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皆伝 世界史探求08 BC334年-BC133年

構造図を拡大して観てください。

皆伝08 構造図 BC334年-BC133年 - コピー


皆伝08 世界年表2022年版 BC334年-BC133年 - コピー

世界年表を書いてみました。アイコンを年表にあわせて、拡大して観てくださいね。BC334年-BC133年は、大体こんな時代です。アレクサンドロスの紫色が東へと拡大していってヘレニズム世界が生まれます。すぐにローマの黄色が拡大していって、地中海を大体支配下に置いてしまいます。アレクサンドロスの生まれたマケドニア王国もローマの属州になります。


□□サハラ以南アフリカ

メロエ王国はヒエログリフをもとにしてメロエ文字を作ります。
BC2世紀/BC4世紀、ラクダの家畜化が進んで、サハラを横断できるようになります。ラクダは砂漠の船と呼ばれ、目も鼻も閉じることができるので砂嵐にも強く、こぶに栄養をため込めるので水をあまり飲まなくてもいいんです。人も荷物も載せられるし、砂丘があっても迂回せずにまっすぐ進む特性を持っているので、迷いにくいんです。奢侈品(しゃしひん。ぜいたく品のこと)や、宗教が地中海世界から入って来ます。アラビア半島のアラブ人の影響もあります。

□□ヨーロッパ東部

ウクライナ、ポーランドの辺りでは鐘状墓文化が広がっていたそうです。
BC4世紀には、スキタイが第二王国を建てたようです。構成する部族はだいぶ変わったんでしょうけれど、文字を持っていて彼らを記録する周辺の人たちから見ると、スキタイなんでしょうね。

□□地中海世界

大きな流れを先に書きます。BC334年の時点でカルタゴ、ペルシアが大勢力でした。

皆伝08ポエニ戦争とアレクサンドロスの東征 - コピー

BC334年に始まるアレクサンドロスの東征によって、
BC330年にペルシアは滅び、マケドニアの支配が広がります。
これをアレクサンドロス帝国と言います。

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ペルシア旧領はヘレニズム世界(ギリシア化された世界)と言われるようになります。
アレクサンドロスの死後に分裂します。
大勢力としてプトレマイオス将軍のエジプト、セレウコス将軍のシリアがあります。
マケドニア王国はカッサンドロス朝とアンティゴノス朝が頻繁に交代します。
中小の勢力としては小アジアのペルガモン王国、トラキア・リュディア王国、ポントス王国などがあります。
セレウコス朝はさらにバクトリア王国などのギリシア人の分離があって、ペルシア人も独立してパルティアを建てます。
プトレマイオス将軍のエジプトは比較的安定しています。ギリシア人であるプトレマイオス将軍の血筋がファラオを世襲していきます。最後の王がギリシア人のクレオパトラ七世です。
西地中海ではポエニ戦争でカルタゴを滅ぼしたローマ市及び植民市、同盟市の勢力が拡大します。マケドニアも滅ぼします。
BC133年には大勢力となっています。

皆伝08 BC133年 - コピー

詳しく書きます。
BC336年、アルゲアス朝マケドニア王国の国王にアレクサンドロス三世が即位し、二年後のBC334年に東方遠征を開始します。東方遠征の理由は、①ペロポネソス戦争後の衆愚政治化したポリスの抗争がペルシャの干渉を招いていたため。②ペルシャ戦争におけるペルシャへの報復。③失業者対策としての植民。

BC334年、小アジアのグアニコスの戦で敗北したサトラップは、アレクサンドロス三世に地位を保証されました。そのままアレクサンドロスの知事になったようです。
BC333年、小アジアのイッソスの戦でアレクサンドロス三世が勝利。なぜ強かったのかと言うと、横並びにただ突撃するのではなく、斜形密集体形/クルッセファランクスでの突撃が効果が高かったと言われています。また、ダレイオス三世が各地で反乱があり求心力も失っていたということも敗北の理由です。それなのに、ダレイオス三世はハーレム付きでゆっくり進軍しました。何を考えているんでしょう。ギリシア兵の強さを忘れてしまったんでしょうか。史料集や教科書にこのイッソスの戦の絵が載っています。イタリア半島のポンペイの家にあった床のモザイク画です。時代も地域もアレクサンドロスと関係ないところですね。同時代に描かれたものではないようです。絵が実際を表しているかどうかもわかりません。この絵には、大きなピカピカの盾に反射した兵士の顔が描かれています。これが絵に描かれた最古の鏡像だと言われているようです。

アレクサンドロス三世がリュディアのゴルディオンを占領したときに、ゼウス神殿に古いチャリオットが祀られていました。絡み合った縄で結わえられていて、ゴルディオスの結び目と言われていました。「この結び目を解いたものがアジアの支配者になる」という伝承を聞いたアレクサンドロス三世は剣で縄を切りました。「運命は伝承ではなく、己の剣で切り開くものだ」と言ったそうです。

BC332年にはエジプトを占領します。アレクサンドロス三世は古代エジプト研究に大きく貢献したそうです。334,333と続くので、出題はされませんが332年も憶えておくと年号を思い出すのが簡単になります。
BC331.10/1チグリス河畔北部のガウガメラの戦を主戦場として戦いました。さらに、南部のアルベラの戦い。ここは主戦場ではないけれど、戦いました。この二つの戦で決定的なペルシャの敗北となります。むかーしはアルベラ・ガウガメラの戦とも言ったそうなんですが、近年はガウガメラの戦だけを言うようになって来ているそうです。
BC330年、ダレイオス三世はハグダマーナに逃げる途上、ガウガメラの戦いに参加し、逃亡に同行していたバクトリアの総督/サトラップのベッソスにより殺されてしまいます。ペルシアの滅亡です。
先生は「試学生はBC330年なのでさんざんな目にあったと憶えればいい。コンスタンティヌス大帝が首都をビザンティオンに移し、コンスタンティノープルと改称するのが紀元後の、つまりAD330年であることもセットで憶えなさい」と言っています。
ベッソスはアルタクシャサ五世を名乗ったんですが、BC329年に、アレクサンドロス三世が、ベッソスを主君を裏切ったものとして、耳と鼻をそいだ後に殺しました。アレクサンドロスは裏切り者から国の名誉を取り戻した人という立場になりました。そして、アレクサンドロス三世は世界王を名乗ります。一般的には、アレクサンドロス大王と称されます。帝王でもいいんでしょうけど。

この段階で、アレクサンドロス帝国の成立と言えます。西は地中海・マケドニアから東はインダス川・パンジャーブまでの範囲です。あまりに広い国なので、ペルシアに倣って、全国を州に分け、州知事を派遣します。その後もインドまで攻めたんですが、頑強な抵抗があって、強行軍で遠征してきているのでさすがに兵が「疲れた。もう帰りたい」と言うのでインダス川で引き揚げたそうです。
そうは言っても、アレクサンドロス大王がインドへ与えた影響はありました。ギリシア人がもたらした文化とインド文化がまじりあって、のちにガンダーラ文化(ガンダーラ地方の文化)を生みました。それから、政治的にはマウリア朝マガダ王国の建国へとつながりました。


このアレクサンドロス帝国のうち、ヨーロッパを除く部分をヘレニズム世界と言います。どちらが征服、支配するのでもない世界にしたいと思ったのでしょうか。大王はギリシアでもオリエントでもないヘレニズムという第三の文化(ギリシア+オリエント)を維持したいと思ったんですね。そのためには、文化がどちらかに偏らないように第三の民族を作る必要があります。
そこで大王は「我の行うようにせよ」と言って、現地ペルシアの王女を后にしました。そして、ギリシア兵とペルシャ女性の集団結婚式を行いました。両方の血が混じった世代が生まれるわけです。
アレクサンドロス大王には正妻としてマケドニアに残してきたロクサーナ/ロクサネがいたんですが、大王はダレイオス三世の娘スタティラ、ダレイオス二世の孫、つまりアルタクシャサ4世の娘であるパリュサティスとも結婚しました。結局子はできなかったし、二人ともロクサーヌに殺されてしまいました。高官はギリシア人でしたが、現地のエジプト人、メディア人、ペルシア人なども役人に採用しました。
ヘレニズム時代は東征の始まったBC334年から、ヘレニズム国家のプトレマイオス朝エジプトが滅ぶBC31年までを言います。ギリシア人の土地/ヘラスをもじった名前がヘレニズム。「ギリシア風」と訳すことが多いようです。コイネ/コイネーと呼ばれる共通ギリシア語を使っていたのがヘレニズム時代です。のちの「新約聖書」もコイネーで書かれていることは、よく出題されます。
この時代、ポリス/都市国家というものがなくなっていきます。そして、コスモポリタニズムという名の一見世界全体のことを意識している個人主義へと移行していきます。
今まではポリスという狭い世界に閉じこもっていたギリシア人が、バルバロイと言ってきた人たちとも付き合うようになります。自分の生まれ育った都市国家の政治や社会について考えてきたけれど、マケドニアに支配されて、民主制ではなくなりました。そして、アジアに来てみると、暮らしていた都市から遠く離れて、都市以外の世界についても考えるようになります。江戸時代から明治への過渡期に村から国(藩)へ、国(藩)から日本国へ、日本国から地球のことを考えるようになるのと近いかもしれません。
ヘレニズム時代の思想の特徴として、個人主義的な世界市民主義があります。コスモポリタニズムとも言います。これまではポリスというムラ社会で閉塞的に生きてきました。その中でポリスのためにではありますが、アゴラで個人の意見を主張しあっていました。「私の考えでは。いやそれは違う。
」「私が私が。俺は俺は」と我を張っていたんですね。けれど、この広いヘレニズムという世界でムラ社会からも出てみると、個人というものがちっぽけに感じられます。そんな世界で自分を大きく見せようとしても誰も自分のことなんて知りません。田舎から都会に行った人の気分です。そして、よく考えたら人はみな同じだと考えたようです。それで、ポリス的市民ではなく、世界の中ではみなおんなじ市民という意識を持つようになります。そして、ポリスに代わって自分が守るべき価値のあるもの、共同体は見出せません。それが個人主義的な世界市民主義です。
有名な人が三人います。ピュロンはあらゆるものを疑う懐疑主義に立っていて、もはや信じられるものはないと考えました。さらに、不可知論者でもありました。あらゆるものについて、人間は本当には知ることをできないという主張です。結果として、魂の平安のみを求めたという人です。
ストイックの語源とも言われるストア学派では、キプロスのキティオンのゼノンという人が有名です。キプロス島にあるキティオン出身のゼノンさんです。人間の本質は理性であり、したがって禁欲主義によって、幸福に至るはずだと考えました。
エピクロス(BC341年-BC270年、サモス島生まれ)さんはエピクロス学派を打ち立てました。人間の本質は欲望と快楽であって、精神の安定(アタラクシア)こそ最高の善だと考えました。そして、心の平安を得るためには、何にも煩わされない必要があるので、衣食住に友情と健康などの自然な欲求は必要だけれど、人を苦しめることにつながる名誉欲、権力欲、所有欲、考えすぎてがんじがらめの思想、苦痛などを避けることを説きました。後世の人は誤解して、快楽主義と言います。実際は苦を避けるのであって、快楽を積極的に求めたわけではありません。いづれにしても、この二つの学派に共通するのは、やっぱり自分のことだけを考える世界市民主義です。
この時代は思想的には倫理時代と言います。キリストの出現、またはローマ帝政の始まるAD1Cまでは続きます。キリスト以降は宗教時代になります。いずれにしてもギリシア哲学は主役でなくなっていきます。

