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介護卒業

「曇っているから空の色はいまひとつやけど、緑はきれいなあ」と父は言った。白いふさふさの髪はいよいよ白く、窓から入る淡い光を受けてキラキラと輝いている。

3日前に入居したばかりの老人ホームの部屋には、カーテンに囲われたトイレと、ベッドと、クローゼットだけ。父は、入居のときに、私が肩に担いで持ち込んだ折り畳みの椅子に座っている。がらんと広い部屋で、背筋をすっと伸ばして、窓の外を見ている。

深夜に家で倒れて、病院に入院して1か月足らずで急激に痩せた。退院後、自宅で過ごした数日間、食は全く細っていなかったけれど、もう体が栄養を吸収できないのだろうか。体重は50キロを切っているかもしれない。
家を恋しがる様子はない。落ち着いて静かに、ちんまりと折りたたみいすに父は座っていた。私のことを見つめる目は、あなたはどなたですか、と告げている。

私は、父が48歳のときに奇跡的に授かったたったひとりの娘だった。大切に大切に育ててくれた。日本であれば、奇形児になるリスクが高すぎると堕胎されようとしていた小さな私の命を、日本がだめならアメリカで、と単身赴任先のアメリカの病院に駆け込んで救ってくれた。何度も何度も話してくれたアメリカの記憶はどこへ行ってしまったの?

当時、アメリカで忙しく仕事をしていた父に、日本にいる母から国際電話がかかってきた。「赤ちゃんができた」「犬の子か」「私たちの」「ほんまに僕の子か」「なにいうてんの」。結婚14年ぶりに初めて授かった赤ちゃんだった。母はまさか妊娠しているとは思わず、健康診断で腹部のレントゲン撮影をし、そこに私がいた。医師は軽く言った。「レントゲンとっちゃったかあ。奇形になるリスクが大きいから、今回は堕ろすしかないですね。」

母は泣き崩れた。父は私の命を信じた。そしてアメリカの医者にその命を託した。3月17日、私はセントパトリックデーの赤ちゃんとして元気に生まれてきて、アメリカのローカル新聞に写真が載ったそうだ。

お父さん、整理整頓が何よりも得意なのに、大切な記憶はどこにしまってしまったの。整理整頓してもみつからなくちゃ意味ないよ。

気をとりなおして、お父さん、私だよ、〇〇だよ、と自分の名を告げる。たった一人の娘だよ、会いに来たよ、どう?元気?というと、表情をやわらげて、そうかそうか、いらっしゃい、という。でもきっと心優しい父は話を合わせてくれているだけだ。父には、もう私が娘だということはわからない。

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