに傷ついたか、私がなにを決断し、私はどのように困難を乗り越えたか。
国語の授業で作文を書かされるように「私」がある。

でも、それって(このシーズンのどこかでも書いたが)、自分の演技に対して「私が感じているんだから、これが正解」に陥りやすい。ヘタをすると演技が自意識の固まりになりバッティングマシンのボールみたいに舞台上から機関銃のように連投され観客は気を失ったりする。いや、しないけど、見る気は失せる。

自意識はなかなか捨てられないし、無理に捨てる必要もないけれど、それ自体が演技の核にはならない。自意識の使い道はモニターの役目しかないだろう。だから自意識は必要なのだし、使い道を間違えて肥大化させてはいけない。

「演じる」とき、頼りにしていいのは「私」への意識ではなく、「私の外側」への意識かもしれない。

演技は、とても繊細なもの。
しかしそれは「私」に対してナイーブになるのではなくて、「私」の外側にあるものに繊細な感覚を持つ、ってことに違いない。感度を上げよう。
私の外側には、一人ひとり俳優がいて、その集団に私もいる。舞台上で交わすアイコンタクト、耳に届く相手役の声、せりふ、背後の足音、気配…舞台は動的なもので、「間」や「暗転」といった静の瞬間も動的なものだ。静のための静の時間ではない。その躍動を感じること、ダイナミックレンジは広い方がいい。

私となにものかとの関係性の中で演じる。バトンを繋いでいくリレー選手のように。ボールを繋いでいくサッカー選手を想起してもいい。
その有機的で動的な「集団」は、それを構成するメンバーのパフォーマンスに影響を与える。
ニシワキは、そう考えてます。

「集団」によって、私のパフォーマンスは変わる。

演劇の場合、時に決定的に。

次回は、このシーズンのまとめです。
まとまるかな…自信はないけど、

また来週。


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