アレクサンドロス大王は貨幣の鋳造も行います。そして元からのマケドニア王国で使っていたアッティカ貨幣で帝国を統一しました。各地にアレクサンドリアという名前の都市を70余りも建設しました。この中で21世紀に残っているのは、エジプトのアレクサンドリアだけです。
ヘレニズム時代には、建築ではコリント式が普及します。
宗教では太陽神を信仰するミトラ教が普及しました。

BC323年、アレクサンドロス大王はバビロンで熱病(マラリアと言われています)にかかり死んでしまいました。後継者を決めておくか、何も言わなければ長男が継ぐんでしょうけれど、遺言は「後継者は一番強い者がなれ」でした。そうしたら後継者/ディアドコイの争いとなるのは当然です。大帝国があっさり分裂しました。
BC323年-BC301年をディアドコイ戦争と言います。
全軍司令官の地位を得ていたアンティゴノスがギリシアから小アジアにかけてのアンチゴノス朝(都ペラ)マケドニアをつくり、さらに大領域の再統一に乗り出します。
ヨルダン西部ではナバテア人の軍に敗退しています。
BC301年、小アジアのイプソスの戦でセレウコスやプトレマイオスなどの対抗勢力が結集したので、アンチゴノスは負けて、死去します。
先生は「試学生はイッソスと間違えないこと。イッソス、イプソスは五十音順の出来事だ」と言っています。 
この時点でアレクサンドロスの帝国を再統一できる人がいなくなり、5つに分裂します。
後継者の候補だったアンティパトロスの子カッサンドラは大王の正妻ロクサーナと大王の子アレクサンドロス四世を殺します。アレクサンドロス大王には、フリギアのサトラップの娘バルシネとの間にもヘラクレスという子がいました。カッサンドラはこのバルシネもヘラクレスも殺してしまいました。そして、アレクサンドロスの妹テッサロニケを妻にします。こうして王位継承権を主張したカッサンドラがBC310年にカッサンドラ朝マケドニア王国を建てます。とは言っても、アッティカなどのギリシア地方には支配権は及びません。
カッサンドラ朝マケドニア王国は子のフィリッポス四世が継いでいますが、この王やその弟たちがアンティゴノスの子デメトリオスにより殺されて、間もなく亡びます。アンチゴノス朝マケドニア王国になりますが、リュシマコス朝がマケドニアを支配します。BC282リュシマコス戦死したことで、いったんプトレマイオス王朝のケラウノスに支配されますが、BC279年にはその戦死で再びカッサンドラ朝へ戻ります。表にするとこうなります。

皆伝08 シン ディアドコイ戦争 - コピー

入試ではこんなに細かいことは出題されませんが、教科書や参考書ごとに違う王朝の名前だけが書いてあるので、受験生は混乱します。それを整理するために書きました。

ヘレニズム時代の彫刻は写実的です。マケドニアの領域では、キクラデス諸島のミロス/ミロ島で発見された「ミロのヴィーナス」、蛇に絡みつかれた「ラオコーン」、また恐らくBC190年頃に制作された「サモトラケのニケ」はアンティゴノスの伝統的支配地域のサモトラケ島で発見されました。
BC220年頃にはマケドニアはローマを警戒していました。ローマがもしカルタゴを滅ぼすと、その隣のプトレマイオス朝エジプトが次に攻められるかもしれません。さらに隣のセレウコス朝のシリアが危ない。マケドニアからすると、どんどん近づいてくる気がします。マケドニアはカルタゴと同盟を組んでいるので、挟み打ちを警戒したローマは、先にマケドニアを亡ぼすことにしました。BC215年に第一次マケドニア戦争、BC200年-BC197年に第二次マケドニア戦争、BC171年-BC168年に第三次マケドニア戦争があり、BC171年オリュンポス山北方のピュドナ/ピドナの戦いで、マケドニアは大敗し、BC168年に滅亡します。BC146年、ローマの属州になります。
ピュドナの戦で捕虜になったマケドニア人の中に、のちに小スキピオ(カルタゴを滅ぼす人)の教師になったポリュビオスがいます。この人は「ローマ史」という本を書いて、衰退するギリシアと比べて繁栄するローマを観察しました。政体循環論を立ち上げて、政治体制は循環していると書きました。はじめは王政で、僭主、貴族政、寡頭制(少数支配)、民主政治、衆愚政治を経て、滅亡します。そしてまた王政になるといった考えです。アテネがこのパターンに似ていますね。それに対して、ローマの特異性、強みがあると書いています。独裁官という制度が王政と類似していること、民会の仕組みが民主政、元老院が貴族政、こうした三種類の政体があることで、循環せずに安定していると書いています。

トラキアからイオニアはリュシマコス朝トラキア・リディア王国が支配します。エピルス王のピュロスと共同統治します。リュシマコスの単独統治になってからは、いっときマケドニアを支配しますが、BC282年にリュシマコスが戦死して滅びます。
その後はセレウコス朝シリアが支配します。
BC4世紀中ごろ、アドリア海に面したエピルスの王ピュロスはあちこちに遠征して、タレントゥムでローマ、シチリアでカルタゴと戦っています。戦略家として有名で、各地に援軍として請われていたんです。それでリュシマコスと共同統治をしていたんですね。

BC3C中頃には小アジアのイオニア地方にセレウコス朝から独立したアッタロス朝ペルガモン王国が成立します。都はペルガモン。特産品はアッタロス織、羊皮紙です。羊皮紙はペルガモン(ペルガメナ/ペーチメント)とも言われました。品質がいいと千年は保つそうです。ペルガモン王国の代表的な彫刻に「瀕死のガリア人」「ガリア人とその妻」があります。なぜガリア人を彫刻にしたんでしょうね。
BC133年、ペルガモン王国は滅亡します。ペルガモン王は遺言で、攻められて国が荒廃するよりマシということで、平和的に国家をローマに譲渡したそうです。

エジプトからパレスティナにかけてはプトレマイオス朝エジプト王国が建てられました。ギリシア人のファラオの時代です。
学問を奨励したので、ギリシア人の学者も集まり、都のアレクサンドリアは学問の都とも言われます。
都にはムセイオンが建てられました。ムーサ学院とも呼ばれます。musiumの語源なので、博物館・美術館と訳しても構いません。また、アレクサンドリアの郊外には世界七不思議のファロス島の灯台が造られたとも言います。たんに大きな灯台だと思います。ファロス/パロスはラテン語で灯台を意味する単語です。単語と灯台とどっちが先なんでしょう。
数学では、「ストケイア」を書いたエウクレイデス(英語ではユークリッド)が有名です。幾何学原本、原論などと訳されます。平面幾何学を大成したと言われます。
アポロニウス、円錐の断面を研究したそうです。
医学では、解剖学のヘロフィロスが有名です。過去問で見たことはありませんね。
地理学はプトレマイオス朝に仕えたエジプト人の歴史家、マネトン/マネトが有名です。「エジプト誌」は、第一王朝以来の歴史を書いています。21世紀の歴史家も、マネトの区分を使って、第18王朝などと数えているんです。ギリシア語(コイネ)で書かれています。
ちなみにエジプトのテーベはウォセ、あるいはワセが本来の名です。この街にあるカルナック神殿を示すタ・オペトが、ギリシアの都市テーバイに音感が近いので、ギリシア人はテーバイと呼んだようです。ラテン語ではテーベになります。21世紀にはルクソールという地名になっています。
アリスタルコス(BC310年-BC230年頃、サモス島生まれ)は太陽と月の大きさ、太陽と地球の距離、月と地球の距離、地球の自転、公転を測定しました。この時代に、すごいですね。地動説も主張していたそうです。

