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義父の認知症の3つのキーワード。火、車、水。

義父の認知症を介護していた時は、私にとって人生の修羅場というのにふさわしい時期であった。まさに地の獄といえよう。私は自分のそれまでのヌルい人生で初めて、ストレスで全身に痒みを伴う発疹が出るという経験もした。ストレスの怖さ、心と体はつながっているんだなぁと他人事のように思ったものだ。

当時の義父は80歳。それまでも数年の同居をして身の回りの面倒をみてきてはいたが、「ヤバい」と感じ始めてからの4か月は、本当の地獄だった。今日は、その「ヤバい」をノートに記そうと思う。

①火をつけたがる

初っ端からエクストリームクラスにヤバいが、認知症の義父はまず火への関心が高まった。裏庭での落葉の焚火から始まり、仏壇にコンロと、積極的に火を使うようになる。

火への警戒心がもともと大きくない人ではあったが、それに認知症が加わって、火をつけたことを一瞬で忘れてしまうのである。なんか臭いなと思って台所に行くと、真っ黒に焦げた鍋が火にかかったままということが数回起きた。仏壇のロウソクが全て溶けて、バブルスライムのような形になっているのを発見したこともある。

「おとうさん、火をつけたら気を付けてくださいね」なんて言いはしたが、本人は返事もしなかった。おそらく火なんてつけてないと思っていたのだろう。

とにかくこの火事の危険性に戦慄したのと同時に、すぐに家の中の全てのライター、マッチ、チャッカマン等を回収した。コンロだけは元栓を閉めても開けちゃうし、ロックしても上手に外してくるので、最終手段でコンロの乾電池を使用後にいちいち外すことにした。これなら点火しない。IHにすることも考えたが、おそらく何も分からずに加熱部に手を置くだろうと思ったので、やめた。


②車を運転したがる

「ヤバい」の、ふたつめ。これもかなりガチにヤバいが、車の運転である。

義父はもともとしっかりした人で、自分の衰えをきちんと自覚しはじめた頃に「免許を返納する」と自ら言いだしていた。78歳くらいだったか。運転がおぼつかないということを、きちんと理解して、対処しようとしていたのだ。ずっと出来ていたことが 出来なくなってしまうのは悲しいだろうに、それにきちんと向き合っていた。私は、(義父は自制心のある人で良かった)としきりに感心したのを覚えている。無事に免許は返納された。

が、しかし。80歳を過ぎ、火に心が持っていかれはじめた義父は、「トラックの鍵はどこだ?コンビニに行くんだ」と言うようになった。この家は元・建設会社。義父もトラックに乗って、一生懸命働いていたのだと思うととても悲しくなる。でも、乗せるわけにはいかない。トラックは既に無いし。その時ちょうど、認知症のお爺さんが軽トラを運転中に子供を轢いてしまったというニュースが世間を騒がせていたので、私もいよいよ青くなった。トラックはないけれども、軽トラはウチにもある。私は急いで、軽トラの鍵も隠した。「軽トラの鍵が無いぞ?」と聞かれたので、「うーん、私は乗らないのでわかりませんね。あと、おとうさんは免許を返納しましたよ」と言ったら、義父はハハハと笑って「そんなわけ、あんめぇ」と言った。この時、確信した。単なる物忘れではない、認知症だと。その後 義父は、朝から夕方まで一日中、軽トラの周りをうろうろして、鍵を探していた。朝起きて軽トラの鍵を探し、ご飯を食べたら、また次のご飯を食べるまで鍵を探す。そんな日々が続いた。2か月くらい。


