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映画宣伝が慢性的に抱える問題“ジャンルウォッシュ”がいよいよ深刻な状態になっている話

イギリス・香港の国際共同製作映画『モンスーン』の日本版ビジュアルが解禁されたのをきっかけにSNS上で大きな議論が巻き起こっていた。

『モンスーン』のオリジナルのビジュアルは主人公の男と同性の恋愛相手がふたり写ったものだった。しかし日本版ビジュアルでは相手の姿をわざわざ消してひとりのカットとして見せていることが発端となった議論である。

『summer of 85』の公開の際、ティザービジュアルにおいてバイセクシャルの男性キャラクターのピアスを修正し消したこともこれと似たようなケースであるとして話題に上がっているのも見かけた。

これらのクリエイティブが何を狙ってどのような経緯で出来上がったのかわからない。そこにはたくさんの狙いや事情があったのだと思う。裏側を知らない僕がビジュアルそのものについてあーだこーだ論じるのはフェアじゃないと思うので言及するのは避ける。ただいずれにせよ、ここで議論となっているのは「ウォッシング」の問題だ。

「ウォッシング」とは本来の意味を書き換え、上辺を取り繕うことを言う。例えば、環境に意識の高い消費者に対して、自然にやさしいもの商品だと誇大に謳ったPR手法は「グリーンウォッシュ」と呼ばれ非難される。

映画業界では、原作の設定で非白人のキャラクターだったものを映画化に伴なって白人が演じてしまう「ホワイトウォッシュ」に人種差別意識が根強く現れていると批判されるのと同様に近年「ストレートウォッシュ」も問題となっている。物語のキャラクターは同性愛者にもかかわらず、それを演じる俳優は異性愛者(=ストレート)であることが多い。同性愛が描かれる映画なのに、あえてそれを隠すようなプロモーションを行われる(ひどい時には異性愛であるかのように"見せかける")ことは何度も目にするところだろう。

マイノリティの尊厳を、商業的な理由により傷つけ否定することはあってはいけないことだ。今回のケースで実際のところはわからないが、もしも同性の恋愛が描かれることでその映画を観る人が減る、と判断しウォッシングがあったのだとしたらそれは間違いなく「加害」であると思う。その映画が主人公に選んだ彼らの人生の否定であるからだ。そして映画の作り手は間違いなく、主人公に選んだ彼らを肯定し、祝福することを目的に作品を完成させたであろうからだ。

映画に限らず、PRや広告においてマスを狙うために人権の侵害があるようなケースがなくなることを心から願うと同時に、自らもそこに加担してしまう可能性があることを自覚してクリエイティブに携わっていく必要を改めて感じている。

今回は、人権的視点からの問題に加えてもうひとつ、映画宣伝が慢性的に抱える問題を思い起こさせた。

ひとりの映画ファンとして、現場の人間として、僕が出会う宣伝の多くに感じている問題に「その映画のジャンルを敢えて正しく伝えない」というのがある。

例えば、本当はホラーなんだけどラブストーリーのように見せて宣伝するとか、ゆったりとしたテンポの映画を派手な装丁やコピーによってポップな活劇として見せかけるとか、2番手3番手で出演する有名俳優を主演であるかのようにポスターをつくるとか、出てくるのにもかかわらずまるで宇宙人なんて出てこないようにするとかだ。こうやって取り繕うことは悪質な「ジャンルウォッシュ」だと思う。そしてその多くは意図的なものだ。

映画宣伝の目指すことは当たり前のように「ひとりでも多くの人に作品を観てもらう」ことだが、ゴールを達成しようとするあまり、作品本来の魅力がねじ曲がっているケースが少なくない。

実際、宣伝の狙いで「興味を持つ人が増えるように見せ方を工夫した」というものは多い。その気持ちは痛いほどわかる。しかしこれを「悪質」だと感じる理由は、こういった取り繕い(=ウォッシング)が長期的にみると映画ファンを減らしているからである。

観客が映画を選ぶ際に最も重視されることのひとつは「間違いなさそうかどうか」である。ただでさえ現代のライフスタイルと合わなくなってきている映画。高い料金を払い、2時間オフライン状態で一つの場所に止まることをしてまで選んだ映画で失敗したくないという感覚もある。キュレーションやレコメンドによって映画に行くことの背中を押してあげられるのと同様に、観客は潜在的に宣伝には信頼感を求めている。

「ジャンルウォッシュ」によって、SFアクション大作を期待する観客に対しお家騒動を巡る会話劇を観せることで、最も大切な「信頼」を失っているのである。裏切られた観客は二度と劇場に戻ってこないと思った方がいい。

それでも宣伝の会議では連日「今作は本当は〇〇な映画なんだけどそれだと観にきてくれる人が少ないから△△のように見せて宣伝しよう」といった話し合いがされている。(本当に多い)

ウォッシングが、もはや文化になってしまっているのだと思う。

長い期間、初動偏重型の興行が行われてきた歴史がある。最初の金土日の成績次第で翌週からの上映回数や打ち切りが決まるという仕組みのため、時間をかけて口コミで広げてファンを育てていきましょうという作戦はほとんど取れない。最初に人が押し寄せない限り、時間をかけて広げていくことも許されない。これにより映画宣伝の至上命題が「ひとりでも多くの人に観せる」から「ひとりでも多くの人に初週に劇場に足を運ばせる」にいつの間にか置き換わっている。これらは似ているようで「=」ではない。ともあれ、公開初日が宣伝のゴールになっていて、公開を迎えると宣伝スタッフはいなくなり、また次のプロジェクトに合流していくサイクルが出来上がってしまった。公開初日に人を集中させるため"見せかけ"によって作ったリーチと引き換えに「思ってたのと違った」という感想を山のように産み、信頼を失い続けてきのだ。

この状況を改善するのは簡単なことでないし、長い道のりだと思う。宣伝だけの問題ではもちろんなく劇場・配給・広告システムの問題もある。しかし、取り組んでいくしかない。時間をかけて失った信頼を取り戻すしかない。届ける側の文化から、変えていくしかない。

作品本来の魅力を信じきれず、尊厳を傷つけるようなウォッシングを行うPRもまた、加害性を孕んでいる。

宣伝はプッシュ型からプル型に変わる必要がある。短期大量消費のマス広告のやり方ではなく、作品の魅力が伝わるであろう人を見つけ、丁寧に届ける。公開後も口コミひとつひとつにゆっくり向き合い続ける。

ひとりでも多くの人に知ってもらうために見せかける前に、まずは作品本来の魅力に真摯に向き合い、作品の意図をねじ曲げることなくそのまま愛してくれるファンがどこにいるか探してくることに挑戦したい。大袈裟でなく、ひとりひとり見つけて届けていく。作品を気に入った観客が、次の観客を呼んでくる。時間のかかるやり方かもしれないが、おそらく状況を好転させるにはこれしかない。

ひょっとしたら手遅れなのかもしれないと頭をよぎることもある。ものすごく時間のかかることだと思う。それでも、どれだけ老いていても、今日の自分が今後の人生で一番若い。今しかないと思う。ゆっくり、やってみよう。

2021.10.18



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