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高齢者の「死にたい」はあてにならない

入院中、母はずっと「もう死にたい」と言っていたそう。それもあって、ドクターは私に看取りを提案したのだろう。パーキンソン病が進んでいるし、このままいけば寝たきりは必至。子どもはコロナで会えないし、確かにもう希望を持てないよな、と共感できるところがあった。

しかし、それは間違っていた。家では、私が何かするたびに「早く〜」と言うので、せっかちな母がマイペースな私の行動にイラついているのかと思っていた。でも、ある日「早く〜早く!死んじゃう」と叫んだ。あれま、そう言うことだったのか。輸液だけじゃなくて、早く飯を持って来いと。

そういえば、お見舞いに行ったときも「ここの人はご飯をくれない。何度も頼んだけれど、持ってこないのであきらめた」と言っていたっけ。「他の人にご飯を持って行ったら、それ(ご飯)は、私の!」と言われたこともありますよと看護師さん。言葉と行動が真逆。
「死にたい」と「まだ生きたい」の間を行ったり来たりしていたんだな。

高齢者の「死にたい」は、「こんな状況が続くのなら、死にたい」ということ。条件付きというわけで、あてにはならない。どうにかしてほしい!という意味が大きかったのだろう。

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