天文学の分野には、地球球体説のエラトステネス(BC276年-BC194年)がいます 。ムセイオンの館長で、地球の周囲の長さを初めて測定しました。100までの素数を見つけるエラトステネスの篩(ふるい)という方法も有名です。
地球の周囲の長さに関しては、アレクサンドリアとエチオピアの街シェネの距離はキャラバン/隊商/旅の団体が50日かかるので、1スタディオンが185mの場合、5000スタディア/925kmと推察しました。1スタディオンの複数形がスタディアですが、6種類あった1スタディオンという単位のうち、エラトステネスが使用した1スタディオンが何メートルだったのかは議論中です。
夏至の日に、シェネの深い井戸には太陽の光が底まで入ります。村上春樹さんの小説を思い出すなあと先生が言っていました。小説に関してはよくわかりませんが、真上から太陽が当たっているので、天頂/真上にある、角度で言うと90度ということがエラトステネスにはわかっていました。夏至の日に、アレクサンドリアでは天頂/90度から7.2度ずれていました。82.8度だったということです。
地球が球体/360度だとすると、この7.2度は50分の1の値です。丸いピザを50枚に切り分けたら、その曲線の部分の長さが925kmだったということです。この925kmを50枚分集めると一周の長さがわかります、925×50なので46250kmが地球の周囲の長さと、エラトステネスは計測しました。
実際は地球を横に計測した赤道の長さが約4万0075kmで、縦に計測した子午線の長さが約4万0009kmです。地球は楕円形なんです。エラトステネスが間違えたのは、 アレクサンドリアとエチオピアの街シェネの距離なんでしょう。


アルキメデスは、シチリア島のシラクサ生まれ。出生地も出題されます。ムセイオンで学びました。浮体/浮力の原理を発見しました。第二次ポエニ戦争では、シラクーサで梃(てこ)の原理を使った投石器でローマ軍と戦いました。ローマの指揮官はアルキメデスを捕虜にする指示を出していたんですが、現場の兵士はアルキメデスの道具などを宝物と思い、奪うために彼を殺したとも言われています。そうではないという学者もいます。BC212年のことです。

BC196年、プトレマイオス五世の治世下で、王が恩赦をしたことや、王の誕生日祝いに関する勅令などをいくつかの街で石柱に刻みました。王の文字なので神聖文字・エジプト人がわかるように民衆文字・ギリシア人がわかるようにギリシア文字で同じ内容が書かれています。ロゼッタという街ではこれが倒壊し、欠けて、一部が1798年に発見されました。これをロゼッタストーンと言います。1798年ナポレオン軍のエジプト占領下、ロゼッタストーンをフランス人が発見して、1800年代前半にフランス人のシャンポリオンが解読しました
コイネ/古代ギリシア語がマケドニア、ギリシア、エジプト、パキスタンまで共通語となったことで、ロゼッタストーンにギリシア語が書かれたんですね。ギリシア語を読めれば、同じ内容が記述された異なる言語、つまり神聖文字、民衆文字を解読できたんです。また神聖文字はフェニキア文字、アラム文字に変化したので、それを追うことでオリエント研究を進める手掛かりもできました。
典型的なヘレニズム国家はセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトです。ギリシア人と現地人のダブル/ハーフがいっぱいいますし、現地人も官吏になっています。

アフガニスタンからイラン、シリア、イラク、小アジアの一部を含む広大な土地を支配したのがセレウコス朝シリア。最初の都はセレウキア、後の都はアンティオキア。セレウキアは過去問では見たことがありませんね。 始祖のセレウコス1世はアレクサンドロス大王に倣って、地元の貴族アパマさんを妻としたそうです。オリエントの伝統に染まって、王の神格化に努めました。ローマのディオクレティアヌス帝がオリエントも支配すると神格化に努めるんですが、土地の伝統に染まってしまうんですね。
また、ディアドコイ戦争もあるので、東ではBC305年ころにマウリヤ朝と和約をしました。その際に500頭の象を贈られたとも言います。

BC3世紀中ごろ、セレウコス朝シリアから知事のディオドトスが独立して、バクトリア王国を建てます。BC255年-BC139年だそうです。滅亡年は様々な説があります。都はバクトラです。
バクトリアは現在のアフガニスタン北部、ウズベキスタン、タジキスタンなどからなる古代の地方名で、オクサス川(アムダリヤ/アム川)中流域の肥沃な谷間を含みます。中国、インド、西方を結ぶ内陸交易路の結接点にあたります。だからここを支配する勢力は交易の点で利があります。バクトリア(ギリシア語)の名の起源はオクサス川支流のバクトロス川にあります。古イラン語名はザリアスパ川で、名前の似ているゾロアスターの出身地の説があります。アケメネス朝の時代にはシベリアの金\GOLDがバクトリア経由でもたらされたそうです。

中国の漢の時代、司馬遷は「史記」でバクトリア王国を大夏国と記しました。いわゆる西夏の国号も大夏なので、混乱しないでくださいね。セレウコス朝から独立したギリシア人はいくつかの小国家を作りました。まとめてグレコ・バクトリア王国とも言います。グレコはギリシアの意味です。この中で最大の国を単独でバクトリア王国と言います。
バクトリア王国はギリシア人、インド人、イラン人などの混在する国家で、農業とインドとの交易を経済の柱にしていました。約40人の王が知られていますが、エウテュデモス1世・デメトリオス1世父子の治世(BC235年-BC185年)がもっとも繁栄したそうです。アム川の上流のバクトラ(現バルフ周辺。ゾロアスターの埋葬地)を中心地にして、アフガン北部のトハラ/トカラ(これも大夏と言う説があります)を服属させ、ガンダーラからパンジャブまでを支配していたようです。
BC150年頃のメナンドロス一世は仏僧のナーガセーナと問答をした後、仏教に帰依したと言われています。つまりギリシア人が仏教徒になったんです。のちのガンダーラ文化のきっかけの一つですね。メナンドロス王はミリンダ王とも書かれるので、この出来事をミリンダ王の問と言います。

バクトリア王国はBC139年にトハラ(トカラとも言います。イラン系かスキタイ系だそうです)または、バクトラ人に滅ぼされました。入試ではトハラに滅ぼされたということで出題されると思います。トハラはその直後にスキタイ系の民族に滅ぼされました。グレコバクトリア王国のどの国がだれに滅ぼされたかを 当時の人が区別せずに記録していたので、よくわからないんだと思います。

シリアからトルクメニスタンのアシハバード近くのニサーでイラン人のパルニ族が、セレウコス朝から独立しました。
BC248/247年、イランのクーチャン近くのアサークでアルシャーク一世が国を建てます。国号は知りません。BC238年にはセレウコス朝から奪ったホラサン地方に入り、定住します。この地がパルサヴァというので、変化してパルティア国と言われるようになります。始祖はアルシャクサ/アルサケスなのでアルサケス朝パルティア王国と言われます。滅びるまで、王朝交代はありません。中国では安息国と呼ばれます。都はミトラダトケルタにありました。
王家アルシャーク家のほかに、分家のカーレーン家、大諸侯のスーレーン家、ミフラーン家などが支え、従来からの土着の王国も混在していて緩やかな連邦制をとります。
馬上から後ろ向きに弓を討つ射術のパルティアンショットが有名です。

セレウコス朝も再征服を狙いますが、西ではローマ都の戦が始まっているので、戦力を分散しなければいけませんでした。中央集権的な巨大国家というのは比較的短い期間で地方で反乱が相次いで分解するというのは歴史を見ればわかります。アケメネス朝、セレウコス朝が典型です。United States of America(あえてアメリカ連邦国と訳します)、ロシア連邦、神聖ローマ帝国のような地方が比較的自治権を持っている国、属州からも皇帝となれるローマのような仕組みがある国家は長く持ちます。
ヘレニズムの影響で、パルティア王は「ギリシア人を愛するもの(フィルヘレン)」という称号も持っていました。 貨幣にも「ギリシアを愛する」と刻ませています。
海軍も作り、バーレーン王国を服属させ、セイロン島、マレーシアにもイラン人のコロニー/植民市ができていきます。陸ではオアシスの道の西側を押さえているので、海陸で東西貿易の中継者として稼いでいたことになります。
BC148年にミフルダート一世がセレウコス朝から奪ったメディア州を支配したころは、ヘカトンピロス(カスピ海南岸テヘランの東、サーリーの南辺り)に都していました。 ヘカトンピロスは、ギリシア語で百門の町/百の門柱。正確な場所は不明です。
BC141年にセレウコス朝からメソポタミアを奪います。テースィフォーン/クテシフォンを建設しますが、まだ遷都はしません。
ミトラダテス二世はクテシフォン(バビロンの南に位置する)へ遷都します。
遷都はクラッススを討ったオロデス二世の時と言う学者もいます。
遷都後は、バビロニアの中心都市だったバビロンは一地方都市になってしまい、衰退します。

バビロン捕囚から、アケメネス朝ペルシアによる解放があって、ユダヤ人はイスラエルに戻ってきていました。そして神殿を再建します。第二神殿時代と言います。その後、アレクサンドロスの支配、セレウコス朝の支配がありました。
マカベア戦争BC167/165年-BC142/136年 BC168年ころ、地方の祭司マタティアと子供たちヨハネ、ユダ、・マカバイ/ユダス・マカベウス、シモン、ヨナタンが決起します。護教目的のようです。つまり自分たちユダヤ教の教えを守るためです。父の死後、ユダ・マカベア(ユダ・マカベイ)がリーダーを引き継ぎますが、BC160年に戦死。ヨナタンがセレウコス朝との講和で大祭司と認められ、宗教的自由を得ます。ただ、血筋として大祭司とは認められない家系なので、民衆は団結しません。
また戦はありますが、BC166年には実質的に独立しています。BC142年、シモンが大祭司となります。セレウコス朝と対立していたローマが政治的独立を認めたので、ユダヤ人ハスモン朝として独立したと学者は考えます。マタティアの曾祖父がハスモンという名だそうです。王朝名は、そこに由来しているんですね。
ヘレニズムに対して、この国はヘブライズムと言います。
世襲で王でもあり、大祭司でもありという政教一致の神権政治をしました。


