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ベニス・ミラノ(イタリア)からアムステルダム(オランダ)へ <旅日記第55回Nov.1995>

 1月の阪神大震災、3月の地下鉄サリン事件が続き、日本の「安定」をぐらつかせる契機となった1995年も晩秋を迎えている。

 秋の入り口のほうではチェコのユースホステルのロビーにあったテレビで、ユニフォームの袖に「がんばろうkobe」のロゴを入れたイチローら神戸オリックスの戦士たちがリーグ優勝に歓喜する姿を見た。

 「頑張れば復活することができる。まだまだ日本は大丈夫である」。と、だれもが信じていた。

 当時、独身で30代半ばだったわたしは、かねてよりの海外への夢を実現させるのはこの時期しかないと、読売新聞記者の「安定」と、「夢」を等価交換できる余裕を保つことができていた。

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 夏冬それぞれにたっぷりとあったボーナスを米ドル預金にし、世界どこでもキャッシングできるようにして多額現金を持ち歩かずに、自由な旅ができた。この旅を終えたら、松阪に帰ると決め、成田を出て3か月がたとうとしていた。

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 11月になっても豊熟の秋に彩られたイタリアだったが、さすがに11月も下旬に入れば、ここベニスのサン・マルコ広場の午後のたっぷりな日差しも長い影を感じるようになった。

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自分の“影”

 が、キラキラと日差しを照らす海面高い海に面した広場の陽だまりは心地よく、広場とサン・マルコ寺院との間の回廊の日陰ではホームレスが一人、ベンチにゆったりと腰かけたまま快適な午睡の中にあった。ホームレスという暗さは感じず、その様子が、あまりに絵になる美しさを感じた。

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 大変失礼ながら、本人に断りもなく、こっそりとカメラのシャッターを切り続けた。

 困ったのは、わたしを真似して写真を撮る観光客の人だかりが出来たことだった。

 しかし、わたしが狙った構図は、寺院の回廊のシルエットと陽だまりとの対比、そして、その陽だまりの恵みを満喫する睡眠だった。世界的に見れば、ジャーナリストの多くが不安定なフリーランスという中にあって、たいへん恵まれた「スタッフ・ライター」という記者の地位を捨てこの旅に出た私自身がその後出くわすであろう未知の怖さを描いたわけではなかったが、それを感じた一枚だったのかもしれない。

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 わたしのベニスの旅は、鉄道の駅とサン・マルコ広場を歩いて往復したぐらいで、この一枚の写真がすべてであった気がする。

 無銭飲食のホームレスのおじさんにお土産のピザさえコートのポケットにねじ込んであげた屋台のおやじの底抜けの人情を見た貧しい南のナポリの下町から、裕福な北イタリアの都会ミラノに近づきつつある。それに伴って旅は面白くなくなる。ベニスのあとはお昼にミラノに着くが、ほんの少し街を歩いただけでいいところも見つける努力もせずに、ベニスの2倍近い値段のする宿泊所に引き返し、翌朝6時には起きて、イタリアを出国することにした。

フランスがストに入った!

 寒いところは嫌だから、鉄道で南仏を経て、スペインに向かおうと、フランスのニース行きの国際列車に乗った。もちろん、高級リゾートのニースに宿泊する“用意”は持っていないので車窓の風景だけでパスをし、漁師の名物料理ブイヤーベースを当てにして港町マルセイユで下車しようと考えていた。  

 ところが、なんとも運の悪いことにフランス国内の鉄道は突如全面ストに入ってしまった。「鉄道のストぐらいすぐに終わるさ」と、かつての日本の国鉄のストぐらいに考えていた自分が甘かった。ストの収束まで1か月ぐらいかかるらしい。さすがは革命を起こし、一時はプロレタリアート独裁の政権を樹立したフランスだ。国境に近いジェノバで折り返し、スイスを経てベルギーのブリュッセルに向かうことにした。

 しかし、フランスのストの影響で国際列車の車両のやりくりが大変なのだろう。乗り換えに次ぐ乗り換えと、動いているのか止まっているのかさえわからないようなノロノロ運転と行き先変更のアナウンスの連続。そのたびに別の列車に乗り換える。ヨーロッパの鉄道は大混乱だった。

 こんなときも世界のバックパッカーたちは、フランス国内を格安バスで通り抜けるという話を聞いたが、わたしはこの年の年末まで有効のヨーロッパの鉄道乗り放題チケットである「ユーレール・パス」を持参しているのでゆっくりと身を委ねることにする。

 どうやらスイスに向かっているようだ。車窓は雪一色に覆われた山々で、谷も深い。客車は窓が大きく、おしゃれなものに替っていた。夏の観光シーズンには大勢のリゾート客の歓声が聞かれることだろう。乗り換えを待つ間、一度はスイスの空気を吸っておきたいと外に出たが、雪ばかりでその風景の良さなどわからない。

 しかも、物価がべらぼうに高い。イタリアの通貨リラの桁がいくつもゼロが削り取られていく感触だ。スイスのチョコレート一箱が、イタリアの宿一泊分のような気がして、すぐにこの国は発つことにした。よって、わたしのスイス滞在はほんの20分足らずとなった。

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 ミラノを午前7時10分発のニース行きの列車に乗り、一応の目的地に着いたのは翌朝9時40分だった。26時間半も列車に乗っていたことになる。この旅でヨーロッパに着いたとき、記念すべき第一歩を記したアムステルダムに到着した。

街の輪郭を知っているアムステルダムに帰ってきた。

疲れているときは知らない街であくせくと宿を探すより、頭に街の輪郭が入っているところのほうがよい。東京駅の丸の内口とデザインが似たアムステルダム中央駅を背に、小さな懐かしいホテルに向かって歩いた。さっぱりとした空気感漂うアムステルダムの街は疲れた身に心地よい。  

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         (1995年11月23日~27日)

てらこや新聞145-146号 2017年 07月 30日

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