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たとえ、世界の正しさに勝てなくても

随分noteを更新していませんでした。書きたい気持ちはあったのですが、ここ最近、急ピッチでいろんなことを決めたり、返事をしなければいけないことがたくさんあって、それを放ってnoteを更新するのもなあ、なんて思ってました。ですが、またしれっと再開しようと思います。

先日、私の大好きな劇団「ハイバイ」の芝居を観てきました。『ヒッキー・ソトニデテミターノ』という戯曲なのですが、作・演出・主演を務める岩井秀人の自伝的物語です。彼は約10年間、引きこもりだったという過去をもっています。

「ハイバイ」は同じ戯曲を何度も再演することが多いのですが、『ヒッキー・ソトニデテミターノ』ももう何度も再演されているようです。その度、出演者や演出が変わるだけでなく、結末まで大胆に変わっているようです。どうすればもっと伝えたいものに近づけるのか、また新たに生まれた思いを伝えるためにどうしたらいいのか、そんな理由から、アップデートし続けているのかもしれません。

ネタバレしないよう、あまり話の筋は書かないようにしたいのですが、ラストシーンがとても気になる芝居でした。「え、それでどうなったの?」と思わず口に出しそうになる、そんな結末です。観る人によって、どうとでも読み解ける結末とも言えるかもしれません。

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劇場で配られたチラシにあった文章です。


「引きこもり」は特別な人の事象ではなく、みんなが自分に含まれている要素として感じ始めている。引きこもっている人のことを「世界の正しさ(ありかた)に勝てない人達」だと名付けながら、それはたぶん、間違いだと思っている。そして、引きこもっていた頃の岩井自身は、外に出て楽しそうにしている人を「世界に抗うのをやめた人達」だと思っていた。その両方を知っているからこそ、両方を描く必要がある。

というところにグッとくるものがありました。

世界の正しさ(ありかた)は、それにフィットしない人を排除するほどの存在なのでしょうか。フィットしない人たちは、自分を曲げたり、苦労に苦労を重ねて、妥協点を見つけるべきなんでしょうか。もし、すべての人間そのものを尊重するのであれば、世界にフィットしない人はフィットしないまま生きてもいいはずです。一方で、フィットしないまま生きる方法は、誰にも教えられないし、そんな方法があるのかさえ分かりません。

そして、いまは社会や地域、家庭にうまく馴染んでいるように見える人も、明日はフィットしない側の人間になる可能性をもっています。すでに部分的に馴染まない何かを抱えていたりもします。

でも、それに怯えたり、嘆いて生きたってしょうがないことも、みんなどこかで分かっているんじゃないかな。このもんやりする気持ちを胸に、でも、私は笑って生きたいと思うんですよね。たとえ、胸の奥に深い悲しみをたたえていたとしても。それはもう、単なる意思でしかないけれど。

なんとでも読み解ける結末から、「あなたはどう解釈するの?」「あなたはどう生きるの?」を深く問われた気がして、こんな感想文をしたためてみました。



観劇前に友人とごはんを食べたんだけど、「今こんな仕事をしていて、こんなことを考えていて……」と矢継ぎ早にしゃべっていたら、微笑みながら「キラキラした目でしゃべってるねー。大丈夫だよ、うまくいくよ」って言ってくれたんだよねー。

意気揚々と話していたと思うんだけど、奥底で感じてる恐れみたいなものを汲み取ってくれたのかなー。

クールな友人ではあるけれど、人に寄り添う仕事をしてる人なんだよなって、そんなことを思いました。これも備忘録として、残しておこう。

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