□□西地中海

BC326年にポエテリウス法で市民の債務奴隷化の禁止をします。アテネのソロンの改革に相当しますね。
第一次から第三次まであるサムニテ戦争を経て、BC290年に半島中部を統一します。
この第三次サムニテ戦争で市民は活躍しました。アテネのサラミスの海戦後の状況に似たようなことが起こります。発言力を増した市民はBC287年のホルテンシウス法で、民会は元老院の承認なしに決議できるようになります。貴族と平民の権利の平等化がなされ、身分闘争が終了します。民主化の完成とも言えます。これで一枚岩になったローマはどんどん侵略戦争を行えるようになるんです。
ローマはギリシャ人の植民地が多い南イタリア/マグナグラキアに進出していきます。
BC312年にはアッピア街道を作ります。21世紀の国道7号線だそうです。当時は石畳で、両側に松を植樹したそうです。王の道、馳道などから類推できると思いますが、こうした街道は軍の行進を容易にします。アッピア街道は、最終的にローマと、半島のアキレスけんの位置にあるブリンディシを結びます。ローマ人はこの後も街道をいくつも作りました。「全ての道はローマに通ず」という言葉を聞いたことがある人もいるかと思います。これは 17世紀のフランスの詩人であるラフォンテーヌが「寓話」という本で書いたことです。

タレントゥム(21世紀のターラント)は、スパルタが、スパルタ市民と奴隷との間に生まれた子供を送り込むために、唯一作った植民市です。バルカン半島の戦略家として高名なエピルス王のピュロスもマグナグラキアから請われて、象の援軍でローマとの戦いに長らく参戦し、勝利もしていました。けれど、終にこの戦で敗北します。タレントゥムのローマによる陥落は紀元前272年(中国は戦国時代です)。これによりローマはイタリア半島を統一したと言えます。

カルタゴにはフェニキア人の国で、ローマ人からはポエニ人と言われます。発音もアルファベット(Phoiníkē とPoeni)も似ています。シチリア島はBC4世紀中ごろから、徐々にカルタゴ領化していっています。BC3世紀中ごろには、シラクーザ、メッシーナ以外は大部分がカルタゴ領化していました。そんな時、シチリアのギリシア人と、ギリシアの傭兵隊の争いがあり、互いにカルタゴ、ローマへ援助要請をしました。これがポエニ戦争の火種になるんです。
ちなみに
カルタゴ-セム系。商業国家。海軍国。募兵制。
ローマ-ラテン系。農業国。陸軍国。戦費自分持ち。

BC264年-BC241年、第一次ポエニ戦争(シチリア戦争とも言います)。BC241年、ローマが勝利してシチリアを獲得します。ローマにとって初の属州とします。BC238年、サルジニア島、コルシカ島を領有し、属州にします。
属州は、都市国家ローマの直轄地で、課税されます。

前218年にクラウディウス法は、元老院議員(パトリキ、ノビレス)および元議員、その息子に、自家生産物を運ぶ限度として300アンフォラ以上の船舶の所有を禁じました。アンフォラは両取っ手の壺と書きましたね。この時代の1アンフォラが39リットルを意味する単位らしいので、11700リットルの船ということなんでしょうか。船の正確なサイズはともかく、私用の小舟はいいけれど、大型船はいけないということで、実質的に海上貿易を禁じたということになります。政治家と富裕層が分離したとも言えます。この結果、騎士(エクイテス)層は元老院議員になれない富裕層を意味するようになりました。
また、元老院議員と元議員、その息子はそういった仕事/お金に関わる仕事=商業活動を禁じられているので、属州に派遣される徴税請負人の仕事もできません。そこで騎士身分から指名されて、徴税請負人として属州へ派遣されるようになります。属州には、政治的なトップとしてノビレス、パトリキから選ばれた総督が派遣されます。
領域的な広がりを持たない都市国家の同盟の盟主たるローマは、属州を獲得することで領土国家へ変化していきます。

第一次ポエニ戦争で負けたカルタゴは、ローマ侵攻の拠点とするために、ローマに協力的なイベリア半島の諸都市を攻略していきます。
BC218年、第二次ポエニ戦争。カルタゴの名将ハンニバル・バルカ将軍が登場します。バアル神の名を持つハンニバアルです。通例ならシチリアから南イタリアへ入るのですが、ハンニバルはジブラルタル海峡からイベリア半島へ渡り、37頭の像を引き連れてイタリア北部のアルプス越えを敢行します。北方から攻撃することを予想していなかったローマは後退し、半島の先に追いつめられます。ファビウスは打って出ることを我慢し、持久戦に持ち込もうとしました。そして、「ローマの盾」と言われました。のちに、こうした持久戦略をファビアン戦略と言うようになりましたし、英国のフェビアン協会にもその名を残します。
先生が言うには
BC216年、カンネーの戦で、ローマは観念(カンネーン)したのかと思いきやそうではなかった。BC202年、ザマの戦。ローマの大スキピオが起死回生の本土攻撃を仕掛けて、チュニジアにわたり、大勝利、ザマー見ろだ。」
先生が考えたのではなく、ここを教える人が代々受け継いでいる憶え方らしいんです。
カルタゴは敗北しました。
カタルーニャはローマの支配下に入ります。この支配は、西ゴート人のやってくるAD476年まで続きます。
ポルトガル周辺はルシタニア、南部はバエティカ、残りはタラコネンシス(バルキノ/バルセロナ、タラコ/タラゴナを含む)というローマの行政区分になりました。こうした古代の州、地方名も出題されます。
イベリア半島はローマ文化の影響を受けます。ローマ人は、街道、円形闘技場、水道橋を建設します。ローマ人はインフラ作りが得意だそうです。また、ラテン語が普及して、カタルーニャの人もラテン語を話すようになっていきます。

皆伝08 ローマの戦争 - コピー

BC215年から第一次、第二次、第三次マケドニア戦争があります。BC171年にはピドナ/ピュドナの戦いがあり、ローマがマケドニアに大勝します。BC168年、アレクサンドロス大王の歴史が煌めくあのマケドニア王国は滅亡します。

第二次ポエニ戦争の後に、カルタゴはローマとの間に「どんな戦争もしない」という約束をさせられました。これは策略でした。ローマはアフリカのヌミディア人(現アルジェリア)をけしかけて、カルタゴを攻撃させます。これでカルタゴは戦わざるを得ません。カルタゴが防衛戦争を開始すると、約束を破るカルタゴが悪いという諸国への理由付けができたローマは、大義名分ができたからとカルタゴを攻めます。
これがBC149年、第三次ポエニ戦争です。BC146年、大スキピオの子の小スキピオの活躍で、カルタゴは滅亡します。モロッコ、チュニジアはローマの属州となります。
受験生の憶え方は、ポエニ戦争開始の264の下二けたをひっくり返してBC146カルタゴ滅亡でいいと思います。
BC146年、東ではマケドニアの地を属州化します。
BC133年、イベリア半島の全土をローマが領有します。同年、ペルガモン王国も領有します。ペルガモン王は遺言で、攻められて国が荒廃するよりましということで平和的に譲渡したことは書きましたね。
ローマは多くの土地、奴隷を手に入れました。国有地になります。かつては家族5.6人に対して奴隷一人が平均的だったようです。カルタゴの奴隷がたくさん入るようになると、広い土地も耕せます。大土地所有者が生まれます。農業奴隷(農奴)を使った大土地経営、または大農地をラティフンディウムと言います。複数形がラティフンディアです。徴税官として派遣された騎士身分の人たちは、立場を利用して安く土地と奴隷を手に入れます。国有地ですが、実質的に自分の物にしていきます。私腹を肥やして富裕層になっていくんです。とは言え貴族とは言えないので、民会を中心に活動します。政治グループで言えば、平民派と言えます。奴隷を一人しか持てない中小農民との差が広がっていきます。イタリア半島で汗水を垂らして働いて、小麦やブドウを作っているところに、奴隷を使った海外の大農地から大量に安い小麦やブドウ入ってきたら、こっちのものは売れなくなってしまいます。値下げ競争では勝てません。そうすると農地を手放して奴隷になっていきます。奴隷がいくらでもいるので、小作人はほとんど必要がないんです。そして、都市に行ってホームレスになって、富裕層、政府からパンを恵んでもらう生活になります。都市の治安も悪くなります。

□□インド

アレクサンドロス大王の遠征で衰退し、反乱が起こったのでBC327年、ナンダ朝マガダ王国が滅亡します。
アレクサンドロス大王のアフガンへの侵入・パンジャブへの侵入の混乱に乗じてBC317年、チャンドラグプタ・マウリア(ギリシア名サンドロコットス)がマウリヤ朝マガダ王国を建てます。中国では漢字で書くので、孔雀朝と表記されました。単にチャンドラグプタとも言います。
先生は「試学生は、BC317(さいなら)-BC188(いやや)の135年間で憶えやしぃ」と言っていました。
BC180年の滅亡説もありますが、そこまでは知らなくてもいいような気がします。
インド人国家です。都はガンジス河の中流にあるパータリプトラ(21世紀のパトナ)。
チャンドラグプタ・マウリヤは北インドを統一します。
騎兵3万、戦車(兵車/チャリオット/戦闘馬車)8千、象軍9千、歩兵60万、海軍4万、兵站(輸送)隊数万の常備軍を作りました。
BC333年にダレイオス三世が率いていた軍が10万人でしたから、すごい数ですね。