③風呂に出入りを繰り返す

これが措置入院の決定打となったのだが、義父は夜中にお風呂を沸かして入り、湯船から出ると、今湯船に浸かっていたことを忘れて、また入る。これを6時間繰り返していた。

その日、私は朝7時に起きて洗面所に行った。すると、お風呂に気配を感じたのだ。開けてみると、義父が洗い場(湯船の外)でうずくまっていた。季節は1月。ちょうど朝の天気予報で連日の大寒波について放送されていたのを覚えている。外は氷点下だ。ビックリして、急いで義父を抱えると体が冷たい。本人には意識があって「風呂に入っているだけだ」「今出るところだ」とうわごとのように言う。とりあえず体を温めなくてはと思い、シャワーで体にお湯をかけ、体を支えるのを手伝って湯船に戻す。騒いでいたので、義母がトイレついでに顔を出し、「おとうさん、夜中1時くらいにお風呂入ってたよ」と言うのでもう大変。脱衣所や義父の部屋の状態を見ると、おそらく、それからずっとお風呂場にいたのだろうと思った。お風呂のマットが濡れていないし、バスタオルも 1枚も使った形跡がなかった。おそらく、熱くなったから湯船から出る。シャワーを浴びているうちにお風呂に入ったことを忘れる。また湯船に入る。繰り返していたのだ、私が寝ているあいだじゅう。溺れなくて、本当に良かった。(私の祖母は、お風呂で溺れて亡くなっている)

結局、義父はこの6時間風呂でかなり衰弱していたので、入院となった。そして、入院先の病院で、医師から「認知症です」と告げられたのだ。


以上、特にヤバいの3点。これらのことにプラスして様々な行動があったが、この3点に比べれば可愛いものだ。命を脅かすものではなかったから。

入院後は、すったもんだがあったが、結局は施設のお世話になることになった。自宅だと危ないというのが主な理由である。もちろん本人はとても嫌がったし、そもそも理屈で動く人ではないので、とうとう理解してもらえることはなかった。入所させるにあたって、私たちは、義父に嘘をついたのだ。

本人には、リハビリだと言った。日常生活に戻る訓練をするだけだよと。実際体はかなり弱っていたが、日常生活は送れる程度には動き回れる義父にはピンとこなかっただろう。それでもとにかく とりあえず家ではないところに行くという口実が欲しかったのだ。

私たちには、家に戻ってきたらおそらくまた同じことになるだろうという恐怖があった。徘徊も始まるかもしれない。私も旦那も、義母の面倒も見つつ、24時間ずっと義父を見張るわけにはいかない。だから、施設に入ってもらうのに必死だった。あさましい程に。義父に必死に嘘をつき、施設入所への段取りを進めていった。義父は病室で毎日癇癪を起し、義母も重ねて体調を崩し、粗相や看病、不安からの癇癪も増えた。そして私の体中に痒い発疹が出て、夜も眠れなくなった。まいにち泣いていた。家で面倒を見てやれなくて、申し訳ないのと情けないのと、自分可愛さと、義父と義母と旦那とそれから自分も、あまりにみんなが憐れで泣いていた。感情がグチャグチャで、ついでに体中も痒みでグチャグチャだった。

義父入所後

義父が入所して、半年もたった頃。私はなんとか少しはグチャグチャな日々から回復することができた。どれぐらい回復したかというと、スラムダンク湘北vs海南戦でのゴリのテーピング前と後ぐらい。いけるかといわれたらいけなくもない、そんな感じである。

久しぶりに幼馴染が連絡をくれた。義父母の世話やすったもんだで忙しくて、ずっと会っていなかったので、彼女と一緒にご飯に行った。実に1年ぶりのマトモな外出であった。

私は、「もうね、ホントに大変だったんだよ~!」「こんなことがあってさ~!」と、笑い話のノリで今までのことを彼女に話した。身振り手振りを加えてヘラヘラしながら。彼女も最初は素直にえー!そうなんだ!と相槌を打っていたのだが、途中からだんだん顔が曇り、しまいには涙目になって沈黙してしまった。私はそれが不思議で「どうしたの?だいじょうぶ?」と言った。すると彼女は絞り出すように「なんであなたが、そんな目にあわなくちゃ、ならないの?って、思ったら…」と言ってくれた。ボロボロッと涙をこぼして。私は、あぁ、心配させちゃったなと申し訳なく思ったと同時に、実はとても嬉しかった。彼女が、私のために泣いてくれたのが分かったから。そして、自分を大切にしよう、とこの時強く思った。


入所後の義父は、私たちが考えていたよりもずっと穏やかだった。入所する施設の部屋を、自宅の義父の部屋にかなり似せてレイアウトしたのもあると思う。すべて私がひとりでやった。静かで穏やかだが、悲しい日々だった。そのことはまた、気が向いたら別に書こうと思う。

義父が家族の顔や名前は最後まで忘れなかったこと、今でもありがたかったと思っている。


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