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随筆2

半ば盲信的に、義務的に映画を見た正月だった。
実家の居心地は良すぎて、昔は嫌いだった漬物が美味しいと感じる年になったことに感慨深くなったりする。
いよいよ社会人になる年になってしまった。
ハッピー令和3年。

7年ぶりくらいに父親がお年玉をくれた。お年玉をくれたというより、新しく買った5Gの携帯の操作方法を教えてやるから、という名目でお金をもらった。もっと正直に言うとせびったに近い。金ピカのキティちゃんのお年玉袋。眩しい、孫にあげたあまりだったのだろう。こんなに可愛いお年玉袋は久しぶりだった。

食べに行った飲食店で、映画を借りに行ったレンタルビデオ屋さんで、同級生に会った。
「ねえあすこの店、もしかして〇〇働いてる?」なんて確認しなければならないくらいには変わっていて
わたしは免許証まで見せたけど彼はわたしに気がついたかな。記憶の中の彼よりもだいぶ痩せてた気がするなあ。

ガチガチにくっついたハリボーを力づくで離し、食べながら映画を見る。信じられない程に辛い大根おろしのからみもちで泣きながら年を越した。からみもちの「からみ」は絡みだろうか、辛みだろうか。
妹の鬼滅の刃を一気読みしてたら父が横からなに読んでいるんだというふうに覗き込んできて「刃か。」と言った。略すのは多分そっちじゃない。

最近やっと、子供ではなく人間として認められた気がした。娘ではある。でも人間であり、対等な言葉を交わせるようになったんじゃないかな、なんて思うけど。わたしは母の血肉から生まれた身なので対等なんて本当はおこがましいのかもしれない。

夕飯後みんなすぐ寝た。わたしの一人暮らしの家の10倍ほどはあるこの家の中では、どこで眠っていようが寝息が聞こえる、周りから音がすることもない。それくらい田舎でそれくらい雑音のない空間である。その空気の中で少し切なくなったりしてたりセンチメンタルな自分にすこし酔い始めていたら深夜1時に家族全員起きてきてタバコを吸い始めた。あんたまだ映画見てんの、なんて言われた。変な家だ。


夜の公園や深夜のコンビニにはなにもない、ほんとはこういうエモいの代名詞みたいなところにも、何もないとみんなが知っているはずだ。なんにも無いのに何かある。言葉でも写真でも形容しきれない何かを求めて若い私たちは蛍光灯に群がる虫の如く集まる。集まることに意味がある。
お参りをした後コンビニの駐車場の端に止めてするワンナイト人狼がたまらなく愛おしい。この瞬間が一生続けばいいのに、と何度も思った、何もかもが完璧で、こんな時間のために生きているんだなとさえ思った。

帰るのは寂しかった。見るたびに父は痩せている気がしたし母の腕や足の血管が見え肌が皮みたいになっていくのを見るたびに切なくなった。全部から目を背けたい気持ちでいた。

それでもこの帰省で就活をし直す決心をした。
嫉妬できる人のいない職場ではつまらない、まだつまらないと思えるエネルギーがあるのにそこに落ち着くのはもったいない。そう思わせてくれる人が私にはたくさんいた、私の拙い話を聞いてくれる人も。
この先私の人生で槍が振ろうがこの選択に自信を持っていきたい。いつだって私は間違っていない。
私より何年も生きた人間の言葉に惑わされて翻弄されるのも疲れたし生き急ぐのはやめることにした。

全部放棄したっていい。
とりあえず今日は豚の角煮を作る。
そう決めたけど別に作らなくてもいい。





大好きなコピーライター様にお勧めいただいた
Alfabeta coffe clubの下午より。

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