第三代のアショカ王(中国では阿育王と記述されます。紀元前268年頃 - 紀元前232年頃の在位)が全盛期です。最大版図はパンジャブ、シンド、デカン高原、ガンジス下流までと広大です。インドの八割は支配していたかもしれません。直轄地の他に4つの属州を持っていました。
軍隊の移動や商売に都合がいいので幹線道路を全国に整備しました。この時代は中国では秦の始皇帝も、ローマでも幹線道路を整備しています。アショカ王の知恵袋はカウティリヤという人で、難関大学では王を補佐した人というヒントで出題されます。
アショカ王は、東南部のカリンガ戦争で、血まみれの残忍な結果を見て、仏法に開眼します。
ストゥーパ(仏塔。漢字で書くと卒塔婆)は釈迦の遺骨、つまり仏舎利を納めたものとされています。アショカ王は仏舎利の納められた8つの塔(のうち7つとも言われます)から仏舎利を取り出しました。そして、8万4000に分けて、全国に卒塔婆を建てたと言われています。五重塔などもストゥーパの一種です。五重塔をさらに簡易化したのが、お墓に立ててあるぎざぎざの薄い木の板、つまり卒塔婆です。ここまでくると、仏舎利は収められていません。仏像もそうですが、仏塔もキリスト教の教会やステンドグラスと同じ効果を持つもので、お経を聞かせられるよりも目で見えるほうがありがたいという人がいるんです。

ゴータマ・シッダールタ/釈迦の死去から100年経過した前後に第2回仏典結集(けつじゅう)が開かれます。ゴータマ・シッダールタ/釈迦が亡くなって時間が立ち、釈迦が本当は何と言ったのか、どんなことをしたのかという記憶があいまいになります。伝聞によって地域ごとの記録にずれが生じるようになるので、各地の仏典を持ち寄り、何が正しいかを決めることにしました。これを仏典結集と言います。キリスト教の公会議に似た性格ですね。
その後、我らの解釈こそ正しいと主張する勢力が登場しました。こうして多くのグループ、派閥、宗派が作られたんです。こうした乱立時代を部派仏教時代と言います。

そして、アショカ王が主催して、第三回仏典結集(けつじゅう)を行います。これが21世紀に現存するもので最古の仏典結集です。これ以前の第一回、第二回で外典とされた経典などは失われてしまったんでしょうね。
生前のゴータマ・シッダールタ/釈迦は、エリートだけで知識を囲い込むのではなく民衆をこそ救いたいとの思いを持っていたようです。バラモン教の間違いの染み付いたサンスクリット語を使わず、民衆/農民の使うパーリ語で述べさないとゴータマ・シッダールタ/釈迦は言っていました。だから、第三回仏典結集は民衆の言葉であるパーリ語を用いて行われました。
このとき、すでにいくつかの宗派があって、部派仏教と言われていたのですが大きく分かれてしまいます。根本分裂と言います。AD1054年のキリスト教の教会大分裂/シスマのようです。
部派仏教のうち、保守的でゴータマシッダールタの教えに忠実であろうという上座部(じょうざぶ)と言われる部派(宗派)の基本経典が作られます。上座部を信仰しているアショカ王は子のマヒンダをセイロン島への特使(特別な使い)として立てます。セイロン王のティッサの元へ遣わされ、上座部は普及していきます。インドから見て南に伝わったので、上座部は南伝仏教とも言われます。
一方で革新派の代表が大衆部(だいしゅぶ)です。
いづれにしても出家した僧たちの争いなので、一般の在家信徒は思想上も置き去りです。どの部派にも属していません。

ブラーフミー文字/梵字の創始はBC10世紀頃かもしれないけれど不明。最古の使用例はBC3世紀。ブラーフミー文字がこの時代に普及します。実際は梵字は二系統ありますが、そのうちのブラーフミー文字だけを梵字と表現することが入試では一般的です。ブラーフミー文字の漢訳が梵字なのでそうなったんです。
アショカ王の業績、訓示を刻んだ碑文は、石碑や辺境にある磨崖碑(まがいひ。地上から見上げた時に見えるように、崖に書いた文のこと)にブラーフミ文字で刻まれています
多くはダルマを刻んだものです。ダルマは仏教の言葉で法の意味です。人間の普遍的倫理の意味と考えても構いません。親、師匠、生命を尊重しなさいと書いてあるそうです。アショカ王はこのダルマに基づく政治を心掛けたと言われています。
人のための病院や動物病院も設置したのは、このためかもしれませんね。

アショーカ王の後には優れた王がいなかったと言われています。アショカ王が整備した大規模な官僚機構や軍隊が財政を圧迫したことと、地方勢力の離反が相次いだことで衰退しました。 仏教を保護したことで、バラモンが反発し、信徒を反政府活動に煽動した可能性もあります。
国家は分裂し、BC188/BC180年にマウリヤ朝マガダ王国は滅亡します。
ガンジス河の流域は シュンガ朝マガダ王国が支配します。
中央アジアでの匈奴の拡大により、各民族が少しづつ西へ西へと移動をし、イラン系ともスキタイ系とも言われるサカ(塞)族は西北インドのインダス流域に住み着きます。
デカン高原にはBC3世紀またはBC1世紀にドラヴィダ人(タミル人という表現に変わっていきます。この時代は過渡期かな)のサータヴァーハナ/サータバーハナ朝アーンドラ王国があります(AD236年に滅去)。 アーンドラ朝と言う学者もいます。都はプラティシュターナ(21世紀のパイタン)。 バラモン教を受け入れますが、仏教、ジャイナ教も排除していません。
南部はドラヴィダ人/タミル人がチョーラ朝を作っています。古代チョーラ朝(BC3世紀-AD3世紀)とも言います。AD9世紀-13世紀の後期チョーラ朝と区別するためです。
南部にドラヴィダ人/タミル人のパーンディヤ朝アーンドラ王国(BC1世紀またはAD1世紀に興り、AD3世紀の衰退を経てAD14世紀に滅亡)。都は東部のマドゥライ。最盛期にはセイロン北部を支配しました。
アーンドラ地方を占拠したときにアーンドラ王国の名がついたようですが、サータヴァーハナ/サータバーハナ朝と区別するために受験生は単にパーンディヤ朝と憶えておけばいいと思います。セイロン島はアーリア系のシンハラ国が支配しています。獅子が先祖と考えているようです。シンハラは獅子の意味です。
先生によると
「タイのシンハービールは、獅子のビールの意味だが、シンハラ人とは関係はない」
そうです。

□□中央アジア

匈奴には頭曼単于が現れます。単于は王のことです。BC2世紀後半、息子の冒頓(ぼくとつ)単于は父を殺します。匈奴の最盛期と言われます。
冒頓単于は月氏、楼蘭、東胡と呼ばれた烏丸(うがん)、鮮卑(せんぴ)をも支配しました。楼蘭は地域名で、1900年にヘディンが、さまよえる湖と形容したロプノール湖の近くです。月氏に支配されていたんですが、BC176年に匈奴の支配下に移ります。
匈奴は黄河と渭水に囲まれたオルドスへも侵入します。BC200年の平城/白登山の戦で前漢を破り、オルドスに支配を拡大します。
前漢と対立する匈奴では、子の老上単于、孫の軍臣単于が世襲していきます。
老上単于は、月氏王の頭蓋骨を杯にしたと言われています。匈奴は中央アジアと中国の交易路(西域)を確保します。こうなると経済的に孤立して、武力でも圧迫された西域では各民族のドミノ倒し現象が起こります。BC2世紀前半、月氏は敦煌(甘粛省)付近から西のイリ地方に移住します。サカ(塞)族は、旧バクトリア領土に入ります。
BC138年、漢の張騫が西域(中国から見て西の地域。オアシス都市のある地域)に出発したとき、ソグディアナにいた月氏は他の部族も支配下に置いて、大月氏と呼ばれていました。大月氏はフェルガナへ移動します。フェルガナにいた遊牧民(サカだと思います)は南下して、ガンダーラとバクトリア(前141ヘリオクレス王)を攻撃します。
東から来たトルコ系の烏孫がイリに定住すると、月氏は旧バクトリア領土に入ります。そして、アム川上流(ソグディアナ南部)に大月氏国を建国し、。BC1世紀にはアム川流域の大夏(トカラ/トハラかもしれませんが不明)を服属させます。サカ族の後に西北インドを支配したのはパルティアです。

□□東南アジア

BC3世紀の初めころ、中国を統一した秦が北ヴェトナムに侵入してきます。ここにいた百越という勢力は制圧されました。秦は中国南部に南海郡.桂林郡、ヴェトナム北部に象(しょう)郡を設置します。これら3郡は秦末の混乱に乗じて決起します。BC203年、越人が自立し、広東省、広西省からヴェトナム北部にかけて、南越国を建てます。BC202年に中国を統一した前漢は、南越王として存在を許します。臣下として支配、つまり冊封体制に入れます。冊封体制は、中国のところで説明を書きます。


□□中国

戦国時代(BC403年-BC221年)です。東周が存在しています。
前回、楚国の話が出たので先走って書いてしまいました(修正して消しました)が、屈原さんはこの時代の人です。戦国時代の後期ですね。
屈原さんは、江南の楚の王族で一時活躍しましたが、失脚して、BC278頃に自死します。政治家としては成功を収めたとは言えません。BC3世紀初頭、詩人として屈原さんの編集した楚の国の詩は、前漢の時代に劉向により再編集されて、「楚辞」として発表されます。中には屈原さんの「離騒」も収録してあります。だから、「楚辞」を書いたわけではないんですが、入試では屈原さんが著作者として出題されたことがあります。南方の「楚辞」、北方の「詩経」は中国の詩集の双璧とされています。「楚辞」(明治書院)が出版されています。詠み人知らずが当然だった詩の世界に、作者名を入れたのは屈原さんの発想だとも言われています。
この時代にも諸子百家はいます。
ちなみに諸子百家の分類はのちの王朝がなしたものなので、この時代は一部を除いて、こうした縦横家、陰陽家などの自称はなかったかもしれません。
儒家もいます。武力による覇道を否定し王道(徳治主義)を主張します。仁義などを説いていましたね。漢王朝以後に、皇帝が疑似家族の国家の親として、家父長制の最高権威に位置付けられるものとして、儒家の思想が援用されます。日本国民は天皇の赤子(せきし)に似ていますね。性悪説を説いた荀子は戦国時代の後期の人です。
陰陽家もいます。全てのものは、陰と陽に分けられると主張しています。男・火・光は陽、女・水・夜は陰。前に書いた伏羲が最初に言い出したと伝わっています。
農家というのもあります。許 行さんが第一人者のようです。私は内容を知りません。
合従連衡という言葉は、縦横家(じゅうおうか/しょうこうか)から出ています。外交術を研究するグループで、好敵手の蘇秦秦に仕えた張儀が有名です。
戦国時代の末期には秦が強大化していました。そこで、戦国の七雄のうち、秦を除く六か国(南北に並んでいます)の勢力が「縦」に手を結び秦に対抗する策「合従」を説いたのが蘇秦です。燕・趙・斉・魏・韓 ・楚が蘇秦の説得に応じて、秦に対抗するようになりました。蘇秦は合従同盟の長となって、なんと六カ国で同時に宰相となりました。すごいですね。
最西部の秦が東西に、横に個別に手を結ぶ「連衡」を解いたのが張儀です。
名前は蘇秦ですが、秦に対抗しています。
受験生は蘇秦張儀の縦横家・合従連衡と憶えましょう。先に言うほうがすべて蘇秦の関係です。

BC256年、東周が滅亡します。すでに洛邑付近の小さな勢力でしかなかったのですが、王位継承争いで分裂していました。そして、ある王は秦に領地を譲り、ある王は侵攻されて滅んだのです。

秦の勢力が拡大していきます。もう戦では勝てません。
漢の司馬遷がのちに記した「史記」という歴史書によると、周囲に誰もいないかのように燕の市で酔って歌い泣く振舞で「傍若無人」の由来となった荊軻(けいか)という人がいました。荊軻は、燕の命令で趙政(のちに始皇帝を名乗ります。当時は秦の王)の暗殺に赴きます。BC227年、領地を割譲する使いであると偽って、政の前に出ます。荊軻は匕首を忍ばせた地図を政に献上し、政の袖を取って刺そうとしましたが、袖がちぎれ、失敗します。政は剣が長すぎて抜けず、臣下と衛兵は武器不携帯の法により、素手でした。侍医の夏無且(かむしょ)が薬箱を荊軻に投げつけると、荊軻がひるんだ隙に左右から「王よ、剣を背負われよ!」と声が飛び、政は剣を背中の方へ回して、背負うような形で剣を抜き、荊軻を斬り殺したという伝説が残っています。「始皇帝暗殺」という映画になっています。

諸子百家で秦王国、及びその後の秦帝国に仕えたのが法家です。
「聖人君子でも世を正すのに苦労するのに、聖人が頻繁に世に出るわけはない。だから、信賞必罰の連帯責任で御互いに監視させよう。仕事を与えてきっちり守らせる。
融通はなく、法/規則に則り仕事をするからいいのであって、個人で動いたら無秩序になってしまう。良かれと思ってした行為だとしても、職責を越えた行為なら罰する。そうしないと官僚制が壊れてしまう。法を守った官僚制があれば、聖人なんて不要だ。」という主張です。信賞必罰は、いいことをすれば賞(褒美)を与えるし、悪いことをすれば必ず罰を与える、情状酌量がないという杓子定規の思想です。
商鞅(しょうおう。紀元前390年 - 紀元前338年) 。中国統一前の秦(先秦とも言います)の孝公に仕えました。商鞅の変法/改革と言われる改革を行います。武功に対する成果主義、富国強兵策や什伍の制(じゅうごのせい)を行いました。什伍の制は都市と農村の住民を十人からなる什、または五人からなる伍(軍隊の伍長の由来でしょうか)にまとめます。相互監視と連帯責任の仕組みです。日本で言えば戦時中の隣組のような隣保(りんぽ)制度の嚆矢(こうし。始まり、初例のことです)ですね。北魏の三長制、明の里甲制、江戸時代の五人組などに継承されていきます。
信賞必罰なので、人間の情とは相いれません。商鞅の変法に抵抗する人は多かったようです。商鞅は亡命を計画中に、孝公の息子の恵文王に殺されたそうです。
刑法である律の制定は商鞅の改革/変法から始まります。律は笞 (ち) ・杖 (じょう)・徒 (ず)・流 (る)・死の5刑を中心とする刑法です。鞭打ち、杖打ち、配流、死罪はわかりますね。徒罪(ずざい)は労働刑のことです。懲役刑の役も労働刑を意味しています。単に刑務所に入れる罰ではありません。労働なしで刑務所に入るのは、禁錮刑、拘禁刑と言います。
韓非子/韓非(かんぴ)は、儒家の荀子の弟子です。荀子は性悪説を主張していますから、信賞必罰の法家の思想に近いと言えます。性悪説だから秩序維持のためには法で縛らないといけません。儒家の聖人君子は理想だけれど、君子の舜でさえ国を治めるのに三年かかった、さらにそんな君子が次々と出てくる保証はないと考えたんですね。秦の王である趙政に雇われて、法家思想を大成したと言われます。法家ともいうのも後から見れば商鞅と韓非子は同じグループということであって、韓非子が商鞅のなしたことから何かを学んだかどうかはわかりません。
李斯(りし)も荀子の弟子です。秦の始皇帝が李斯を宰相に採用し、法家思想に則った法治国家を作るんです。
④管仲。官僚制が大事と考えて、世襲よりも結果と能力を重視しました。連帯責任で互いに監視して競わせて、軍功があれば出世させるので、臣下は戦争に駆り立てられました。

BC221年、秦帝国の建国。つまり、他の六か国は支配下に入りました。
趙政さんは他の王の上に立つ存在ということで、皇帝という呼称を名乗ります。初めての皇帝なので、始皇帝と言われます。

首都は陝西省(せんせいしょう)の咸陽(かんよう)。西安の近郊で、渭水を挟んで北西にあります。上の地図で言うと、関中にある黒丸のうち上のほうです。宮殿を阿房宮と言います。
下の黒丸は、漢の都(鎬京)です。函谷関(かんこくかん)という関所を境にして、関中と中原が分かれています。山海関(さんかいかん)は、当時の万里の長城の東の端にあった関所です。この関所の東を関東と言います。日本でも箱根の関所の東にある地方を、中国の地名にあやかって関東地方と名づけました。

始皇帝は、李斯を丞相に就任させて、法家思想で国内を統一します。
度量衡を統一します。国によって異なっていた長さの単位、量の単位、重さの単位を統一しました。実際には、それらを計測する物差し、枡(ます)、秤(はかり)の長さ、大きさなどを指定しました。
文字も統一しました。各国は篆書(てんしょ。大篆とも言います)という書体の漢字を使っていました。篆刻ということばがあるように、石や木に刻むので滑らかな曲線の文字ではないんです。アルファベットの大文字と同じですね。この篆書は各国でばらばらだったので、始皇帝は秦の篆書=秦篆を強制しました。これを小篆とも言います。つまり、中国初の統一文字ということです。書かれる素材としては、竹簡(竹を割って細長くしたもの)、木簡(木を切って細長くしたもの)、すべすべしていない紙もありました。世界中で石碑は縦長ですし、石窟の建築や絵画は横長ですが、紙の形はそれを継承していません。おそらく中国の絵、書などの紙が縦長なのは、木簡、竹簡の形を継承しているんだと思います。
すべすべしていない紙に書く隷書(れいしょ)もありましたが、紙自体が少ないので文字も普及はしていません。仰韶文化には筆ではないかと言われる文字の跡がありますが、21世紀に現存している最古の筆は、戦国時代の楚の筆です。長さ16㎝で、兎の毛を使っています。匈奴を討った蒙恬はいくつかの種類の毛を混ぜる発想をして、筆を改良しました。兎だけだと採取が追いつかなかったのかな。筆が改良されたおかげで、隷書のような柔らかな曲線を多用する文字が、今後普及していくことになります。
初の統一貨幣を半両銭と言います。両というのは重さの単位で、その半分なので半両銭と言います。以降の貨幣の型の標準になります。戦国時代に使っていた円銭/環銭は、五円玉と同じで、中の孔(あな)が丸でしたが、半両銭は□の孔です。ちなみに孔は貫通していて、穴は窪んでいるだけのあなを意味します。
貨幣の歴史はまとめて出題されることがあるので注意しましょう。前漢で使われる五銖銭(ごしゅせん)は隋までは名称の標準になります。唐で使われる開元通宝は以降の重量の標準になります。

始皇帝は、各国が作っていた城壁のうち、国内の六か国の城壁は撤去させました。そして、異民族の攻めてくる北方への防備に使える部分をつなげました。入試では、万里の長城を修復したと表現されます。
国際的な交流を盛んにして、北方の異民族も容易には攻めてこられなかった唐の時代には、頂上は放置されていました。明の時代に、永楽帝が修理を開始します。土木の変(1449年)以降は版築(突き固める)の土塁に加えて、表面を煉瓦にしました。21世紀に残る長城の大部分は、この明の時代に作られたものです。
始皇帝は、蒙恬(もうてん)将軍に匈奴を撃破させて、渭水と黄河に挟まれたオルドスを回復しました。馳道(ちどう)と言われる幹線道路も作ります。ペルシアの王の道と同じで、軍を早く移動させるためだったと思います。帝国が作られると街道を作るのはよくあることです。ローマのアッピア街道もそうですし、日本でも敵の国を支配するようになると五街道を作りました。実際には、以前からあった道を拡張して整備するのが一般的だと思います。
北ヴェトナムに侵攻して、百越という勢力を制圧します。そして、南海郡、桂林郡、象郡(しょうぐん)を設置します。郡なので皇帝の直轄地と分かります。

郡県制の採用。全国を36の郡(その下に県を置く)に分けました。皇帝の直轄地です。中央(皇帝。咸陽の宮廷)から皇帝の氏族を派遣して管理します。つまり、廃藩置県で、国主(大名)を廃止するのと同じです。中央集権体制の基礎ができます。実は、戦国時代の秦王国も採用していたんですが、これを拡大したんです。郡県制に反対する人たちもいました。主に儒学者(儒者)だったのですが、彼らを弾圧します。思想は法家で統一したと言っても、国政レベルのことであって、民がどんな思想を持っていても取り締まりの対象にはなりません。ただ、皇帝の政治に反対したので弾圧したんです。焚書坑儒と言われます。焚書(ふんしょ)は、本を焼くこと。医学、占い、農業書は焚書されなかったと言われています。これで、この時代の儒学の経典/古文は消滅したと思われました。後で発見されます。坑儒(こうじゅ)は、儒学者を坑/穴に生き埋めにすることですが、事実かどうかははっきりしません。

官制は以下です。
中央         地方36郡      地方の大県 小県
行政 丞相    郡守(長官)-郡丞(次官) 県令-県丞 県長(人口1                            万人以下の県)
軍政 太尉    郡尉(指揮官)      県尉
監察 御史大夫  郡監/御史/監御史

中央政府の行政を担当するトップの人を丞相(じょうしょう)と言います。首相のようなものですね。中央政府の軍政を担当するトップの人を太尉と言います。中央政府の監察(不正がないかを見張る役)を担当するトップの人を御史大夫(ぎょしたいふ)と言います。地方には36の郡があって、その長官を郡守と言います。知事みたいなものですね。郡監は、隋以降は監察御史と改称されます。   

狩猟採集生活ではAがBに名目的に従っていれば、BはAの縄張りを認めます。一種の封建制です。農耕を始めると階級が生まれます。管理する官僚が必要になるので、Bは自分の氏族を遠隔地にも派遣して管理する中央集権的な体制になります。秦の時代には封建制をやめたんです。
とは言え、これは一時的なもので、中央集権は独裁化しやすいので、地方が決起して、再び封建制に戻ることが多いですね。
封建制は衣類・給食・住居・土地などを与える代わりに、主に軍役があるという主従関係を言います。その関係が国家レベルで王から末端の騎士までつながりを持つと封建国家と言います。但し、中国では皇帝の臣下は王です。王の臣下は領主、領主の臣下はという具合につながっていて、帝は王以外と主従関係を持ちません。王の周りにいる官吏は雇われていますが、封建関係とは言いません。雇用関係です。中世のヨーロッパの封建制は、王と騎士も直接に契約を結んでいます。そして、雇用主が二人いても構いません。中国では主君は一人なので、琉球が清、薩摩の両方の属国になっていることは許されないことでした。だから、薩摩は清にはそのことを隠すように琉球に言っていたんです。
封土は封じられる、任される土地のことを言います。封土は土地の所有権ではなく、基本的に貸与、管理権/統治権の委託です。主に徴税権、土地にいる人民の使役権です。所有権はないので、日本でも将軍が大名を改易/引っ越しさせることができるし、取り上げることができるのです。子会社の雇われ社長のようなものなのです。しかも、形式的には将軍も天皇から土地を借りていることになっていました。だから、代替わりのたびに版籍奉還をしていたんです。明治の初めに、代替わりでもないのに版籍奉還をするように各国/各藩を説得できたのも今までもやってきたことだったからです。永久に版籍(土地と民)が戻ってこないとは思わなかったでしょうけどね。

始皇帝は、戦国時代のBC4世紀から商鞅が開始していたと言われる什伍(じゅうご)の制/法も施行します。村を10の戸、5の戸というグループに分けて、互いを監視させます。脱税と反乱を防ぐために、納税と秩序を連帯責任にした制度です。戸籍制度も秦の時代に始まりました。詳しくは知りませんが、おそらく成人した男性だけを記録していたと思います。

始皇帝廟の一施設である兵馬俑坑(へいばようこう)は、 1974年に発掘されて、約8000体の人形/俑(よう)が発見されたことで有名です。
始皇帝の没後、二世の皇帝は若かったようです。それで宦官の趙高が専横します。
宦官(かんがん)は、生殖器を取った男性の官吏のことです。皇帝も王も世襲をしたいので、自分の血を引いた子を残したい。それで妻が何人もいたりします。妻が別の男性の子供を生んでいるのに、皇帝の子だと主張することもあるかもしれません。けれど、一切、男性を近づけないことは現実的ではありません。皇帝の言付けを伝える役もいるでしょうしね。それで宦官を採用したんです。彼らは子供を遺せませんから、自分がクーデタを起こす気もなさそうですし、安心して皇帝の周囲に置けます。実際には、権力欲を満たしたい宦官が幼い皇帝を思いのままに動かしたり、血がつながっているので甥を皇帝にしようと画策したりもするんです。
高官として出世するために、敢えて、自分から宦官になる人もいたようです。

陳勝・呉広の乱がBC209年から起こります。徴用(公務強制)への中国初の農民反乱と言われます。国境地域へ農民を引率する役目があった陳勝、呉広は洪水で川を渡れませんでした。期日までに到着できないと、死罪と決定しています。それならば決起をということだったようです。信賞必罰の法家を採用する国家にあっては当然起こりうる事態です。
入試の関係上、時の政府、王朝の秩序が正しく、それを乱すものは「乱、反乱」で悪いもの、だから「鎮圧、鎮定」して秩序を戻すという意味の表現を使うことがあります。先生は「この表現はおかしい、反乱でなく決起を使うべきだ」と言うんですが、入試用語としてどうしても使うことはあるので、一応書いておきました。
歴史にはいくつも名言があります。名言は、有名な言葉のことで、素晴らしい言葉、の意味はありません。こうした語句の説明が多いのは、国語力が足りなくても歴史を学んでほしいからです。たいていの教科書、参考書は国語力がかなり高い人が読むことを前提にして書かれていると思います。けれど、結局理解できないと意味がありません。そういうわけなので、国語力の高い人には煩わしいでしょうけれど、承知しておいてくださいね。

陳勝の思想を表す名言があります。
王侯将相いずくんぞ種あらんや」。
国王、諸侯、将軍、丞相などがいるが、どこに種別があると言うのだ?ということです。反語ですね。
生まれで種別などおかしい、そんなものはないと、身分制を否定したんです。力があれば誰でも皇帝になれるぞということです。戦国時代を力で制した秦が典型ですからね。
決起は抑えられましたが、これに乗じて、楚の将軍の血筋を持つ項羽などの保守派の貴族と、劉邦などの革新的な貴族が争い、地方にも紛争が拡大します。郡県制に相当反発があったんでしょうね。項羽は咸陽に火を放ちました。これで貴重な書も燃えました。
BC206年、秦(しん)は滅亡します。 15年間の王朝でした。皇帝でも、王家、王朝と言います。
AD8年-AD23年の新(しん)王朝も 15年間の王朝です。受験生は憶えておきましょう。

項羽は王を名乗り、四川省の劉邦を含む18人を王として各地に自治を認めました。けれど、勢力で優る劉邦が、BC202年、垓下の戦(がいかのたたかい)で項羽を討ち果たします。
垓下の戦(がいかのたたかい)では、四面楚歌の言葉が生まれます。城を包囲された項羽は、包囲している敵方から楚の歌が聞こえてくることを不審に思います。味方であるはずの楚の人ですら敵についたと思ったんです。負けて捕虜になったり、実際に寝返った人もいたようです。項羽は、愛人の虞美人(ぐびじん)に対して、「虞よ 虞よ 汝をいかんせん」と嘆いています。

BC202年、劉邦が長安を都として漢王朝(前漢)を建てます。歴史的には劉邦は、高祖と言われます。 贈り名です。亡くなった後に、その人を表す名をつけるんです。仏教でいう戒名に近いのかな。
BC200年、平城/白登山の戦で、漢は匈奴に負けます。匈奴は、オルドスに支配を拡大します。
平城は、21世紀に大同と言われている都市です。地図を見ておきましょう。

高祖は、全国の文字を隷書で統一します。21世紀の漢字とほとんど違いはありません。
高祖は秦から教訓を得て、郡国制を採用します。中央では氏族を派遣して直轄支配をします。つまり郡県制です。周辺/地方にはやはり氏族を派遣して王位を認め、自治権/封建領土を与えます。一族以外のものでも封建領を封じられる、授与されることはありましたが。つまり郡県制と封建制の併用です。これを郡国制と言います。ただし高祖は、王を廃止することは予告しています。おそらく世襲はできずに一代限りというつもりだったんでしょう。自国の出身でなくても、王がいる王国ということで民は納得したのかもしれませんね。
結局、封建領土は相続などで徐々に細分化されていって、BC2世紀半ばには、ほぼ郡県制によって統治されることになります。
高祖は、州・郡・県の下に、郷・亭・里という行政単位を置きました。州は13あって、これを監察する刺史(しし)を置きました。州に刺史、郡に郡監/御史刺史です。魏の時代には、刺史は軍の長官に匹敵する権力を与えられました。

国内では郡国制として周辺の領地を任せ王として認めましたが、国外の周辺勢力に対しては中国皇帝に仕える王として認めました。これを冊封体制と言います。さっぷう、さっぽう、さくほうとも読みます。
冊封は世界の中心は我々であるという中華思想に基づいています。
中央は文化を持つので中華と言い、周辺は野蛮なので、夷(い)と言われます。これを華夷の区別と言います。南蛮などの説明のときにも、少し書きましたね。

皆伝08 東アジアの地図 中原 - コピー

中心の地域は当初は中原(ちゅうげん)と言われる地域でした。
中原と中国は当初は同じ意味でした。世界の真ん中にある国です。
時が経つとその範囲は拡大します。薄い黄色です。
ここから起こった王朝が正統な王朝であると言われます。
洛陽のあたりですね。
思想と実際は異なるので、関中の鎬京から始まった西周は正統ですし、前漢もそうですね。異民族の王朝は北方から来たので、後から都を中原においても正統とは見なされないんですけどね。
中華である漢人が皇帝となった国の下に、周辺の国王がいます。
冊封は皇帝から王位、官位、(のちに元号も)を受け取ることです。
朝鮮半島にある衛氏の場合は王と認められました。そして、その地域の支配を委任されます。属国(服属国のこと)扱いです。
これは形式的なことなので、実際にはジュニアパートナーとして同盟を結んでいるという感じですね。
つまり封建制と同じです。
皇帝として王位、その領地を認めるので、敬意を表して貢物(みつぎもの)をよこしなさいという関係です。朝廷への貢物をするので、朝貢と言います。

BC154年から、呉楚七国の乱が起こります。各国の王として封じられた劉邦の一族が、第六代の景帝の治世になって、領地縮減に対し反乱を起こしたんです。
受験生は、中国歴代王朝における王族のクーデタを三つ憶える必要があります。
前漢の呉楚七国の乱、匈奴を用いて鎮圧した西晋の八王の乱、1399年-1402年に起こった明の恵帝建文帝から成祖永楽帝へと替わった靖難の役です。
BC141年には武帝が即位します
世界初の元号を作ります。
作ったのは次の時代ですが、30年くらい遡って、元号を名付けることにしたので、BC140年を建元元年としました。
武帝はBC87年までに様々なことをするんですが、主な事業は次の時代に行っています。


□□朝鮮半島

実在未確認の王朝として、BC350年頃に箕氏(きし)王朝が存在したという伝承があります。
BC190年ころ、漢人の衛満(えいまん)が王朝を建てます。衛氏王朝と言います。漢人の植民国ですね。漢(前漢)から王位を認められる冊封(さくふう、さくほう)を受けます。


□□日本列島

弥生時代は稲作農耕、環濠集落、鉄器が条件の時代です。
けれど、稲作が入った時点で弥生時代の始まりとするのが学者の主流になっています。
青銅器が土産のようにして半島から少数持ち込まれたことはありますが、本格的に青銅器が持ち込まれたのはBC4世紀頃と遅いんです。
銅剣は北九州を中心に細い型が分布しています。平型が瀬戸内海を中心に分布しています。
銅鉾は北九州から瀬戸内海西部、銅鐸は瀬戸内海東部から福井、岐阜、浜名湖まで分布しています。
福岡県春日市の須玖(すぐ)タカウタ遺跡は、弥生時代中期の前半(BC2世紀)に「奴国」の中心地でした。ここで、銅剣の高級装飾品である把頭飾(はとうしょく)の土製鋳型の一部が出土しました。銅剣を握る柄の先端に付ける飾りですが、これは権力者の象徴です。半島伝来の把頭飾が、直後に国内でも作られたようです。生産技術は当初から高度で、既製品を原型にして、複製品を大量生産したようです。青銅製の把頭飾は全国で約20点出土しています。この鋳型と同型の把頭飾は、柄と把頭飾を一体として鋳造した銅剣で有名な吉野ケ里遺跡(佐賀県)や、岸田遺跡(福岡県)などから11点の出土例があり、国産の証拠が強くなりました。もちろん、職人は半島からの人である可能性はあります。半島の原型をロウで固めて、その周りを土で固めます。その後に、熱でロウを溶かして空洞を作ります。その空洞に青銅を注いで製品を作ったようです。出土したのは製品を取り出す際に壊された残骸です。把頭飾の土製鋳型は朝鮮半島でも出土していないため貴重な発見のようです。須玖タカウタ遺跡からは、国内最古の青銅鏡の石製鋳型も出土しています。

鉄器も本格的にはBC4世紀頃と言われます。
2017年に石川県から出土した、完璧に近い形の槍かんなが最古かもしれません。片手でナイフのようにして表面を削ぐ鉋(かんな)です。21世紀に普及している台鉋(だいかんな)は室町時代に舶来(はくらい。外国から来ること)したようです。
環壕集落、空堀を周囲にめぐらした村はBC4世紀-BC2世紀頃に登場します。
弥生時代中期には、南関東までが石器を終え鉄器時代に入っています。
この時代には、既に関東や関西などの「地方」の規模に加えて、さらに細分化された「地域」ごとの文化的まとまりがみられます。例えば、南関東・山陽・山陰・尾張・伊勢・美濃などは文化圏と言える状態になっていました。土器、埋葬などに地域の特徴が出るんですね。地方言葉ももうあったでしょうね。

□□アメリカ大陸 
□□北米

オハイオでトウモロコシ栽培を開始(広範囲ではAD800~)

□□中米

BC300年ころ、オルメカ文明が消滅します。原因は知りません。
BC400年ころ、と言う学者もいます。

メキシコ中央高地では、都市国家クィクィルコが繁栄しています。4㎢に2万人が暮らしていました。高さ20mの四層からなる円形ピラミッドを作っていました。正月の餅のようです、餅は二段ですけどね。幾何学文様の高さ4mの石柱も立てられました。
BC150年ころからは、テオティワカン文明が発生します。円や四角の抽象的な文様が特徴です。クィクィルコの幾何学模様を継承しているんでしょう。公用語は不明。雨の神トラロック、羽毛の生えた蛇ケツァルコルトルを信仰しています。 テオティワカンは神々の場所の意味です。都市名でもあり文明名でもあります。

サポテカ文明では、モンテアルバンがいよいよ拡大していきます。8つの球技場、20以上の神殿ピラミッドがあって、高さ4mの防御壁で都市を囲んでいます。
支配下のダインス遺跡では、中米で一般的なゴムでなく、石の球を素手で球技したようです。石の球が当たる音は雷鳴の象徴ではないかという学者もいます。
踊る人と言われる絵は捕虜で、供犠に利用されました。中米では戦争も儀式の一つとされる場合があって、神に捧げる供物として高貴な人を捕虜に取るための戦をしたり、儀式なので双方が示し合わせて戦の時期を決めることもあったそうです。もちろん儀式ではない争いもありました。
薄手のオレンジ色の土器はテオティワカン文明との交流を示しています。征服地の地名などを示す図番を刻んだ石板や、その石板をはめ込む壁を持つ建築もあります。
マヤ地域では、前200年ころからカミナルフユが最盛期を迎えています。この地域では最大の都市遺跡で、高さ20mの神殿ピラミッド、12の球技場、5㎢の市域を持っています。人身供犠の王墓も発見されています。パチューカから緑色の黒曜石も入手していました。タルータブレロ洋式の建築もあります。
エルミラドールは特定の季節に現れる低湿地/バホの周辺に16㎢以上に広がっていた都市です。4mの防御壁で囲まれています。高さ72mのダンタピラミッド、高さ55mのティグレピラミッド、高さ48mのモノスピラミッドが有名です。ピラミッドに使う切石は500kg-1400kgと破格の重さです。外壁は多彩色の漆喰で神々が描かれています。石碑に最古のマヤ文字が記されています。長さ400m、幅90mの複合建築/様々な機能を持った建築の集合体も作られました。

□□南米

ここは出題されたことはないと思います。この時代のこの地域の歴史はわかっているのに、教科書や参考書が空白なのはおかしいと思って先生が話してくれているので、書いてしまいます。
エクアドル海岸部では、BC300年ころからグァンガラ文化が栄えています。魚網や、マニオクかトウモロコシをすりつぶして食べるための紡錘車が出土しています。鼻飾りの土偶もありました。
ハマコアケ文化には、種を入れる袋を持つ土偶など、農耕と関連した像が多いそうです。右手を挙げる、頬杖をつく姿もあるそうで、神官なのではないかという学者もいます。

ペルー北海岸では、砂漠地帯で山の頂上部近くにモロデエテンという都市があり、二段の神殿が作られました。傾斜地なので住居にはテラスがありました。
この地域では、鹿骨のへら、石炭製の鏡、イガイの殻の副葬などがありました。
ティティカカ盆地では、ティワナク文化の基層が作られる時代です。


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今回はBC334年-BC133年の世界を書きました。
次回はBC133年-BC27年の世界を書きます。
カエサル、ガンダーラ文化、漢の武帝などの時代ですね。
次の皆伝09はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/nb1da3216557a

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